今日の朝のことだった。
夢を見ていた。私はきみの手を引いて、街中を散歩していた。様子をうかがう子はとても楽しそうにしていて、喜びの表情で顔を喜ばせていた。
一緒に歩いているが楽しいんだよって告げてくれたのは、私の子どもじゃなくて。未香だった。
私はここで目が覚めた。
今日の朝はちょっとだけ冷えていた。ラジオをつけてみると、ちょうど天気予報を流していた。午後から雨が降ると言っている。
コーラスで高い声域を担当していそうな、はっきりと聞き取れる声だ。そんな女性アナウンサーの声を聞きながら家事をするのが、私の日課だ。
折り畳み傘はいつも鞄に入れているから問題はないけれど、今の若い子なんていうのは、あまりニュースを見ないらしいから、傘の準備なんてしないかもしれない。
でも、未香だったらいつも常備していそうな気がした。きっとそうだ。
午前中は店番をしないといけなかった。
終わったらカフェに行こう。ほとんど毎日通っているのに、強く意識したのは珍しかった。
あの場所に行かないといけない気がした。
あの場所で待っていないといけない気ががした。
それが、彼女のためになる。......そうはっきりと思うから。
なんで夢の中に彼女が出てきたのかを疑問に思うことはせずに、私はちゃんと理解する。
――未香のことを好いているんだなって。
腕時計を付けるかたわら、嘘じゃないためらい傷を撫でた。
・・・
そんな彼女が目の前で眠っている。
先ほどまで彼女は泣いていた。なにを見てしまって、なにを思ってしまったんだろう。
学校での生活はあまり聞いたことがなかった。
けれども、見ているだけで分かるのは、彼女の品の良さだ。制服の着こなし、物腰の柔らかい礼儀正しさ。
成績のことは話していないけれど、不自由はしないはずだ。
だから、クラスでは人気者だろうし、先生たちの信頼も厚いのだろう。
そんな未香のことだから、とても深く傷ついてしまったんだ。
私は聞いてあげるべきなのかもしれない。けれども、彼女の問題だから聞かない方がよいのかもしれない。親友という間柄と、保護者という言葉がせめぎ合っている。
私はその勇気を持っているのだろうか......。
そっと彼女の髪を撫でる。
一度も染めたことのないであろう、つやのある黒髪がとてもかわいらしいなって思う。私がずっと持ちたかったもの、そして、子どもも思っていたもの。
いいなあ。
特殊な事情なんて持たないで私も過ごしてみたかった。
人は生まれながらにして決まってしまうことが多すぎる。それは逃れられないもの。宿命といっても良い気がする。
だからこそ、人は自分の心を見つめ直すんだ。
どんな人と出会って、どんな人生を送っていくか。そうして、瞳になにを映していくか......。
ここで、未香の目がぱちりと開く。
そのまま、私と目が合ってしまった。腕を伸ばしたままの私を見上げている。
えっと、えーっと。ごめんなさい。
私はそっと腕をひっこめた。
「え、あ......。わたし、どれくらい眠ってたの?」
外を見ながら、質問してきた。もう外はとても濃い朱色をしていた。そのうちえんじ色に、黒くなっていくだろう。
「小一時間くらいだよ」
よく眠ってたね、こう声をかけると彼女は恥ずかしそうにうつむいた。顔は涙跡がくっきりと残っている。
「ねえ、話聞いてあげようか」
こちらを見た彼女はうーんと小声で口にしていた。たぶん迷っているんだろう。
「学校でなにかあったんだ」
彼女は声を出さずにこくんとうなづいた。
「いじめとかそういうもの?」
彼女は声を出さずに首を横に振った。
「嫌がらせでもないんだ。じゃあ、彼氏とか?」
彼女は声を出さずにうつむいた。......そして、少し経ってから視線を下げたままつぶやいた。とても小さい声で、まるでぽつりぽつりと雨が降り出すような小さい言い方で。
「そうなんです。......でもまだ気持ちが上手く整理できなくて」
「そう。じゃあ、今は聞いてあげないから安心して。また今度にしようね」
彼女がありがとうございますと口にしたところで、わずかに微笑みが見えた気がした。
未香はテーブルの上にあるものを指さして質問してきた。
「花蓮さん、なに飲んでるの......?」
そう、興味があるんだ。けれどもこれはきみにははやい。口角を上げてちょっといたずらっぽく返してみた。
「ウイスキー。飲んでみるかしら?」
「......え、飲みたい!」
