あっという間にテーブルの上が朱色で染まっていく。
花蓮さんと控室から出てきた理沙さんが慌てながら片づけをしてくれる。床に落ちたりはしていないようだけど、おそらく制服に少しかかったかもしれない。
けれども、うわの空だったわたしはなにも考えられなかった。ティーカップを落としたことも、ふたりが一生懸命に片付けていることも、瞳では映しているのに、わたしの頭は理解を拒絶してしまっていた。
ある程度片付いたところで、花蓮さんがわたしを手を握る。そうしてやっと我に返った。
「......ねえ未香、教えて。きみはなにを見たの? なにをしようとしたの?」
花蓮さんは顔をしっかりこちらを向いている。真面目な表情でわたしの方を見つめていた。それでいて、瞳は希望を見つけたいときらめいていた。
「わたしの小学生の頃なんです。川で遊んでいたら、小さな子どもが流れてきたんです......」
これが、今まで凍りついていた記憶。
人に話すのは、これがはじめてだった......。
・・・
小学生のいつの頃だっただろう。
春めいた日に親戚で河原に集まってバーベキューをしたことがあった。年齢の近い子は居なかったし大人たちはビールを飲んでばかりだし、たくさん食べられないわたしはすぐに飽きてしまった。
仕方なく川で遊んでいる。誰かがあんまり遠くに行かないでねと声をかけてくれたけれど、なんだかわたしには興味がないみたい。
ふてくされてしまって、ひとりで散歩をはじめる。
何気なく上流へ向けて歩いていると、少しずつ雪が積もっているのが見て取れた。そういえば、この地域は最近まで雪が降っていたんだっけとニュースを思い出していた。
たしかに川は雪解け水で水量が上がっているみたいだった。
ここでも遊んでみようかな。河原のゆるい流れとはなにか違うかもしれない。ちょっとした興味本位で、川に足をつけてみる。
足元に意識をしていないとすぐに転んでしまいそう。おそるおそる川を渡ろうとしてみる。もうちょっとだけ中ほどまで歩いてみよう。そう思った時だった、わたしの集中を切り裂く出来事が起きてしまう。
遠くから泣き声が聞こえる。しかも、人間の。
どういうことだろうか。どこからだろうか。辺りを見渡してみる。
すると、川のさらなる上流から子どもが流れてきた。ああ、なんてことだろう!
助けなきゃ、わたしは夢中で駆け出していく。慌てたわたしはその場で足を滑らせてしまう。けれども、膝をついている場合じゃない。急いで立ち上がった。
わたしは川の中腹で足を踏ん張ってかまえる。両手を大きく広げて、自らの身体ごと使って抱きしめれば、受け止められるかもしれない。
ああ、もう近づいてくる。あっという間だった。
わたしは広げた腕をうんと前の方に伸ばす。すると、あの子も分かってくれたみたいだ。こちらに向けて手を広げてくる。
けれども、指先が触れただけだった......。
慌てて振り返ってみても、もう子どもは流されてしまってとうてい届かなかった。
わたしはその場で泣き崩れた。
・・・
「けっきょく、下流で親戚が救助したんですけど、もう意識がなかったらしくって。わたしが慌てて戻ったところで、間に合いませんでした」
わたしはうつむきながら一部始終を話していった。もう少し腕を伸ばしていたら、冷静になって大人を呼びに行ってたら。いろんなことを考えられたはずなのに、わたしはなにもできなかった。
「わたしが最後に見たのは、家族が子どもを車で運んで行くところだけ。花蓮さんのお子さんだって判断できる訳じゃないけれど、わたしのせいでその子は......」
......ごめんなさい、ごめんなさい!!
