教室の朝って、ほんの数時間しかないのに、すごく長く感じるときがある。

たとえば、窓から差し込む光が、いつもより少し斜めだったり。
廊下を走る誰かの足音が、やけに響いて聞こえたり。
プリントの紙音さえ、やけに遠くから聴こえてくるような気がしたりする。

「おはよう、紬」

そんな朝に、晴くんの声が落ちてきた。

背後から名前を呼ばれるたびに、胸の奥がふわっとほどけていくのが分かる。

僕は振り向いて、小さくうなずいた。

「……おはよう」

その声はきっと、小さすぎたかもしれない。
でも、彼にはちゃんと届いたみたいだった。
目が合って、にこっと笑われたから。

ふたり分の沈黙を越えたあの夜から、
僕たちはまた、少しだけ近づいている。

それはまるで、昨日より今日の気温が一度だけ高くなっているような、
小さな違い。

放課後。
今日もまた、いつものコンビニで、と思っていたら。

「なあ、今日はコンビニじゃなくて、ちょっと散歩しね?」

彼がそう言った。

一瞬、頭の中で予定が崩れたけれど、
なぜだか、それが心地よい混乱に思えた。

「……うん、いいよ」

自分の声が、いつもより素直だった気がする。

彼はにっと笑って、肩をすくめた。

「よかった。断られたら、アイスで釣るつもりだった」

「……それ、いつも使ってますよね」

「バレた? でもお前には効くと思ったからさ」

「……効いてません」

そんなふうに言いながらも、歩き出した道は、
見慣れたコンビニ前から外れて、夕暮れに向かって伸びていた。

川沿いの遊歩道は、空が広かった。

舗装された道の両脇に、風に揺れるススキ。
対岸では、自転車に乗った子供が父親らしき人と並んで走っている。

淡いオレンジ色に染まった空の下で、
彼と並んで歩く、それだけのことが不思議なくらい静かだった。

「こういうとこ、好きなんだ。空がでかく見えるだろ」

「うん。……わかる気がする」

自分の言葉が少し浮ついていた気がして、
僕はそっと彼の横顔を盗み見た。

風が吹いて、彼の髪が少しだけ乱れた。
パーカーのフードがかすかにはためいた。

その仕草が、なんでもないのに、
僕にはやけに“綺麗”に見えた。

その時、はっきりと気づいた。

“あ、いま、かっこいいって思った”

まるで誰かの感情を借りたみたいに、
胸の奥がちくりとした。

でも、それは痛みじゃなかった。
ただの、熱だった。

「……晴くん」

「ん?」

「……なんでもない」

名前を呼んだだけで、言葉が続かなかった。

彼のほうを見ようとしたら、目が合ってしまいそうで、
それが怖くて、下を向いてしまった。

途中、ちいさな公園に立ち寄って、
ふたりでベンチに腰かけた。

ちょうど西陽が背中を照らしていて、
肌に触れる風がやけにやわらかかった。

「これ、やばくない?」

彼がスマホを差し出してきた。
画面には、新作アイスのキャンペーンページ。

「プリン味。これはもう使命感あるよな」

「……どこまで甘党なんですか」

「いやいや、お前にだけは言われたくないわ。
 コンビニ行くたびにプリン見てニコニコしてる奴が何を言うか」

「……してません」

「してた。絶対にしてた。目がにっこりしてた。あれは完全に“好きな子”見つけたときの目だった」

「ちが……」

「ね、照れた。ほら照れた。
 語尾が短くなるんだよな、紬って、照れてると」

言い返せなかった。

悔しいけど、それはたぶん正解で。
マスクの下で、確実に僕の顔は赤くなっていた。

でも、それを隠したい気持ちと、
見ていてほしい気持ちがせめぎ合って――

なんだか、どこにも行き場がなかった。

「……ほんとにずるいですよね、晴くんって」

「そう? ずるい? いや、正直に生きてるだけなんだけどなー」

「……自覚があるから、なおさらずるいです」

その言葉に、彼はちょっと目を丸くしてから、
困ったように笑った。

「そう言われたの、たぶん初めて」

「……僕も、そう思ったの初めてです」

帰り道。
ふたりの足音が、道に吸い込まれるように響いていた。

まるで、世界にふたりしかいないような感覚。

そんな中で、彼がふとつぶやいた。

「紬って、たまにすごく遠くを見るよな」

「……そうかな」

「俺のこと、見てるようで見てないときある。
 でも……俺は、見ててほしいって思う」

言葉が、深く胸の奥に落ちてきた。

それはたぶん、“告白”ではなかった。

でも、“願い”ではあった。

「……見てるよ」

かすれた声だったけど、
たぶん彼には届いた。

ふたりの間に流れる風が、やわらかくなった気がした。

夜、布団の中でスマホを眺めながら、
僕は思った。

“初恋って、こんな感じなんだろうか”

名前を呼ばれて、
顔が熱くなって、
何気ない言葉に笑って、
なんでもない仕草にときめいて。

全部が、晴くんになっていく。

彼の声で目覚めて、
彼の言葉で眠る日々が、
あまりにも自然で、怖くなるくらい心地よかった。

「……やっぱり、これって」

好き――

その言葉が、ようやく形になりかけていた。

でも、まだ声には出せない。

まだ、出したら終わってしまいそうな気がして。

だけど、確かに。
きみに会うたび、初恋みたいな気持ちになる。

こんな感情、今まで知らなかった。