「秘密ってさ、ひとりで抱えてると、どんどん重くなるんだよ」
コンビニの冷蔵棚の前で、桐ヶ谷くんはそう言った。
その声が、透明なガラスの向こう側に吸い込まれて、
静かに冷えた空気のなかでふるえるように響いた。
放課後のコンビニ。
照明の白が、やけにまぶしい。
外はもう夕暮れで、空の色が少しだけ藍色に近づいていた。
また会った。
三日連続で。
そしてまた、プリンがかぶった。
「どんだけ甘党なんだよ」
苦笑しながら言う彼の声が、昨日より少しだけやわらかかった気がする。
本当に偶然だったのか、もうわからない。
でも僕は、何も聞かなかったし、彼も何も言わなかった。
代わりに、彼の指先がそっと冷蔵棚に触れて、
手に取ったプリンが、僕と同じものだったことで、
言葉にならない何かが共有された気がした。
「俺、けっこうさ、こういう時間が好きなんだよね」
「こういう時間……?」
「放課後のさ、少しだけ薄暗くて、誰も“ちゃんとした自分”を装わなくていい空気。
コンビニって、ちょっとだけ“自由”になれる感じしない?」
彼の言葉に、僕は答えられなかった。
けど、心のどこかが、静かにうなずいていた。
コンビニの中って、なぜかほっとする。
制服でも、部屋着でも、誰にも注意されない。
“どこの誰か”じゃなくてもいられる空間。
僕にとっても、唯一、マスクをしていても気まずくない場所だった。
桐ヶ谷くんは、飲み物の棚の前で立ち止まり、ふと視線を横に流す。
その先にいるのが、僕だった。
「……小野、さ」
「……はい」
「なんでマスクしてるの?」
──心臓が、ひとつ跳ねた。
直球だった。
まわりくどさの欠片もない、まっすぐな質問。
咄嗟に答えを探す。
でも、もうそんな準備はしていなかった。
逃げられないと、どこかでわかっていた。
「……風邪とかじゃ、ないです」
「やっぱな」
彼はそう言って、ジュースを選びながら微笑んだ。
責めるでも、哀れむでもなく、ただ“事実”として受け取ったような顔。
「無理に聞くつもりはないよ。でも、俺……気になっただけ。
理由っていうより、なんていうか、気配?」
「気配……ですか?」
「うん。自分をすげぇ隠してる人って、わかるんだよ。俺、そういうの敏感でさ」
「……そう、なんですか」
「俺もさ――」
彼は言いかけて、言葉を止めた。
その“間”が、やけに長く感じた。
「……まあ、俺の話はいいや。今は、小野の番」
「僕の……番?」
「そう。マスクの理由、言える範囲でいいから、教えて?」
拒否しようと思えばできた。
でも、なぜかその選択肢が思い浮かばなかった。
彼の声が、あまりにも自然で、
“強制”じゃなかったから。
「……中学の時、写真を撮られて。勝手に、SNSに上げられて。
“顔だけは良いよね”って、書かれて、拡散されて……」
小さく話しながら、あの時の光景が脳裏に浮かぶ。
通知の音、爆発するフォロワー数、知らない人からのDM。
“顔だけ”。
たったそれだけの言葉が、僕を縛った。
「それ以来、人前で顔を見せるのが、怖くなったんです。
褒められるのも、笑われるのも、怖くて。
……だから、ずっと隠してるんです」
沈黙が落ちる。
彼は何も言わず、ただ僕の方を見ていた。
「……ごめん。聞いちゃって」
「謝らないでください。……自分で、話すって決めたから」
「そっか。……ありがとう」
その言葉が、意外で、
ほんの少しだけ、胸があたたかくなった。
誰かに話したのは、初めてだった。
本当に初めて。
親にも言っていない、
先生にも言えなかった。
誰にも渡したことのない“僕の秘密”を、
今、桐ヶ谷くんに、手渡した。
「……これ、秘密にしてもらえますか?」
「もちろん。ぜったいに」
彼はそう言って、レジ袋を揺らした。
なかに、僕と同じプリンがふたつ、入っていた。
「この時間に、ここで甘いもん買ってるのも、
マスクの理由も――
俺たちだけの秘密ってことで、いい?」
“俺たちだけの秘密”
その響きが、なぜか静かに胸に染み込んでいく。
「……はい」
たぶん僕は、笑っていたと思う。
マスクの下で、だけど、確かに。
家までの帰り道。
手にした袋のぬくもりが、今日だけはやけに重かった。
プリンの重さじゃない。
“誰かと繋がっている”という感覚の、重さ。
今までずっと一人でいた。
それが普通で、当たり前だった。
だけど今日、たった数分の会話で、