彼女に謝ってもしょうがない。けれども、大粒の涙を流してその場で泣きだした。
分かっているのはただひとつ。――偶然なのか必然なのか、神様しか知らないということだけ。
静かな空間に、わたしの嗚咽だけが広がる。
花蓮さんはなにも言わない。けれども、わたしの肩にひざ掛けをかけてくれた。
「たくさん涙を流しなさい、それはリラックスにつながるから」
無言のやさしさに包まれている。とても気持ちの良い感触だった......。
・・・
......わたしはなんでこんなにも泣いているんだろう。
......幼い頃から、そうだった気がする。
もう涙も止まってきて、やっと顔を上げることができた。
花蓮さんは窓の外を向いて景色を眺めていた。いつの間にか雨は強く降り続いていて、どこか遠くから雷が聞こえる気がする。
「......春雷、ね」
彼女がぽつりとつぶやいた。そういう言葉があるんだ。空は雲が覆っていて鈍色で覆いつくされていた。次第に黒くなっていくだろう。
その光景を見ていると、つい心がきゅうっと苦しくなる。
貴女の瞳はなにを映しているんだろう。
貴女の中でなにを考えているんだろう。
わたしはおそるおそる聞くしかなかった。
「......花蓮さんは、わたしの話を信じてくれますか」
「......もちろん」
驚いてしまうのも仕方なかった。だって、わたしは貴女の子どもを......。ここまで言おうとして止めた。たとえわたしはあの子を救えなかったとしても、これは水をかけてしまうだけ。
「そう、正直に話してくれたのは嬉しいの。でも、それはほんとうに私の子どもだったのかな? 私はきみと会ったのかな?」
「......ですよね」
ほんとうのことは、神様しか知らない。だから、なんて言えばよいのか分からず、ふたりでさまよっていた。
花蓮さんはこちらを見て話しはじめる。ティーカップを置いて、大事なことを話すんだとテレパシーを飛ばしてくる。
「でもね、よく聞いて未香。きみは大切なことができたんだよ。助けようとしてくれた、それだけで立派なことなの」
......でも、わたしは。思わず食いついて返した。
「わたしは助けられなかったじゃん!」
「助けようとした。まず決めてやり遂げようとした。それが分からないかしら?」
反論しようとした。なにごともできていないから。みんなが決めていることを、わたしはなにもできていない。やりたいことのひとつも見つけられない。なにより、子どもだって助けていない。
結果が大事だと思っているから。
それなのに、これから先になにを言おうとしても言葉が出てこない。
「......いいんだよ、未香は未香のままで」
花蓮さんの声色が変わった気がした。さっきの毛布みたいなあたたかさを感じる。
諭すような口調でも、ましてや怒るようすでもない。
そうだよね、わたしはやっと気づいたんだ。貴女の言葉は愛にあふれているんだ。やさしい声で彼女は告げた。
「やさしいきみでいてね」
花蓮さんと控室から出てきた理沙さんが慌てながら片づけをしてくれる。床に落ちたりはしていないようだけど、おそらく制服に少しかかったかもしれない。
けれども、うわの空だったわたしはなにも考えられなかった。ティーカップを落としたことも、ふたりが一生懸命に片付けていることも、瞳では映しているのに、わたしの頭は理解を拒絶してしまっていた。
ある程度片付いたところで、花蓮さんがわたしを手を握る。そうしてやっと我に返った。
「......ねえ未香、教えて。きみはなにを見たの? なにをしようとしたの?」
花蓮さんは顔をしっかりこちらを向いている。真面目な表情でわたしの方を見つめていた。それでいて、瞳は希望を見つけたいときらめいていた。
「わたしの小学生の頃なんです。川で遊んでいたら、小さな子どもが流れてきたんです......」
これが、今まで凍りついていた記憶。
人に話すのは、これがはじめてだった......。
・・・
小学生のいつの頃だっただろう。
春めいた日に親戚で河原に集まってバーベキューをしたことがあった。年齢の近い子は居なかったし大人たちはビールを飲んでばかりだし、たくさん食べられないわたしはすぐに飽きてしまった。
仕方なく川で遊んでいる。誰かがあんまり遠くに行かないでねと声をかけてくれたけれど、なんだかわたしには興味がないみたい。
ふてくされてしまって、ひとりで散歩をはじめる。
何気なく上流へ向けて歩いていると、少しずつ雪が積もっているのが見て取れた。そういえば、この地域は最近まで雪が降っていたんだっけとニュースを思い出していた。
たしかに川は雪解け水で水量が上がっているみたいだった。
ここでも遊んでみようかな。河原のゆるい流れとはなにか違うかもしれない。ちょっとした興味本位で、川に足をつけてみる。
足元に意識をしていないとすぐに転んでしまいそう。おそるおそる川を渡ろうとしてみる。もうちょっとだけ中ほどまで歩いてみよう。そう思った時だった、わたしの集中を切り裂く出来事が起きてしまう。
遠くから泣き声が聞こえる。しかも、人間の。
どういうことだろうか。どこからだろうか。辺りを見渡してみる。
すると、川のさらなる上流から子どもが流れてきた。ああ、なんてことだろう!
