いつまで夢を見ればいいんだろう。
 いつまできみの手を引いて歩けばいいんだろう。
 
 ずっと、考え込んでいる......。
 
 その答えを見つけらないまま、私はひとりピアノを弾いている。
 指を運ぶたびにメロディーが生まれる。
 けれども、哀愁映画でも見ているように物悲しくてたまらなかった。感じる慕情が残酷な人生を思わせる。
 かつてはきみがいた。貴方(あなた)がいた。
 いつしか居なくなってしまい、もうどこにいるのかもわからない。連絡のひとつもよこしてくれない。
 指を運ぶたびにメロディーが生まれる。
 けれども、音は広がりをみせずに、私は孤独なんだと強く思わせる。
 ずっとそんな音色を繰り返していた......。

 ・・・

「ねえ、カレン。あの子は......?」
 理沙に呼びかけられた私は振り返って、人差し指を口の前に持ってくる。しずかにと念を押した。
 ああそうね、と彼女もうなづいてくれた。
「毛布なんてあるかしら」
「うーん、ひざ掛けしかないねえ」
 それでもいいかとつぶやきながら、彼女は裏手に引っ込むとすぐに戻ってきた。そして、私の前でうつぶせになる少女にかけてあげる。
 これで、ある程度は安心だろう......。
 
 少女は、未香(みか)は。私の前の席に座ると、すぐうつぶせになった。今は静かに寝息を立てている。
 さっきまで悲壮な感情を表に出してきていたから、よっぽど悲しい思いをしたんだろう。
 今度、話を聞かせてほしいな。
 私の耳が窓の外に意識を向ける。
 銀色の矢が地面に突き刺さっている。ああ、いつの間にか雨が降り出していたんだ。
「ねえ、ちょっと飲みたいんだ......」
 ウイスキーの水割り。
 店員が持ってきてくれたのは、私だけの特別なメニュー。
 ここはバーではないから、お酒の販売はできない。でも風情がある店内だから良いよねとふたりで意気投合した形だった。あまり飲めない理沙も時間があるときには付き合ってくれる。
 誰も居ない日にしか開けないけれど、今日はとくべつだった。未香(みか)の悲しみを分け合えてほしくて、私に打ち明けてほしくて。私の愛は空洞みたいになってなってしまったけれど、悲しいきみを見ているのはいやだから。
 雨を眺めがら昔のことを思い出していた。

 ・・・

 私が色彩に興味を持ったのは自然なめぐり合わせだったかもしれない。
 家が仕立て屋だったから、裏手の倉庫に忍び込んではさまざまな色や柄の生地を眺めていた。
 カラフルな空間にはまるで幸せが広がっているみたい。そんな風によく思っていた。
 
 はじめて気にしたのは、幼稚園の頃だった。
 折り紙の時間になって、先生が好きな色のものを取っていいよって言っていた。多くの子は赤や青、そして水色などはっきりとした色を選んでいた。遠くの席では金色を取り合ってケンカしていた。
 けれども、不思議な感覚を覚えた私は、まったく別の色を選んだ。
「あら、花蓮ちゃん。そんな色でいいの?」
 先生が誰も選ばなかったからと気をかけてくれても、私はうんとうなづいた。
 だって、これが良かったから。周りの色はどれも濃くて、目が痛いような感覚を覚えて。
 私の瞳に映るのは、もう少し淡く、くすんだ色。――空色だった。
 母親ゆずりの細い指だったから、折り紙は慣れたものだった。ていねいにツルを追っていると、隣の子に声をかけられた。
「花蓮ちゃんって、お姫さまみたいだね」
「お姫さま?」
 彼女は大きく首を振ると、髪の色と折り紙の色がお似合いだよって説明してくれる。
「ああ、これ」
 私はまだ短いポニーテールに触れて、そういえばなんでだろうと思った。
「花蓮ちゃんは、お母さんが外国の人なんだよ」
 先生の合いの手を添えてくれる。
「えーっ、外国ってかっこいい!」
「どこなのどこなの!」
 教室中に歓声が広がっていく。注目されても、私もまだ詳しくは知らないから困ってしまった。

 その日に、きちんと母親が説明してくれた。
 私は外国人とのハーフで、肌や瞳の色は日本人ならではだったが髪の毛はブロンドだ。
 「でもいいよ、きれいなお姫さまみたいだから」
 物事をくわしくは理解できなくても、こんな風に納得した。
 
 小学生になると色んな子が私の髪を指さして、"どうしてそういう髪の色なの"と質問してくる。容赦なかった。それでも私は、ていねいに返していった。
「お母さんが外国の人なんだよ」
 ちゃんとこう答えたら、みんな分かってくれた。そうやって理解してくれるからわたしも嬉しかった。
 その安堵はずっと続くと思っていた......。
 
