理沙と出会ったのは、私が進学した高校の入学式の日だった。
 まるで台風みたいに天気の悪い日で、私が持っていた折り畳み傘はすぐに壊れてしまった。困り果てた私に、彼女が声をかけてくれた形だった。
「私の傘に入って学校に行こう」
「うん、そうだね」
 このやさしい言葉は、ずっと心に残っている。
 アニメが好きな彼女とはすぐに意気投合して、同じクラスにも文芸部にもなった。
 なんでも私が女児向けヒーローの主人公によく似てるって吹聴するものだから、私は部活の中で羨望のまなざしを目いっぱい浴びるようになった。そんな彼女は童顔な印象がするから主人公を支える立場かもしれない。
 理沙が私をモデルに描いた漫画は文化祭で出した作品たちの中で唯一売り切れたっけ。そのことがまた私を恥ずかしくさせる。
 彼女が三年間続けて発表したシリーズものの作品は、私が書いたつたない小説とともに、家に大切に眠っている。
 
 春を迎えるたびに私は不安に苛まれていた。
 理沙と同じクラスになれるだろうか。おそらくどの子も感じる不安だろうけど、私は人一倍強く感じていた。
 中学校までは友達がいなかった。だからこそ、今明るい人生を実感している。たとえ文芸部では会うことになるんだけど、いつも一緒にいる子が居なくなるのは寂しい。
 そうしたら、私はまた孤独に陥ってしまう。
 勉強についていけなくなるより、そっちの方が怖いんだ......。
 
 そんな心配は水泡に消えていった。
 クラスが変わるたびに心配しても、来年度はまた同じクラスで巡り合う。私たちはまるで運命で結ばれているみたいだなと思うと、ちょっと小恥ずかしい。

 ・・・

 みんなは大学を決める時期だった。
 でも、私はぼんやりと家の手伝いをするんだと思っていた。だから、私はなにひとつ実感できることはなかった。
 先生には服飾系の学校を――とくに専門学校を――よく勧められた。
 それでもいいやと投げやりに考えてはオープンキャンパスなどに参加してみたことがあった。周りの子はファッションデザイナーになりたいととかランウェイを歩きたいとか大きな夢ばかりを口にしていて、みんなまぶしかった。
 たしかに、こんな小さな仕立て屋とは世界がちがうのだろう。
 
 秋めいた日、私は母親に家の仕事を手伝うと正直に言った。
 すると、自分のやりたいことはないのかと返される。こちらに向けて作った顔は、嬉しさも難色も混ざっているのがはっきりとしていて、ほんとうに複雑だった。
 しかしながら、自分が口に出してしまっただろうか。行きたい大学のことなんてため息と一緒に流れてしまった。
 
 文芸部を引退しても、私たちはたまに部室に顔を出していた。
 部活が休みの日であっても私たちはふたり籠っていた。理沙は静かな部屋で勉強したいから。私はただなんとなく、そこにいたいから。
 静かな空間の中に、彼女がペンを走らせる音だけが響く。
 ......ねえ、理沙はどこの大学にするの? ほんとうは聞きたかった。けれども彼女の真剣な表情を見るたびに、私はいたたまれなくなってしまう。
「......カレン、まだ部室いる? 残っててもいいけど、鍵返しておいてね」
 言い残して、彼女は予備校に行く。
 みんなの変わっていく姿に、私ひとり戸惑っていた。
 
 いつしかアニメも小説にも触れなくなった。
 音楽プレイヤーからはアニメの主題歌が流れていたけれど、私は無意識のうちに再生を止めてしまった。
 そうして周りの景色に意識を合わせる。
 いつの間にか木々は赤や黄色が増えている。その景色は、もう進路を考えるのが遅いんだよと言わんばかり。そして、木枯らしは私になにを告げるだろう。
 私が数多くのオープンキャンパスに足しげく通うようになったのは、もうただがむしゃらと言っても良かったと思う。
 ちょっとでも興味を覚えた大学に行っては少し説明を受ける。そして終わったらすぐに帰る。どれくらいそんなことを繰り返していただろうか......。
 
 それでも、桜は私を見捨てなかった。
 
 東京の地方にある大学に行った時だった。最寄駅からのシャトルバスを降りたところで、近くにあった大きな木を見上げる。ああ桜の木だな、春には満開に咲いてバスを迎え入れるだろう。
 こんな風に何気なく歩いて行こうとしたら、ある人物に気づいた。
 ......理沙だ。私はつい彼女の姿を目で追っていく。
 すると、彼女も気づいてくれた。その時に作ってくれた表情を忘れることができない。
 こちらをちらりと見ては、大きく開いた口を手で押さえて、それでも瞳からは喜びの表情を隠し切れない。
「......カレン、どうして」
「......理沙もここに来てたんだね」

