誰かに名前を呼ばれることって、こんなにも胸がざわつくことだったっけ。
その朝、彼は何気ない調子で僕の名前を呼んだ。
「……おはよう、小野」
教室に入ってすぐ、いつものように自分の席に向かおうとしていた時だった。
振り返ると、桐ヶ谷くんが、鞄を片手に持ったまま、少しだけ頬を緩めていた。
名前を、呼ばれた。
それも、たくさんのクラスメイトがいるこの空間で。
僕はとっさに反応できず、軽くうなずくだけで精一杯だった。
でも、胸の奥では違う音が鳴っていた。
ひとつひとつが、ゆっくりと、大きく波打つように。
そのたびに、自分の中にある“距離”の感覚が揺れた。
名前って、不思議だ。
その人だけに与えられた、唯一の呼び方。
呼ばれることで“存在を認められる”ような気がして、
同時に、それが“相手の中に自分がいる”証のようにも思えた。
そしてそれが、僕には――ずっと、怖かった。
中学時代、僕の名前は“顔”と一緒に広まった。
SNSに投稿されたあの写真と、フルネーム。
それは、まるで商品タグのようにぶら下がっていて、
誰でも検索すれば見つけられる“顔と名前のセット”になった。
だから、僕はずっと「名前で呼ばれること」を避けてきた。
呼ばれないように、関わらないように。
誰の記憶にも残らないように。
「小野」
でも、彼はあっさりと、それを超えてくる。
たった一言の呼びかけが、
ずっと隠してきた僕の輪郭をなぞるようで、
うれしくて、でも、怖くて。
自分がいま、何を感じているのかさえ分からなかった。
放課後、僕はまたあのコンビニにいた。
もはや“偶然”ではないことを、僕自身が一番わかっている。
いつのまにか、この場所で“彼に会う”ことが、
日常の延長になっていた。
「今日もプリン、残ってるかな」
そんなふうに考えながら冷蔵棚の前に立った瞬間――
「……小野」
不意に背後から名前を呼ばれた。
声をかけられるよりも、名前で呼ばれるほうが、何倍も心臓に響いた。
振り返ると、彼がいた。
やっぱり黒パーカーに、軽く乱れた髪。
学校の制服姿とはまるで違う、
どこか“素”の桐ヶ谷晴。
「今日も甘いの買うんだな。もうこれは運命だな、うん」
「……それ、毎回言ってますよ」
「いいじゃん、使い回しのセリフ。俺の得意分野だし」
「……そうなんですか?」
「うん。女子にもよく言う、“その髪型いいじゃん”って。だいたい反応いいんだよ、これ」
「軽いですね」
「そう。軽い。だけど――」
ふと、彼の声色が変わった。
「お前に言うときだけは、ちょっと重くなる」
「……え」
「小野、って呼ぶとさ、“ちゃんと届いてほしい”って思っちゃうんだよね。不思議だけど」
その言葉に、息を詰めた。
たった二
この人は、名前を使って、僕との距離を測っている。
「俺、名前ってさ、使い方で気持ちがバレると思ってて。
“名字呼び”と“名前呼び”って、壁が違うじゃん」
「……違いますね」
「でしょ? だから俺、名前で呼びたくなる人って、けっこう特別」
「……」
返事ができなかった。
でも、心はずっと返事をしていた。
大きく、大きく、跳ねていた。
その帰り道、いつものように少しだけ並んで歩く。
「なあ、小野」
彼が、少し小さな声で言った。
「名前、呼ばれるの、苦手?」
「……昔から、あまり好きじゃなかったです」
「うん、わかる。なんかさ、“名前呼ばれたくない”って思うときって、自分がそこに存在してるのが怖いんだよな」
「……はい」
「でも、俺は、お前のこと――ちゃんと見てたいって思ってる。
だから、名前、呼んでいい?」
その問いかけが、
とてもまっすぐで、逃げ場がなかった。
だけど、逃げたくなかった。
少しだけ立ち止まって、僕は答えた。
「……いいですよ」
それは、ほんのわずかな許可。
でも僕にとっては、
“ここにいてもいい”と、自分を認めるための、一歩だった。
次の日、教室。
彼は、僕の方を見て、笑った。
「おはよう、紬」
――名前で、呼ばれた。
今度は、名字じゃない。
僕の、名前。
「……おはよう、晴くん」
声が、震えた。
でも、ちゃんと届いた。
その瞬間、彼の目が、少しだけ見開かれた気がした。
そして、ほんのわずかに、
その笑顔が照れくさそうに崩れた。
ふたりだけが知っている呼び方。
ふたりだけの“距離”。
それは、まだ触れ合わない掌みたいなもの。