 中学校に上がったら、今までの空気が一変してしまった。
 いろんな小学校からたくさんの生徒たちが集まっていたから、そこで作り出される空気は、強弱を作り出す淀んだものだった。
 いつの間にか、ある女子生徒の周りに人が集まるようになっていた。
 休み時間に談笑するのもお手洗いに行くのも、放課後に帰るのだってあの子の後ろに付いていく。それは日に日に大きくなって、圧迫感を生んでしまう。
 まるで、悪役令嬢に仕えるメイドたち。
 ある日、そんな子たちと公園で話すことになった。
 あまり接点のない生活を過ごしていたとはいえ、ちょっと話すだけならいいかと私は出かけていった。
 なにも疑うこともせずに。
 それでも、このまま雑談が続くんだなあと思っていた時だった。そのグループの中心にいた彼女が急に切り出した。
「ねえ、どうしてそんな髪の色なの」
 母親が外国の人だって、いつも通りに答える。きちんと伝えたら分かってくれると信じていたんだ。それは、今日この日までだった。
「校則破って染めてちゃダメでしょう」
 純粋な心は、邪悪な心に塗りつぶされる。
 正直な意見はひとつも受け取ってもらえず、返されたのは気味悪いくらいまでの嘲笑う表情だった。
 あまりのことになにが起きているのか分からなかった私は、気づいたら周りの子たちに腕を締め付けられていた。
 時間にしてみたらあっという間だったのかもしれない。
 でも、スローモーションのように感じてしまう。
 彼女が鋏を取り出して、こちらに近づけてくる。いつの間にかわたしの長い髪は切り落とされてしまった。
 これが、私がはじめて感じた恐怖。
 
 日の落ちる時間まで私は泣き続けてしまった。
 夕方という時間帯が心を塗りつぶしていく。空の色が示すように、心はどんどん闇に落ちていった......。

 ・・・

「学校に無理して行かなくて良いのよ。その代わり、たまにはお店を手伝って頂戴ね」
 助手席に座ったタイミングで母親が声をかける。それがお小遣いに社会勉強になるからと言う。
 いじめに遭った私は学校に行くのをあきらめて、店の仕事を手伝うようになった。
 最初の頃は母親が文句を言いに学校に行ってくれたそうだ。でも、私はもう学校のことなんてどうでもよかったから、すぐに自分の部屋にこもるようになった。
 
 お互いにシートベルトを閉めたのを確認したら、慣れた手つきで車を発進させた。
 短く切り揃えられた髪型は仕事人のよう。その溌剌とした声に呼びかけられるたびに、私は塾の勉強を止めて出かける準備をしていった。
 時折、生地の買い出しに行くことがある。それは仕事に必要なことだと思う傍ら、気分転換に連れ出したいんだなと感じていた。
「うん、いいよ」
 私は運転席の方を見ずに、まっすぐ前を見つめて答える。
 親に迷惑をかけているとか、両親が無理して気遣ってくれてるんじゃないかとか、いろいろ考えてしまう。とくにお母さんはどう思っているんだろう。
 いつも楽しい時間なんだけど、色んな感情を感じてしまうから、私はどうすればよいのか分からなかった。
 車のウィンドウを開けて、風を感じたかった。
 
 ある日突然に聞かれたことがあった。
 なにか欲しいものはないのかって聞かれても、なんのことだか分からない。居間でテレビを見ていた私は、きょんとした表情を作ってしまった。
「お母さん、急になに......?」
 難しい言葉で、こういうのが鳩が豆鉄砲を食ったよう、というのを感じる。
 ゆっくり思い出して、と首を傾げながら戻っていく姿に私は慌てて声をかけた。数秒経って気づいたことは、今月誕生日だということだった。
 「待って、待って。欲しいのがあるからちょっと聞いてほしいんだ」
 気をよくして振り返った母親に、私は手元にあった雑誌を開いて見せた。
 それは月刊で発行されているアニメ雑誌だ。いちばん大きな特集が毎週欠かさずに見ている女児向けヒーローの記事だったから、なにも使う予定のなかったお小遣いを揃えて買いに行った。
 
 私が欲しがったもの。それはいわゆるコスプレだ。
 
 キャラクターの設定画が大きく掲載されているページに、主人公の学生服が載っていた。アニメオリジナルのデザインをしたセーラー服だけど、リボンがところどころに使われていてとても可愛かった。
「それじゃあ、余所行きで着られる服にアレンジしようかしら」
 それから母親は時間を見つけては製作してくれるようになった。
 私の身体の寸法を測って、いちばん似合うであろう生地を買い付けに行って。それでいて、品の良く上品なデザインになるように、少し描き直してくれた。
 でも、異変を感じたのは服を作り始めた時だった。
 
 私の目の前に映ったのは、大きな鋏。
 あの時を思い出す。鋏の音が怖い。
 また私の髪が切られるんじゃないか。そう錯覚してしまって、慌てて母親の腕にしがみついた。
「やめて、切らないで!!」
「ちょっと、なに言っているのよ!!」
 鋏やミシンを扱う人に触れていはいけないという。
 でも、私はそんなことを構う余裕がなかったんだ。
 裁断されていく生地は雨粒がよじれるように、曲がってしまった。もう台無しになってしまったものを私は見ようともせずに、慌てて部屋に駆けていく。
 けっきょく、私の誕生日プレゼントは、自分の涙と一緒に流れていってしまった。