助けなきゃ、わたしは夢中で駆け出していく。慌てたわたしはその場で足を滑らせてしまう。けれども、膝をついている場合じゃない。急いで立ち上がった。
わたしは川の中腹で足を踏ん張ってかまえる。両手を大きく広げて、自らの身体ごと使って抱きしめれば、受け止められるかもしれない。
ああ、もう近づいてくる。あっという間だった。
わたしは広げた腕をうんと前の方に伸ばす。すると、あの子も分かってくれたみたいだ。こちらに向けて手を広げてくる。
けれども、指先が触れただけだった......。
慌てて振り返ってみても、もう子どもは流されてしまってとうてい届かなかった。
わたしはその場で泣き崩れた。
・・・
「けっきょく、下流で親戚が救助したんですけど、もう意識がなかったらしくって。わたしが慌てて戻ったところで、間に合いませんでした」
わたしはうつむきながら一部始終を話していった。もう少し腕を伸ばしていたら、冷静になって大人を呼びに行ってたら。いろんなことを考えられたはずなのに、わたしはなにもできなかった。
「わたしが最後に見たのは、家族が子どもを車で運んで行くところだけ。花蓮さんのお子さんだって判断できる訳じゃないけれど、わたしのせいでその子は......」
......ごめんなさい、ごめんなさい!!
彼女に謝ってもしょうがない。けれども、大粒の涙を流してその場で泣きだした。
分かっているのはただひとつ。――偶然なのか必然なのか、神様しか知らないということだけ。
静かな空間に、わたしの嗚咽だけが広がる。
花蓮さんはなにも言わない。けれども、わたしの肩にひざ掛けをかけてくれた。
「たくさん涙を流しなさい、それはリラックスにつながるから」
無言のやさしさに包まれている。とても気持ちの良い感触だった......。
・・・
......わたしはなんでこんなにも泣いているんだろう。
......幼い頃から、そうだった気がする。
もう涙も止まってきて、やっと顔を上げることができた。
花蓮さんは窓の外を向いて景色を眺めていた。いつの間にか雨は強く降り続いていて、どこか遠くから雷が聞こえる気がする。
「......春雷、ね」
彼女がぽつりとつぶやいた。そういう言葉があるんだ。空は雲が覆っていて鈍色で覆いつくされていた。次第に黒くなっていくだろう。
その光景を見ていると、つい心がきゅうっと苦しくなる。
貴女の瞳はなにを映しているんだろう。
貴女の中でなにを考えているんだろう。
わたしはおそるおそる聞くしかなかった。
「......花蓮さんは、わたしの話を信じてくれますか」
「......もちろん」
驚いてしまうのも仕方なかった。だって、わたしは貴女の子どもを......。ここまで言おうとして止めた。たとえわたしはあの子を救えなかったとしても、これは水をかけてしまうだけ。
「そう、正直に話してくれたのは嬉しいの。でも、それはほんとうに私の子どもだったのかな? 私はきみと会ったのかな?」
「......ですよね」
ほんとうのことは、神様しか知らない。だから、なんて言えばよいのか分からず、ふたりでさまよっていた。
花蓮さんはこちらを見て話しはじめる。ティーカップを置いて、大事なことを話すんだとテレパシーを飛ばしてくる。
「でもね、よく聞いて未香。きみは大切なことができたんだよ。助けようとしてくれた、それだけで立派なことなの」
......でも、わたしは。思わず食いついて返した。
「わたしは助けられなかったじゃん!」
「助けようとした。まず決めてやり遂げようとした。それが分からないかしら?」
反論しようとした。なにごともできていないから。みんなが決めていることを、わたしはなにもできていない。やりたいことのひとつも見つけられない。なにより、子どもだって助けていない。
結果が大事だと思っているから。
それなのに、これから先になにを言おうとしても言葉が出てこない。
「......いいんだよ、未香は未香のままで」
花蓮さんの声色が変わった気がした。さっきの毛布みたいなあたたかさを感じる。
諭すような口調でも、ましてや怒るようすでもない。
そうだよね、わたしはやっと気づいたんだ。貴女の言葉は愛にあふれているんだ。やさしい声で彼女は告げた。
「やさしいきみでいてね」