でも、もう確実に、熱を伝え始めていた。
その朝、彼は何気ない調子で僕の名前を呼んだ。
「……おはよう、小野」
教室に入ってすぐ、いつものように自分の席に向かおうとしていた時だった。
振り返ると、桐ヶ谷くんが、鞄を片手に持ったまま、少しだけ頬を緩めていた。
名前を、呼ばれた。
それも、たくさんのクラスメイトがいるこの空間で。
僕はとっさに反応できず、軽くうなずくだけで精一杯だった。
でも、胸の奥では違う音が鳴っていた。
ひとつひとつが、ゆっくりと、大きく波打つように。
そのたびに、自分の中にある“距離”の感覚が揺れた。
名前って、不思議だ。
その人だけに与えられた、唯一の呼び方。
呼ばれることで“存在を認められる”ような気がして、
同時に、それが“相手の中に自分がいる”証のようにも思えた。
そしてそれが、僕には――ずっと、怖かった。
中学時代、僕の名前は“顔”と一緒に広まった。
SNSに投稿されたあの写真と、フルネーム。
それは、まるで商品タグのようにぶら下がっていて、
誰でも検索すれば見つけられる“顔と名前のセット”になった。
だから、僕はずっと「名前で呼ばれること」を避けてきた。
呼ばれないように、関わらないように。
誰の記憶にも残らないように。
「小野」
でも、彼はあっさりと、それを超えてくる。
たった一言の呼びかけが、
ずっと隠してきた僕の輪郭をなぞるようで、
うれしくて、でも、怖くて。
自分がいま、何を感じているのかさえ分からなかった。
放課後、僕はまたあのコンビニにいた。
もはや“偶然”ではないことを、僕自身が一番わかっている。
いつのまにか、この場所で“彼に会う”ことが、
日常の延長になっていた。
「今日もプリン、残ってるかな」
そんなふうに考えながら冷蔵棚の前に立った瞬間――
「……小野」
不意に背後から名前を呼ばれた。
声をかけられるよりも、名前で呼ばれるほうが、何倍も心臓に響いた。
振り返ると、彼がいた。
やっぱり黒パーカーに、軽く乱れた髪。
学校の制服姿とはまるで違う、
どこか“素”の桐ヶ谷晴。
「今日も甘いの買うんだな。もうこれは運命だな、うん」
「……それ、毎回言ってますよ」
「いいじゃん、使い回しのセリフ。俺の得意分野だし」
「……そうなんですか?」
「うん。女子にもよく言う、“その髪型いいじゃん”って。だいたい反応いいんだよ、これ」
「軽いですね」
「そう。軽い。だけど――」
ふと、彼の声色が変わった。
「お前に言うときだけは、ちょっと重くなる」
「……え」
「小野、って呼ぶとさ、“ちゃんと届いてほしい”って思っちゃうんだよね。不思議だけど」
その言葉に、息を詰めた。
たった二
この人は、名前を使って、僕との距離を測っている。
「俺、名前ってさ、使い方で気持ちがバレると思ってて。
“名字呼び”と“名前呼び”って、壁が違うじゃん」
「……違いますね」
「でしょ? だから俺、名前で呼びたくなる人って、けっこう特別」
「……」
返事ができなかった。
でも、心はずっと返事をしていた。
大きく、大きく、跳ねていた。
その帰り道、いつものように少しだけ並んで歩く。
「なあ、小野」
彼が、少し小さな声で言った。
「名前、呼ばれるの、苦手?」
「……昔から、あまり好きじゃなかったです」
「うん、わかる。なんかさ、“名前呼ばれたくない”って思うときって、自分がそこに存在してるのが怖いんだよな」
「……はい」
「でも、俺は、お前のこと――ちゃんと見てたいって思ってる。
だから、名前、呼んでいい?」
その問いかけが、
とてもまっすぐで、逃げ場がなかった。
だけど、逃げたくなかった。
少しだけ立ち止まって、僕は答えた。
「……いいですよ」
それは、ほんのわずかな許可。
でも僕にとっては、
“ここにいてもいい”と、自分を認めるための、一歩だった。
次の日、教室。
彼は、僕の方を見て、笑った。
「おはよう、紬」
――名前で、呼ばれた。
今度は、名字じゃない。
僕の、名前。
「……おはよう、晴くん」
声が、震えた。
でも、ちゃんと届いた。
その瞬間、彼の目が、少しだけ見開かれた気がした。
そして、ほんのわずかに、
その笑顔が照れくさそうに崩れた。
ふたりだけが知っている呼び方。
ふたりだけの“距離”。
それは、まだ触れ合わない掌みたいなもの。
でも、もう確実に、熱を伝え始めていた。