 帰りのシャトルバスで理沙は話してくれた。
「私、創作もしたいけれど、ほんとうはやりたいことがあるんだ」
 それがカフェだったという。のんびり喫茶店を営みながら、漫画や小説を書いていきたいという。ただ、カフェの開店資金ですらとてもかかってしまう。だから、とりあえず大学に行って、バイトをしながら生活する感じにしたいという。社会人になっても最初は会社勤めが必要かもしれない。
「素敵な夢だね」
「うん、ありがとう」
 ここで、理沙は顔を背けて遠くの街並みを見つめていた。もう疲れてしまったのだろうか、それとも私と一緒にいるのが嫌なのだろうか。
 そしたら、彼女が助け舟を出すとは思わなかった。こちらを振り向かないまま、答えてくれる。
「......カレン、私と同じところにしよう? この大学で一緒にいよう?」
「うん、ありがとう」
 私は寄りかかるようにして、理沙の肩に自分の頭を乗せた。
 
 ああ、出会う人によってこうも景色が変わるんだな。

 ・・・

 夫となる人と出会ったのは、二十歳になってすぐの頃だった。
 細身で背が高く、品の良い感じの青年だった。けれども、まだこの世界は女性の方が多い。内心遊んでいるじゃないだろうかと思っていた。
 そんな客が店に来るのは珍しいから、最初はどう接すれば良いか分からなかった。ひとたび話を聞いてみると、服飾系の専門学校に通っていて、自分で服を仕立てるために店に訪れたという。
 足しげく通う彼に、私は次第に会話をするようになっていく。
 そして、ある日飲みに誘われた。はじめてのお酒はとても美味で、とても楽しくて。
 高揚していたからなのだろうか、そうでなくても感じてたのかもしれない。
 いつの間にか意識していた。――私はこの人と結婚するんだ。
 
 私たちのことは、理沙からも羨ましがられていた。
 どこまでも、どんなに一緒のふたりでいても楽しいのが、自慢なんだ。
 貴方からはいつも目が離せない。そんな日々を過ごしていくんだなと思うと、私の心はときめきを隠せない。
 結婚してから最初の誕生日に彼がプレゼントしてくれたのは、まさかのピアノだった。
 たしかに小さい頃弾いたことがあったって言ったけど、私はずっと目を丸くしていた。
 ああ、私からも言わないと。
 子どもを授かったんだって、それは鼓動のプレゼント。
 
 生まれたばかりの男の子はブロンドの髪の毛だった。私は苦笑しながら抱きしめたのをよく覚えている。私がお姫さまだったから、この子は王子さまなのかもしれない。
 夫の溺愛ぶりに、いつも笑いそうになるのをこらえていた。彼の笑顔を見るたびに、幸せはこんなにも美しいんだなって感じていた。
 
 ......太陽が黄昏を連れてくるなら、不幸だって訪れてしまう。
 
 夫の実家に挨拶に行った日だった。
 私は子どもを連れて散歩していた。手を引く子どもの足取りはなんだかゆっくりだった。それにやけに機嫌が悪かった。まあ遠くの県に来て疲れているのだろうか。
 雪国だからまだいたるところに雪が残っている。遅い春を迎えようとしていた。空の青さに、雪の白さに。やっぱり日本ってきれいだなと感じる。
 足を止めた子どもは、しゃがみ込んで川を見つめていた。
 雪解け水が溢れていて、だいぶ水量が上がっている。それでも危険なことはないだろう。私はそっと見つめるだけにした。
 あまり会話をしないのも変だから、少しだけ聞いてみる。
「川きれいだね、水冷たいのかな?」
 子どもはなにも言わなかった。少し首を傾げた私は言葉を重ねていく。
「ねえ、今度は一緒に遊ぼうね。もっと下の方に行くと遊べるところがあるから......」
 ......バーベキューができるんだよ。けれども、私がなにを言っても、きみには通じなかった。
 子どもは川を見つめたまま、私に告げる。
「ねえ、なんで」
「うーん、なんでってなにかな?」
「......なんで、ぼくの髪の毛は金色なの。この色きらいだよ......」
 私は言葉を失った。
 こんな話題が出てくるなんて想像もしなかった。今日、ここで。
 幼稚園で言われたのだろうか。でも、みんな出会って数日なのに? まだ私が言われた年にもなっていないのに?
 いつかは話さないといけなかった。けれども、もう、遅かった。
 きみは私と同じなんだ。
 過去の私がフラッシュバックする。この子の髪に向けて指を指されたら、切られてしまったら......。
 
 その時だった。
 子どもは川に流されてしまった。私が気が付いたら、濁流に飲み込まれていた。
 
 ただ子どもが足を滑らせてしまっただけかもしれない。
 私が突き飛ばしてしまったのかもしれない。
 
 気が動転した私が生まれたことだけ、それだけは事実だった。
 私は慌てて駆け出していく。
 もう、遅かった。

 ・・・

 それから、夫とはケンカが増えた。
 今までしたことなかったのに、なんでこんな風になるのだろう。ある日なんて、鍵盤を力いっぱい叩きつけることもあった。
 桜の木は、ひとたび傷がつくとすぐに腐り始めるという。私だってそうだったのかもしれない。突き刺さってしまった刃が心を傷つけていく。
 気がついたら、私は目の前にある書類に印鑑を押していた。
 
 夫が出ていってから、私は孤独の演奏を続けている。