わたしのはじめての口づけは、渋くて、甘くて。
 よく柑橘系の味だとかなんとか言われるけれど、わたしが味わったのはどれも違う気がした。なんとも表現することのできない、とても美味な味。
 触れたのはちょっとの時間だったけど、ほんとうはもっと味わっていたかった。
 あのあと、理沙さんの咳払いがわたしたちを現実に戻した。すぐに離れて、気恥ずかしままお店を後にした。

 ・・・

 今日は朝から雨が降っていた。
 わたしの瞳は天から滴るしずくしか映していない。次第に風が生まれて、雨は横へと流される。木々は左右に揺れて倒れるんじゃないかと言わんばかり。
 寝てばかりいるのもなんだから、ベッドの上で身体を起こしてみる。少し喉が渇いているから、ちょっと水でも飲みに行こう。
「あら、起きててだいじょうぶなの?」
 母親に声をかけられた。そしてスポーツ飲料を渡される。
 そう。あの日帰ってから風邪をひいてしまった。幸い熱はそこまで上がらなかったけれど、心配性の母親のことだ。すぐ学校を休みなさいと告げられる。
 たしかに身体は重いし、頭がすごい痛いし。低気圧も重なって苦手で学校に一日いられるか不安だから、お言葉に甘えてみた。
 
 ベッドに戻ってみた。
 なんだか雨が強くなっている気がした。そんなことを考えると、ずきりと頭が痛くなる。心配事が増えていく。
 今日休んでしまった分のダメージを考えてしまう。宿題はなにが出ただろうか、明日授業に追いつけるだろうか。こんな心配をするなんて、やっぱりわたしは生真面目なんだと思う。
 【起きてる~? この授業たいくつだよ(泣)】
 杏ちゃんからチャットのメッセージが送られてきた。続けてあくびをしている猫のスタンプが送られてくる。ベッドの上ですることがないかもしれないと、気をつかってくれたのだろう。もしくはいつもの教室での会話ができないから、寂しいのかもしれない。
 メッセージを見たわたしは苦笑した。今は授業をやっている時間帯だろうに。隠れてスマホをいじってて怒られても知らないんだから。
 【今起きてるけど、軽く横になるね】
 こんなメッセージを返したわたしはすぐにスマートフォンを閉じた。
 少しは頭痛薬が効いてくるかもしれない。もう少しだけ寝ていようか。部屋の明かりを消して、布団をしっかりとかける。瞳を閉じて、視界を意識する。
 
 ......ああ、またまっくらになった。
 
 もちろん、なにも映らない。今まで感じていた色がぐちゃぐちゃになって混ざっていく、そしたら黒以外の何色も残らない。
 をこの光景を感じていると心がきゅうっと苦しくなる。
 こんな気持ちになるなんて、何時ぶりだろう。
 小学生の頃から、これがきらいだった。

 ・・・

 幼い頃のわたしは、日々のほとんどをベッドの上でを過ごしていた。
 とはいえ病気を患って入院していたわけではない。
 身体が人一倍弱いわたしは、なにかあるとすぐに熱を出して寝込んでしまう体質だった。とくに季節の変わり目なんてひどかった。街の医療機関で診てもらって薬をいただくだけで済んでいたから、検査入院しないだけマシと自分自身で思っていた。
 ちょっと悪寒を覚えただけで、母親から寝なさいと声をかけられて、すぐにベッドに駆けこんでいく。そんな日々だった。
 そしたら何日も寝ないといけなかった。一日だけ我慢すれば熱が下がるなんてことはめったになくて、いつまでも熱が下がらない日々が続いた。
 観たいテレビを、いくつ見れなかっただろうか......。
 今では体育の授業ができるほどに回復してくれたけれど、ずっとこんなにも他人とは違うだろうと感じでいた。みんなと同じようにおしゃべりをしたいし縄跳びだってしたかった。
 なんでわたしだけ熱を出すんだろう、なんでわたしだけ違うんだろう。どんどん置いてけぼりを食らってしまう。
 物心ついたときに覚えていたのは、自分自身が他人と距離を置くことだった。
 
