マスクの内側にこもった自分の息は、いつも少し生ぬるくて、少し苦しい。
でも、この不快さに、僕は救われてきた。
苦しいのは、自分を守っている証拠。
安心して隠れていられる、証明。
誰にも見せなくていい。
誰にも読まれなくていい。
そう思い込むことで、なんとか日々をやりすごしてきた。
けれど最近、その「安心」がほんの少しだけ、揺らいでいる。
その理由は明白だった。
桐ヶ谷晴――。
彼は、僕のこの“壁”に、真正面から手を伸ばしてくる。
それが、怖いほどに、やさしい手つきで。
昼休み、教室の隅で静かに弁当箱の蓋を開けていた僕の前に、
いつものように誰にも気づかれないように生きているはずの僕の前に、
影が落ちた。
「よ」
顔を上げると、紙パックのミルクティーを口にくわえた桐ヶ谷くんが、
僕の机に肘をついて覗き込んでいた。
「……なにか、用ですか?」
「ないけど。暇だから来た」
そんな理由。
でもそれは、僕にとってはとんでもなく特別な理由だった。
誰かが、自分の意思で僕のところに来るなんて、あまりなかったから。
「それ、自分で作ったの?」
「え?」
彼の視線が僕の弁当箱に落ちている。
「卵焼き、きれいだったからさ」
「……あ、はい。母が夜勤の日は、基本自分で」
「へえ、真面目だな。なんか意外」
“意外”って、いつも不思議な言葉だ。
「意外」ってことは、相手は僕に「別の印象」を持っていたってこと。
でも、どういう印象だったのかは教えてくれない。
それを聞くのも、なんだか怖くて、僕はうつむいたまま黙ってしまった。
「……お前さ、俺のこと嫌い?」
「……え?」
「いや、違うか。苦手?」
「……どっちでも、ないです」
そう答えると、彼は口角を少しだけ上げた。
「そっか。じゃあ、少しずつ慣れてく?」
「……慣れて、ですか?」
「俺と話すの。今みたいに」
「……はい。少しずつなら」
その瞬間、彼の表情がほんの一瞬だけ柔らかくなる。
まるで、春の風が頬を撫でるみたいな、
ほとんど音を立てない微笑みだった。
放課後、帰り支度をしていると、
彼が僕の机にひょいと顔を出した。
「ちょっと寄り道しない?」
一拍、呼吸が止まった。
その誘いが、意味すること。
その先にある“何か”を、僕はなんとなく予感していた。
「……どこへ?」
「駅の反対側に、小さな公園があんだけど。
あんまり人いなくて、静かでさ。たまに行くんだ」
「……」
「無理ならいいけど」
断る理由はなかった。
いや、きっと――“断れなかった”。
なぜなら、自分のなかのどこかが、
その先にある何かを、欲しがっていたから。
公園は、思ったよりもこぢんまりしていた。
ブランコが二つと、錆びた鉄棒。
ベンチがひとつ。
そして、夕暮れの空。
空は、まだうっすらと茜色を残していて、
遠くで電車の走る音が微かに聞こえていた。
「ここ、いいでしょ」
「……静かですね」
「うん。だから、言いやすいこともある」
その言葉が、少しだけ重かった。
「小野、さ」
「はい」
「今日……少しだけ、マスク外してみる?」
やっぱり、と思った。
でも、それでもすぐに「無理です」とは言えなかった。
「……こわいです」
「そうだよな」
「誰かに見られてる気がするんです。……いまでも、どこかで。
また笑われるんじゃないかって」
声が少しだけ震えた。
彼は黙ったまま、ベンチに座り、空を見上げて言った。
「俺さ、小さい頃、母親が夜勤のとき、よく一人でごはん食べてたんだ。
テレビつけっぱなしで、誰とも喋らないで、冷めたご飯食べててさ」
「……」
「慣れてたし、別に嫌じゃなかったけど。
誰かにその話をしたとき、変だって笑われたことがあって」
「……」
「それ以来、自分のこと話すの、ちょっとだけ苦手になった」
「……それって、今も?」
「今も。
でも、お前には言えた。たぶん、お前も同じだったから」
そう言って、彼は僕を見た。
「見せられる相手って、少ないけど――
だからこそ、大事にしたくなるんだと思う」
静かに、夜風が吹いた。
マスクの端に、そっと指をかける。
外すか、外さないか。
その選択肢が、こんなに重たいなんて。
でも――
「少しだけ、です」
僕は、マスクを少しだけずらした。
頬に触れた夜風が、肌の奥まで染み込んでくる。
空気がやけに冷たくて、でも、澄んでいた。
「……すげぇ、綺麗だな」
彼が、ふと言った。
その一言に、胸の奥がぎゅっとなった。
綺麗なんて言われたくないはずだった。
怖いはずだった。
でも、不思議と――
嫌じゃなかった。
「ありがとうございます」
声が少し震えていた。
でも、ちゃんと出せた。
彼は、うなずいて、笑った。
「どういたしまして」
たった数秒だったけど、
マスクの奥にあった僕が、確かに“誰かに見られた”瞬間だった。
帰り道、ふたり並んで歩く。
話すことはなかったけど、
沈黙が、心地よかった。
肩が触れそうで、触れない距離。
足音が重なって、響く帰り道。
夜の匂いが、少しだけ甘かった。
次の日の朝。
教室に入ると、桐ヶ谷くんが、
僕の方を見て、にやっと笑った。
誰にも気づかれない、ふたりだけの合図。
マスクの奥で、僕も、笑った。
“外してもいい時間”は、
彼とだけ、分け合える。
それは、僕にとって、
