次の日の朝。
学校の廊下を歩いていると、背中から声をかけられた。おはよう! とはっきりとした口調で話すのは杏ちゃんだった。
「もう熱下がったんだね、よかったよ」
「うん、もうだいじょうぶだよ」
水筒とタオルを持たされた、なんて説明を付け足すとふたりして笑いあった。
「ほんとうに心配性な親なんだね」
相づちにそうだねと重ねて返す。朗らかな彼女の表情を見ていると、ふと心がざわめく。凪いでいた海が少し動き出したよう。しばし彼女の顔を見つめてしまった。
「......未香、だいじょうぶ?」
杏ちゃんも心配そうな顔をしてしまっていた。わたしは、自分でどんな表情をしていただろうか。
ごめんと慌てて付け足して、教室に向けて歩き出す。
「......おはよー」
教室の扉を開けるなり、わたしは声をかけた。
自分の声に気づいた周りの子が振り返ってくれた。代わる代わる心配の声をかけてくれる。
体調はだいじょうぶ? 風邪だったの? そして、昨日は宿題出なかったよ。という声が聞こえて安心する。
こんな会話をしているのが、やっぱりこのクラスの雰囲気なんだなって思う。もっと続いてほしいと願ってしまう。
会話が一通り済んだところで、またしても背中から声をかけられた。
続けて登校してきたのは、歩だった。彼はわたしに向けて話しかける。
「お、佐倉だいじょうぶだったんだ」
一瞬だけ考えて、ふいっと首を振る。その動きはまさしく花札のごとく。
「そりゃそうよ、もう体育だってできるんだからね」
いや、それはまだ止めようよ。近くにいた女子生徒が声をかけた。
歩は昨日からメッセージのひとつもよこさなかった。
心配しているんだろうけど、素っ気なくて。そういうところは彼らしいけど、なにかがちがうんだ。なにか一言だけでもほしかった。言葉をしたためてほしかった。
そして、名字で呼ばないでほしかった。
できれば見ていてほしかった、わたしだけを。
......だから、あの日見たものが嘘だと願っている。
・・・
放課後の図書館にはだれもいなかった。
ひとりしかいない空間で、わたしは本をたくさん広げている。さまざまな本に目を落としては、ちがうとつぶやいて、閉じては開いてをくりかえしていた。
わたしは禁忌に触れようとしている......。
どんな結果になるか分からない。それでもまだ興味が勝っていた。
あの日言われたこと。――桜の木の下には、なにが眠っているの?。
花蓮さんの言葉がずっとわたしのことを縛り付けていた。摩訶不思議なことを言われては、わたしはその本意を知りたくなってしまった。
一度はスマートフォンで調べようと思った。でも、いざ画面に打ち込むことが怖くなって止めた。わたしは不安の心を抱いたまま、となりにいる人物に尋ねてみた。
彼といることが、わたしの安心材料だったから。もう聞くのをためらわなかった。
そしたら歩は教えてくれたんだ。――木の下には、死体があるって。
彼の言葉が、わたしの凍りついた記憶を目覚めさせた。
わたしは必死に腕を伸ばしたのに、空を掴むことしかできなくて。だから、亡くなった体を迎え入れたのかもしれない。もしくは、とどめを刺したのかもしれない。
・・・
次に開いたのは桜にまつわる雑学の本だった。
そこに、わたしの求めている答えがあった......。
"桜の木の下には死体が埋まっている"。
という意味を持つ文が冒頭になっている有名な文学作品があるという。
桜の花が美しいのは樹の下に死体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。こんな紹介文とともに解説が添えられていた。日本ならではの美意識を独特の表現で表した作品。
ああ、やっぱり。
わたしはいつからかマフラーを付けなくなった。単純に気温が高くなってきたというのもあるし、なんだかえんじ色というのが気にいらなくなってしまったし。なんとなく毛嫌いしてしまう色になった。
なんとなくいい気がしなかった。
マフラーの色を見るたびに、わたしは身体の中の色を思い出させる。その色を実感して身震いする。
花蓮さんはなにかを伝えようとしている。
わたしは彼女の言葉を受け止めないといけないんだ。
けれども、わたしにつとまるだろうか。勇気を持ってしまってもよいのだろうか。
......わたしは、まだ怖かった。
そうだとしても、わたしは一歩を踏み出した。
図書館で広げた本を雑にもとに戻すと、勢いよく扉を開けて出ていく。そのまま早歩きで、校舎を出てからは次第に速度を上げていく。
空は鈍色で、どこまでも広がっている。
一刻も早く会わないと。
貴女の声を聞きたいから。合わせた唇から感じた意識を実感したいから。
・・・
このとき、わたしはまだ分かる由もなかった。
花蓮さんの過ちが、わたしの思い出とつながるなんて。彼女の話を聞いてしまったら、自分のことを責めることになるなんて。なんて慕情は残酷なんだろう。
――わたしたちは、出会ってはいけなかった。