 だから、夕方の時間帯はきらいだった。
 学校を休んだ日は朝ごはんと一緒に薬を飲んで、軽く横になる。すると正午あたりに目が覚めて、ああやっと治ってきたかなと思い込む。
 午後からなにもなかったらいいなと思いこむのは、ただの幻想だった。ちょっとしていたらまた体調を崩してしまう。慌てて解熱剤を飲みこむ。もっと薬が効けばいいのになとよく思っていた。
 
 仕方なくベッドで眠りにつく。
 瞳を閉じて視界を意識すると、もちろんなにも見えない。ああ、これがいつもの光景なのかもしれない。きらめく季節なんてないんだろう、ずっと暗い光景が脅かしてしまうだろう。
 このままわたしが瞳を閉じたら、明日という日を迎えられるだろうか。
 黒い光景が、まっくらな闇が、わたしを包み込む。
 わたしが死んじゃうのかと思っていたから。果てに堕ちてしまうのが怖かったから。みんなもこの世からいなくなっちゃうんじゃないか、わたしだけがいなくなれば良いのではないか、わたしはひとり勝手な想像に堕ちていく......。

 ・・・

 目が覚めたら、だいぶ汗をかいていた。
 いつの間にかだいぶ夜が進んでいたようだった。こんな遅い時間まで寝るなんて、だいぶ身体の調子が悪かったのだろう。
 
 いつの間にか勉強机の上にはメモが置かれていて、たった一言メッセージが添えられていた。
 "晩ごはんは出来ているから食べられるようになったらおいで"
 たったこれだけ。それでもわたしは嬉しかった。
 幼い頃のわたしは、熱を出すとご飯を一口も食べられなかった。身体を壊すと食欲を一気になくしてしまったから、母親にごめんなさいとたくさん頭を下げていた。
 だから、この夢を見てしまったのは、きちんと食べられるか不安だったからだろう。
 けれども、わたしを晩ごはんの香りが出迎えてくれてくれた。
 
 その期待に応えなきゃ。元気いっぱいでいなければ、まっくらな闇が襲うんだ。
 
 今日はもう寝てしまおう。
 また部屋の明かりを消して、ベッドに潜り込む。
 【きょうはもう寝るね】
 【明日の朝、また熱を測ってみます】
 杏ちゃんにメッセージを送っておく。いけないことだと分かっているのに、ついベッドの中でスマートフォンをつけてしまう。
 画面を消灯したタイミングで、すぐに彼女からの返信がくる。仕方なくまた点灯する。
 やけにはやいなと思っていたら、ただスタンプがひとつだけ。
 アニメのキャラクターがチアの格好で応援しているイラスト。時折返信をスタンプだけにするのは、いかにも彼女らしい。わたしが寝てしまうから返信をさせないようにしているんだと思う。いろいろ気をつかってくれる子だ。そう考えると、少しは気が楽になる。
 わたしは画面をじっと見つめてしまった。
 もっと、言葉に触れたかった。
 別に本を読みたいわけじゃない。わたしは読書家ではないから、就寝前に本を読む習慣なんてない。どちらかというとヒーリング音楽なら聴くけれど。
 寝る前でも本を読みそうな人を想像してみる。
 もしくは、必死に小説を書いているのだろうか。小説の賞なんて分からないから原稿用紙と向き合うことくらいしか想像できない。もし締め切りが迫っていたら大変なんだろうなあ。ずっと起きて、ずっと書いては消してをくりかえすのだろう。
 
 ......見つけ出してほしかった。
 
 本を読んだり小説を書いたりする合間に、わたしへのメッセージを送る時間を。
 わたしは、したためた言葉をずっと待っている。

 ・・・

 寝る前に少しだけ考えてみた。
 明日死んじゃうなんてことはないだろうと思う。もうわたしだって体力がついてきたから。
 けれども、余計なことを考えてしまう。
 なにか普段歩いて行かない方へ向けて歩いたら。
 なにか事故にでもあったら。
 
 なぜか、死ということを考えてしまう。そんなわたしは、禁忌に触れようとしていた......。