声を出すのが、得意じゃない。
喉がふさがる感じがする。
言葉を探す前に、舌が止まる。
そんなふうに、ずっと思ってきた。
でも――
「おはよう、紬」
教室に入った瞬間、桐ヶ谷くんが、僕の名前を呼んだ。
名前で。
しかも、名前“だけ”で。
「……おはよう、晴くん」
僕も、ようやく返せるようになった。
たったそれだけのやり取りなのに、
胸の奥のどこかが、ふるえている。
まるで、凍っていた場所が少しずつ、
溶けていくみたいに。
昼休み。
その日も、彼は僕の隣に座った。
弁当を食べる僕の隣で、紙パックのココアを飲みながら、
なにげない話をぽつりぽつりと続ける。
テレビの話。
今朝の電車が混んでいたこと。
クラスの女子たちが騒いでいた話。
それらは僕には直接関係のない出来事だけど、
彼の口から語られると、まるで“僕にとっての話”になる。
そんなふうに会話をしていて、ふと、彼が言った。
「紬ってさ、いつも声が小さいよな」
「……ごめん」
反射的に、そう言ってしまった。
「いや、いいんだよ。謝んなくて。
でもさ、その声、けっこう好きなんだよな。静かで、ちゃんと届く」
「……届いてます?」
「届いてる。むしろ、響いてるって感じ」
“響いてる”
それは、初めて言われた感想だった。
僕の声が、誰かのなかに“残る”なんて、思ってもいなかった。
「……晴くんは、声、強いですよね」
「俺?」
「うん。明るいし、聞き取りやすいし、いつも笑ってるみたいな」
「それ、たぶん営業スマイルの延長な」
「……演じてるってこと?」
「ちょっとな。でもさ、紬と喋ってると、たまに素の声出てるなって自分でも思う」
「……それって」
「それって、けっこういい時間ってこと」
彼が言ったその一言に、
箸を持つ手が、ふるえた。
僕は、誰かと一緒にいるとき、
こんなに“声”のことを意識したことなんてなかった。
でも、いま確かに――
僕の中に、彼の声が残っている。
耳じゃなく、胸の奥に。
放課後。
いつものように、僕はコンビニにいた。
ほんの少しだけ、いつもより長く棚の前に立ち止まっていたのは、
“偶然を待っていた”からだと思う。
……来ないかもしれない。
でも、来てほしい。
その“でも”と“かもしれない”の間で、
感情が揺れていた。
「――今日、ミルクプリンにしてみた」
声が聞こえて、心臓が跳ねた。
振り返ると、彼が立っていた。
「こんばんは」
「おう、こんばんは。なんか、言い慣れてきたな」
「……少しずつ、慣れてきたかも」
そう言いながら、目を伏せる。
「名前、言えるようになったら、今度は“声”だな」
「……声?」
「うん。もっと、聞きたい」
「……そんな、話せないよ」
「じゃあ、俺が話す。で、紬はたまに“うん”って言ってくれればいい」
それだけでいい。
その言い方が、彼らしくて、
どこまでも自然で、どこまでもやさしかった。
「……うん」
その返事に、彼の目が少しだけ細まった気がした。
コンビニの蛍光灯が、白く彼の輪郭を照らしている。
その光がまるで、ふたりだけを照らしているような気がした。
帰り道。
すこし離れた歩幅で並んで歩く。
彼の足音は、いつも少しだけ早い。
でも、振り返ってくれるから、僕もついていける。
「紬」
名前を呼ばれて、また心が跳ねる。
「……はい」
「今度、電話してみる?」
「……電話」
「声だけで話すのって、めちゃくちゃ緊張するけど、
なんか、ちょっと話したい夜ってあるじゃん」
「……あるの?」
「ある。で、たぶん今夜がそれ」
そう言って、彼はスマホを差し出した。
「番号、教えて」
マスクの内側で、何度も深呼吸した。
そして、意を決して、そっとスマホを受け取る。
「……はい」
指が、ほんの少しだけ震えていた。
でも、声は、ちゃんと出せた。
“声を届けたい”って思えたから。
その夜。
スマホが、小さく震えた。
表示された名前は、たった一
でも、画面の向こうにいる彼が、きっと変わらずに笑っている気がして、
「……もしもし」
小さく、小さく、
でも確かに、僕の声が夜に溶けていった。
そしてその向こうから、いつものあたたかい声が返ってきた。
「……やっと、話せたな」
声が、ふるえながらも、
少しだけ強くなれた気がした。
それは、僕のなかの“壁”を、確かに少しだけ崩した時間だった。
