「……紬」

放課後の渡り廊下。
日が傾き始めた校舎の中で、晴くんが僕の名前を呼んだ。

声のトーンは、いつもと同じように優しいのに、
胸の奥にまっすぐ届く音だった。

「……少しだけ、いい?」

頷くだけで精一杯だった。

階段を下りて、グラウンドの脇の小道を歩く。
言葉はまだ交わさない。
でも、並んで歩いているだけで、
鼓動が苦しくなるほど早くなっていた。

やがて校舎の裏手、
小さな桜の木があるベンチの前で、晴くんが足を止めた。

春の風が、ほんのり花の匂いを運んでくる。

「……ごめん、紬」

「……ううん」

「俺、自分の言葉で紬を守れるって思ってたのに……言わないことで、逆に紬を不安にさせてたよな」

「……怖かっただけだよ」

「怖い?」

「晴くんが何も言わないってことが、“僕じゃなきゃダメじゃなかったんじゃないか”って、そんなふうに思えてしまった」

その言葉を口にした瞬間、
喉の奥がぎゅっとつまって、息が詰まりそうになった。

でも、晴くんはちゃんと僕の顔を見ていた。

「違うよ」

彼の声が、やわらかく、でも真剣に落ちる。

「紬じゃなきゃ、無理だったよ」

「……ほんと?」

「ほんと。俺、たぶん紬がいなかったら、ずっと“明るい人気者のふり”だけして、本当の気持ちなんて誰にも言えなかった」

「……そんなの」

「でも、紬だけには、言えるって思った。だから――これからは、黙らない。どんなにかっこ悪くても、ちゃんと伝える」

その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなる。

「……僕も、晴くんに全部伝えたい。まだちゃんと、言えてないことがたくさんあるから」

「じゃあ――お互い様ってことで」

晴くんが、ふわりと笑った。
その顔が、やけに近く感じて。
視線が自然と、彼の唇に向かってしまう。

すると、彼が少し顔を傾けてきた。

「……していい?」

「……なにを?」

「わかってるくせに」

「……ばか」

そんなやりとりのあと、
唇が、そっと触れ合った。

甘さも、切なさも、全部詰まったキスだった。

離れたあと、彼が僕の髪をそっと撫でながら言った。

「これからも、紬の全部を見せてよ。俺も、ちゃんと見せるから」

「……うん」

風がまた吹いて、
ふたりの距離はもう、何ひとつ隠さずに並んでいた。