学校の廊下を歩いていると、背中から声をかけられた。おはよう! とはっきりとした口調で話すのは杏ちゃんだった。
「もう熱下がったんだね、よかったよ」
「うん、もうだいじょうぶだよ」
水筒とタオルを持たされた、なんて説明を付け足すとふたりして笑いあった。
「ほんとうに心配性な親なんだね」
相づちにそうだねと重ねて返す。朗らかな彼女の表情を見ていると、ふと心がざわめく。凪いでいた海が少し動き出したよう。しばし彼女の顔を見つめてしまった。
「......未香、だいじょうぶ?」
杏ちゃんも心配そうな顔をしてしまっていた。わたしは、自分でどんな表情をしていただろうか。
ごめんと慌てて付け足して、教室に向けて歩き出す。
「......おはよー」
教室の扉を開けるなり、わたしは声をかけた。
自分の声に気づいた周りの子が振り返ってくれた。代わる代わる心配の声をかけてくれる。
体調はだいじょうぶ? 風邪だったの? そして、昨日は宿題出なかったよ。という声が聞こえて安心する。
こんな会話をしているのが、やっぱりこのクラスの雰囲気なんだなって思う。もっと続いてほしいと願ってしまう。
会話が一通り済んだところで、またしても背中から声をかけられた。
続けて登校してきたのは、歩だった。彼はわたしに向けて話しかける。
「お、佐倉だいじょうぶだったんだ」
一瞬だけ考えて、ふいっと首を振る。その動きはまさしく花札のごとく。
「そりゃそうよ、もう体育だってできるんだからね」
いや、それはまだ止めようよ。近くにいた女子生徒が声をかけた。
歩は昨日からメッセージのひとつもよこさなかった。
心配しているんだろうけど、素っ気なくて。そういうところは彼らしいけど、なにかがちがうんだ。なにか一言だけでもほしかった。言葉をしたためてほしかった。
そして、名字で呼ばないでほしかった。
できれば見ていてほしかった、わたしだけを。
......だから、あの日見たものが嘘だと願っている。
・・・
放課後の図書館にはだれもいなかった。
ひとりしかいない空間で、わたしは本をたくさん広げている。さまざまな本に目を落としては、ちがうとつぶやいて、閉じては開いてをくりかえしていた。
わたしは禁忌に触れようとしている......。
どんな結果になるか分からない。それでもまだ興味が勝っていた。
あの日言われたこと。――桜の木の下には、なにが眠っているの?。
花蓮さんの言葉がずっとわたしのことを縛り付けていた。摩訶不思議なことを言われては、わたしはその本意を知りたくなってしまった。
一度はスマートフォンで調べようと思った。でも、いざ画面に打ち込むことが怖くなって止めた。わたしは不安の心を抱いたまま、となりにいる人物に尋ねてみた。
彼といることが、わたしの安心材料だったから。もう聞くのをためらわなかった。
そしたら歩は教えてくれたんだ。――木の下には、死体があるって。
彼の言葉が、わたしの凍りついた記憶を目覚めさせた。
わたしは必死に腕を伸ばしたのに、空を掴むことしかできなくて。だから、亡くなった体を迎え入れたのかもしれない。もしくは、とどめを刺したのかもしれない。
・・・
次に開いたのは桜にまつわる雑学の本だった。
そこに、わたしの求めている答えがあった......。
"桜の木の下には死体が埋まっている"。
という意味を持つ文が冒頭になっている有名な文学作品があるという。
桜の花が美しいのは樹の下に死体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。こんな紹介文とともに解説が添えられていた。日本ならではの美意識を独特の表現で表した作品。
ああ、やっぱり。
わたしはいつからかマフラーを付けなくなった。単純に気温が高くなってきたというのもあるし、なんだかえんじ色というのが気にいらなくなってしまったし。なんとなく毛嫌いしてしまう色になった。
なんとなくいい気がしなかった。
マフラーの色を見るたびに、わたしは身体の中の色を思い出させる。その色を実感して身震いする。
花蓮さんはなにかを伝えようとしている。
わたしは彼女の言葉を受け止めないといけないんだ。
けれども、わたしにつとまるだろうか。勇気を持ってしまってもよいのだろうか。
......わたしは、まだ怖かった。
そうだとしても、わたしは一歩を踏み出した。
図書館で広げた本を雑にもとに戻すと、勢いよく扉を開けて出ていく。そのまま早歩きで、校舎を出てからは次第に速度を上げていく。
空は鈍色で、どこまでも広がっている。
一刻も早く会わないと。
貴女の声を聞きたいから。合わせた唇から感じた意識を実感したいから。
・・・
このとき、わたしはまだ分かる由もなかった。
花蓮さんの過ちが、わたしの思い出とつながるなんて。彼女の話を聞いてしまったら、自分のことを責めることになるなんて。なんて慕情は残酷なんだろう。
――わたしたちは、出会ってはいけなかった。