彼女が身を乗り出すようにテーブルの上に手をつく。反動でひざ掛けが床に落ちた。
ほんとうに反応されるなんて思っていなかった。私は面を食らってしまった。こんな逆効果になるなんて。
「きみにはまだはやいわよ。もうちょっと大人になりなさい」
彼女はえーっと声が聞こえそうな表情をつくって頬を膨らませる。まるで幼稚園児がしそうなはっきりと明るい表情につい笑い出してしまう。私はため息をついた。
その吐息がすべてを出し切ってしまったみたいだった。
ふわふわした毛布に包まれている感覚。
ふわりとした空でも飛んでいそうな感覚。
ちらりとグラスを見る。
なんで私はいつもより濃いめに作ってしまったんだろう。飲むペースもはやかったかもしれない。
このカフェで酔いが回ったことなんてないのに、不思議だった。
もう普段の私はここにはいなかった。
目の前の人物がこちらを見ている。
その純粋なまなざしが私を掴んで離さない。
いたいけな瞳。健気で人一倍無理をしょい込んでしまう姿勢。それでいて、大人になりたいという背伸びした願望。ほんとうに、かわいいなって思う。
まるで、私が産んだ我が子のよう......。
「ねえ、未香。いらっしゃい」
ひとくち飲ませてあげるから、こう呼んで手招きする。
意気揚々と彼女が私の前に立った。私は彼女の手を取って、顔を上げた。
今の私はナイト、大切なお姫さまに仕える騎士。王子さまがいなくなったから、彼女を愛していかないといけないんだ。いつまでも、永遠と。
しばし見つめ合う。
彼女の表情はだいぶやわらかくなっていた。朱色がささった頬が緩んでいる。
私がなにをしたいか分かったようだった。
「......こういうの、好き?」
「......うん、好きだよ」
彼女は潤んでいる瞳をこちらに向けると、身体をかがませた。私は伸ばすようにして、そっと触れる。
くちびるが触れ合う。
お酒の高揚がえもいわれぬ味を連れてくる。
一瞬だったけど、とてもあたたかくて、切なくて。ほんとうはもっと味わっていたい。
ああ、やはりこの子は愛しい。
外はもう暗くなっていた。
店内の照明が強く降り注いでいる。
銀色の雨とオレンジ色の照明が私たちの愛を包み込んでいた。
夢を見ていた。私はきみの手を引いて、街中を散歩していた。様子をうかがう子はとても楽しそうにしていて、喜びの表情で顔を喜ばせていた。
一緒に歩いているが楽しいんだよって告げてくれたのは、私の子どもじゃなくて。未香だった。
私はここで目が覚めた。
今日の朝はちょっとだけ冷えていた。ラジオをつけてみると、ちょうど天気予報を流していた。午後から雨が降ると言っている。
コーラスで高い声域を担当していそうな、はっきりと聞き取れる声だ。そんな女性アナウンサーの声を聞きながら家事をするのが、私の日課だ。
折り畳み傘はいつも鞄に入れているから問題はないけれど、今の若い子なんていうのは、あまりニュースを見ないらしいから、傘の準備なんてしないかもしれない。
でも、未香だったらいつも常備していそうな気がした。きっとそうだ。
午前中は店番をしないといけなかった。
終わったらカフェに行こう。ほとんど毎日通っているのに、強く意識したのは珍しかった。
あの場所に行かないといけない気がした。
あの場所で待っていないといけない気ががした。
それが、彼女のためになる。......そうはっきりと思うから。
なんで夢の中に彼女が出てきたのかを疑問に思うことはせずに、私はちゃんと理解する。
――未香のことを好いているんだなって。
腕時計を付けるかたわら、嘘じゃないためらい傷を撫でた。
・・・
そんな彼女が目の前で眠っている。
先ほどまで彼女は泣いていた。なにを見てしまって、なにを思ってしまったんだろう。
学校での生活はあまり聞いたことがなかった。
けれども、見ているだけで分かるのは、彼女の品の良さだ。制服の着こなし、物腰の柔らかい礼儀正しさ。
成績のことは話していないけれど、不自由はしないはずだ。
だから、クラスでは人気者だろうし、先生たちの信頼も厚いのだろう。
そんな未香のことだから、とても深く傷ついてしまったんだ。
私は聞いてあげるべきなのかもしれない。けれども、彼女の問題だから聞かない方がよいのかもしれない。親友という間柄と、保護者という言葉がせめぎ合っている。
私はその勇気を持っているのだろうか......。
そっと彼女の髪を撫でる。