喉がふさがる感じがする。
言葉を探す前に、舌が止まる。
そんなふうに、ずっと思ってきた。
でも――
「おはよう、紬」
教室に入った瞬間、桐ヶ谷くんが、僕の名前を呼んだ。
名前で。
しかも、名前“だけ”で。
「……おはよう、晴くん」
僕も、ようやく返せるようになった。
たったそれだけのやり取りなのに、
胸の奥のどこかが、ふるえている。
まるで、凍っていた場所が少しずつ、
溶けていくみたいに。
昼休み。
その日も、彼は僕の隣に座った。
弁当を食べる僕の隣で、紙パックのココアを飲みながら、
なにげない話をぽつりぽつりと続ける。
テレビの話。
今朝の電車が混んでいたこと。
クラスの女子たちが騒いでいた話。
それらは僕には直接関係のない出来事だけど、
彼の口から語られると、まるで“僕にとっての話”になる。
そんなふうに会話をしていて、ふと、彼が言った。
「紬ってさ、いつも声が小さいよな」
「……ごめん」
反射的に、そう言ってしまった。
「いや、いいんだよ。謝んなくて。
でもさ、その声、けっこう好きなんだよな。静かで、ちゃんと届く」
「……届いてます?」
「届いてる。むしろ、響いてるって感じ」
“響いてる”
それは、初めて言われた感想だった。
僕の声が、誰かのなかに“残る”なんて、思ってもいなかった。
「……晴くんは、声、強いですよね」
「俺?」
「うん。明るいし、聞き取りやすいし、いつも笑ってるみたいな」
「それ、たぶん営業スマイルの延長な」
「……演じてるってこと?」
「ちょっとな。でもさ、紬と喋ってると、たまに素の声出てるなって自分でも思う」
「……それって」
「それって、けっこういい時間ってこと」
彼が言ったその一言に、
箸を持つ手が、ふるえた。
僕は、誰かと一緒にいるとき、
こんなに“声”のことを意識したことなんてなかった。
でも、いま確かに――
僕の中に、彼の声が残っている。
耳じゃなく、胸の奥に。
放課後。
いつものように、僕はコンビニにいた。
ほんの少しだけ、いつもより長く棚の前に立ち止まっていたのは、
“偶然を待っていた”からだと思う。
……来ないかもしれない。
でも、来てほしい。
その“でも”と“かもしれない”の間で、
感情が揺れていた。
「――今日、ミルクプリンにしてみた」
声が聞こえて、心臓が跳ねた。
振り返ると、彼が立っていた。
「こんばんは」
「おう、こんばんは。なんか、言い慣れてきたな」
「……少しずつ、慣れてきたかも」
そう言いながら、目を伏せる。
「名前、言えるようになったら、今度は“声”だな」
「……声?」
「うん。もっと、聞きたい」
「……そんな、話せないよ」
「じゃあ、俺が話す。で、紬はたまに“うん”って言ってくれればいい」
それだけでいい。
その言い方が、彼らしくて、
どこまでも自然で、どこまでもやさしかった。
「……うん」
その返事に、彼の目が少しだけ細まった気がした。
コンビニの蛍光灯が、白く彼の輪郭を照らしている。
その光がまるで、ふたりだけを照らしているような気がした。
帰り道。
すこし離れた歩幅で並んで歩く。
彼の足音は、いつも少しだけ早い。
でも、振り返ってくれるから、僕もついていける。
「紬」
名前を呼ばれて、また心が跳ねる。
「……はい」
「今度、電話してみる?」
「……電話」
「声だけで話すのって、めちゃくちゃ緊張するけど、
なんか、ちょっと話したい夜ってあるじゃん」
「……あるの?」
「ある。で、たぶん今夜がそれ」
そう言って、彼はスマホを差し出した。
「番号、教えて」
マスクの内側で、何度も深呼吸した。
そして、意を決して、そっとスマホを受け取る。
「……はい」
指が、ほんの少しだけ震えていた。
でも、声は、ちゃんと出せた。
“声を届けたい”って思えたから。
その夜。
スマホが、小さく震えた。
表示された名前は、たった一
でも、画面の向こうにいる彼が、きっと変わらずに笑っている気がして、
「……もしもし」
小さく、小さく、
でも確かに、僕の声が夜に溶けていった。
そしてその向こうから、いつものあたたかい声が返ってきた。
「……やっと、話せたな」
声が、ふるえながらも、
少しだけ強くなれた気がした。
それは、僕のなかの“壁”を、確かに少しだけ崩した時間だった。