何よりの救いだった。
でも、この不快さに、僕は救われてきた。
苦しいのは、自分を守っている証拠。
安心して隠れていられる、証明。
誰にも見せなくていい。
誰にも読まれなくていい。
そう思い込むことで、なんとか日々をやりすごしてきた。
けれど最近、その「安心」がほんの少しだけ、揺らいでいる。
その理由は明白だった。
桐ヶ谷晴――。
彼は、僕のこの“壁”に、真正面から手を伸ばしてくる。
それが、怖いほどに、やさしい手つきで。
昼休み、教室の隅で静かに弁当箱の蓋を開けていた僕の前に、
いつものように誰にも気づかれないように生きているはずの僕の前に、
影が落ちた。
「よ」
顔を上げると、紙パックのミルクティーを口にくわえた桐ヶ谷くんが、
僕の机に肘をついて覗き込んでいた。
「……なにか、用ですか?」
「ないけど。暇だから来た」
そんな理由。
でもそれは、僕にとってはとんでもなく特別な理由だった。
誰かが、自分の意思で僕のところに来るなんて、あまりなかったから。
「それ、自分で作ったの?」
「え?」
彼の視線が僕の弁当箱に落ちている。
「卵焼き、きれいだったからさ」
「……あ、はい。母が夜勤の日は、基本自分で」
「へえ、真面目だな。なんか意外」
“意外”って、いつも不思議な言葉だ。
「意外」ってことは、相手は僕に「別の印象」を持っていたってこと。
でも、どういう印象だったのかは教えてくれない。
それを聞くのも、なんだか怖くて、僕はうつむいたまま黙ってしまった。
「……お前さ、俺のこと嫌い?」
「……え?」
「いや、違うか。苦手?」
「……どっちでも、ないです」
そう答えると、彼は口角を少しだけ上げた。
「そっか。じゃあ、少しずつ慣れてく?」
「……慣れて、ですか?」
「俺と話すの。今みたいに」
「……はい。少しずつなら」
その瞬間、彼の表情がほんの一瞬だけ柔らかくなる。
まるで、春の風が頬を撫でるみたいな、
ほとんど音を立てない微笑みだった。
放課後、帰り支度をしていると、
彼が僕の机にひょいと顔を出した。
「ちょっと寄り道しない?」
一拍、呼吸が止まった。
その誘いが、意味すること。
その先にある“何か”を、僕はなんとなく予感していた。
「……どこへ?」
「駅の反対側に、小さな公園があんだけど。
あんまり人いなくて、静かでさ。たまに行くんだ」
「……」
「無理ならいいけど」
断る理由はなかった。
いや、きっと――“断れなかった”。
なぜなら、自分のなかのどこかが、
その先にある何かを、欲しがっていたから。
公園は、思ったよりもこぢんまりしていた。
ブランコが二つと、錆びた鉄棒。
ベンチがひとつ。
そして、夕暮れの空。
空は、まだうっすらと茜色を残していて、
遠くで電車の走る音が微かに聞こえていた。
「ここ、いいでしょ」
「……静かですね」
「うん。だから、言いやすいこともある」
その言葉が、少しだけ重かった。
「小野、さ」
「はい」
「今日……少しだけ、マスク外してみる?」
やっぱり、と思った。
でも、それでもすぐに「無理です」とは言えなかった。
「……こわいです」
「そうだよな」
「誰かに見られてる気がするんです。……いまでも、どこかで。
また笑われるんじゃないかって」
声が少しだけ震えた。
彼は黙ったまま、ベンチに座り、空を見上げて言った。
「俺さ、小さい頃、母親が夜勤のとき、よく一人でごはん食べてたんだ。
テレビつけっぱなしで、誰とも喋らないで、冷めたご飯食べててさ」
「……」
「慣れてたし、別に嫌じゃなかったけど。
誰かにその話をしたとき、変だって笑われたことがあって」
「……」
「それ以来、自分のこと話すの、ちょっとだけ苦手になった」
「……それって、今も?」
「今も。
でも、お前には言えた。たぶん、お前も同じだったから」
そう言って、彼は僕を見た。
「見せられる相手って、少ないけど――
だからこそ、大事にしたくなるんだと思う」
静かに、夜風が吹いた。
マスクの端に、そっと指をかける。
外すか、外さないか。
その選択肢が、こんなに重たいなんて。
でも――
「少しだけ、です」
僕は、マスクを少しだけずらした。
頬に触れた夜風が、肌の奥まで染み込んでくる。
空気がやけに冷たくて、でも、澄んでいた。
「……すげぇ、綺麗だな」
彼が、ふと言った。
その一言に、胸の奥がぎゅっとなった。
綺麗なんて言われたくないはずだった。
怖いはずだった。
でも、不思議と――
嫌じゃなかった。
「ありがとうございます」
声が少し震えていた。
でも、ちゃんと出せた。
彼は、うなずいて、笑った。
「どういたしまして」
たった数秒だったけど、
マスクの奥にあった僕が、確かに“誰かに見られた”瞬間だった。
帰り道、ふたり並んで歩く。
話すことはなかったけど、
沈黙が、心地よかった。
肩が触れそうで、触れない距離。
足音が重なって、響く帰り道。
夜の匂いが、少しだけ甘かった。
次の日の朝。
教室に入ると、桐ヶ谷くんが、
僕の方を見て、にやっと笑った。
誰にも気づかれない、ふたりだけの合図。
マスクの奥で、僕も、笑った。
“外してもいい時間”は、
彼とだけ、分け合える。
それは、僕にとって、
何よりの救いだった。