一度も染めたことのないであろう、つやのある黒髪がとてもかわいらしいなって思う。私がずっと持ちたかったもの、そして、子どもも思っていたもの。
いいなあ。
特殊な事情なんて持たないで私も過ごしてみたかった。
人は生まれながらにして決まってしまうことが多すぎる。それは逃れられないもの。宿命といっても良い気がする。
だからこそ、人は自分の心を見つめ直すんだ。
どんな人と出会って、どんな人生を送っていくか。そうして、瞳になにを映していくか......。
ここで、未香の目がぱちりと開く。
そのまま、私と目が合ってしまった。腕を伸ばしたままの私を見上げている。
えっと、えーっと。ごめんなさい。
私はそっと腕をひっこめた。
「え、あ......。わたし、どれくらい眠ってたの?」
外を見ながら、質問してきた。もう外はとても濃い朱色をしていた。そのうちえんじ色に、黒くなっていくだろう。
「小一時間くらいだよ」
よく眠ってたね、こう声をかけると彼女は恥ずかしそうにうつむいた。顔は涙跡がくっきりと残っている。
「ねえ、話聞いてあげようか」
こちらを見た彼女はうーんと小声で口にしていた。たぶん迷っているんだろう。
「学校でなにかあったんだ」
彼女は声を出さずにこくんとうなづいた。
「いじめとかそういうもの?」
彼女は声を出さずに首を横に振った。
「嫌がらせでもないんだ。じゃあ、彼氏とか?」
彼女は声を出さずにうつむいた。......そして、少し経ってから視線を下げたままつぶやいた。とても小さい声で、まるでぽつりぽつりと雨が降り出すような小さい言い方で。
「そうなんです。......でもまだ気持ちが上手く整理できなくて」
「そう。じゃあ、今は聞いてあげないから安心して。また今度にしようね」
彼女がありがとうございますと口にしたところで、わずかに微笑みが見えた気がした。
未香はテーブルの上にあるものを指さして質問してきた。
「花蓮さん、なに飲んでるの......?」
そう、興味があるんだ。けれどもこれはきみにははやい。口角を上げてちょっといたずらっぽく返してみた。
「ウイスキー。飲んでみるかしら?」
「......え、飲みたい!」
彼女が身を乗り出すようにテーブルの上に手をつく。反動でひざ掛けが床に落ちた。
ほんとうに反応されるなんて思っていなかった。私は面を食らってしまった。こんな逆効果になるなんて。
「きみにはまだはやいわよ。もうちょっと大人になりなさい」
彼女はえーっと声が聞こえそうな表情をつくって頬を膨らませる。まるで幼稚園児がしそうなはっきりと明るい表情につい笑い出してしまう。私はため息をついた。
その吐息がすべてを出し切ってしまったみたいだった。
ふわふわした毛布に包まれている感覚。
ふわりとした空でも飛んでいそうな感覚。
ちらりとグラスを見る。
なんで私はいつもより濃いめに作ってしまったんだろう。飲むペースもはやかったかもしれない。
このカフェで酔いが回ったことなんてないのに、不思議だった。
もう普段の私はここにはいなかった。
目の前の人物がこちらを見ている。
その純粋なまなざしが私を掴んで離さない。
いたいけな瞳。健気で人一倍無理をしょい込んでしまう姿勢。それでいて、大人になりたいという背伸びした願望。ほんとうに、かわいいなって思う。
まるで、私が産んだ我が子のよう......。
「ねえ、未香。いらっしゃい」
ひとくち飲ませてあげるから、こう呼んで手招きする。
意気揚々と彼女が私の前に立った。私は彼女の手を取って、顔を上げた。
今の私はナイト、大切なお姫さまに仕える騎士。王子さまがいなくなったから、彼女を愛していかないといけないんだ。いつまでも、永遠と。
しばし見つめ合う。
彼女の表情はだいぶやわらかくなっていた。朱色がささった頬が緩んでいる。
私がなにをしたいか分かったようだった。
「......こういうの、好き?」
「......うん、好きだよ」
彼女は潤んでいる瞳をこちらに向けると、身体をかがませた。私は伸ばすようにして、そっと触れる。
くちびるが触れ合う。
お酒の高揚がえもいわれぬ味を連れてくる。
一瞬だったけど、とてもあたたかくて、切なくて。ほんとうはもっと味わっていたい。
ああ、やはりこの子は愛しい。
外はもう暗くなっていた。
店内の照明が強く降り注いでいる。
銀色の雨とオレンジ色の照明が私たちの愛を包み込んでいた。