その“当たり前”が、少しだけ揺らいだ。
帰り道、風が吹いた。
春の終わりを思わせるような、ほんのり湿った匂いの風。
空を見上げると、薄い雲が流れていた。
それが、なんとなく“変わっていく”予感のように見えた。
僕は、マスクの端をそっと指先で押さえた。
まだ外せない。
でも――
ほんの少しだけ、手を伸ばしてみようと思った。
彼と共有した秘密が、
僕に、そう思わせてくれたから。
次の日。
ホームルームが終わったあと、
プリントを配りに立ち上がったとき――
教室の奥から、視線を感じた。
ふと目をやると、
桐ヶ谷くんが、僕を見ていた。
そして、に、と笑った。
口元だけの、小さな笑顔。
でもそれは、僕にしか向けられていない“サイン”だった。
声を出さなくても、通じる合図。
“秘密を共有してるふたり”だけが持つ、無言の会話。
僕も、マスクの下で、笑い返した。
その瞬間、教室の空気が、
ほんの少しだけ、やさしくなった気がした。
──秘密は、孤独じゃない。
そう、初めて思えた夜だった。
コンビニの冷蔵棚の前で、桐ヶ谷くんはそう言った。
その声が、透明なガラスの向こう側に吸い込まれて、
静かに冷えた空気のなかでふるえるように響いた。
放課後のコンビニ。
照明の白が、やけにまぶしい。
外はもう夕暮れで、空の色が少しだけ藍色に近づいていた。
また会った。
三日連続で。
そしてまた、プリンがかぶった。
「どんだけ甘党なんだよ」
苦笑しながら言う彼の声が、昨日より少しだけやわらかかった気がする。
本当に偶然だったのか、もうわからない。
でも僕は、何も聞かなかったし、彼も何も言わなかった。
代わりに、彼の指先がそっと冷蔵棚に触れて、
手に取ったプリンが、僕と同じものだったことで、
言葉にならない何かが共有された気がした。
「俺、けっこうさ、こういう時間が好きなんだよね」
「こういう時間……?」
「放課後のさ、少しだけ薄暗くて、誰も“ちゃんとした自分”を装わなくていい空気。
コンビニって、ちょっとだけ“自由”になれる感じしない?」
彼の言葉に、僕は答えられなかった。
けど、心のどこかが、静かにうなずいていた。
コンビニの中って、なぜかほっとする。
制服でも、部屋着でも、誰にも注意されない。
“どこの誰か”じゃなくてもいられる空間。
僕にとっても、唯一、マスクをしていても気まずくない場所だった。
桐ヶ谷くんは、飲み物の棚の前で立ち止まり、ふと視線を横に流す。
その先にいるのが、僕だった。
「……小野、さ」
「……はい」
「なんでマスクしてるの?」
──心臓が、ひとつ跳ねた。
直球だった。
まわりくどさの欠片もない、まっすぐな質問。
咄嗟に答えを探す。
でも、もうそんな準備はしていなかった。
逃げられないと、どこかでわかっていた。
「……風邪とかじゃ、ないです」
「やっぱな」
彼はそう言って、ジュースを選びながら微笑んだ。
責めるでも、哀れむでもなく、ただ“事実”として受け取ったような顔。
「無理に聞くつもりはないよ。でも、俺……気になっただけ。
理由っていうより、なんていうか、気配?」
「気配……ですか?」
「うん。自分をすげぇ隠してる人って、わかるんだよ。俺、そういうの敏感でさ」
「……そう、なんですか」
「俺もさ――」
彼は言いかけて、言葉を止めた。
その“間”が、やけに長く感じた。
「……まあ、俺の話はいいや。今は、小野の番」
「僕の……番?」
「そう。マスクの理由、言える範囲でいいから、教えて?」
拒否しようと思えばできた。
でも、なぜかその選択肢が思い浮かばなかった。
彼の声が、あまりにも自然で、
“強制”じゃなかったから。
「……中学の時、写真を撮られて。勝手に、SNSに上げられて。
“顔だけは良いよね”って、書かれて、拡散されて……」
小さく話しながら、あの時の光景が脳裏に浮かぶ。
通知の音、爆発するフォロワー数、知らない人からのDM。
“顔だけ”。
たったそれだけの言葉が、僕を縛った。
「それ以来、人前で顔を見せるのが、怖くなったんです。
褒められるのも、笑われるのも、怖くて。
……だから、ずっと隠してるんです」
沈黙が落ちる。
彼は何も言わず、ただ僕の方を見ていた。
「……ごめん。聞いちゃって」
「謝らないでください。……自分で、話すって決めたから」
「そっか。……ありがとう」
その言葉が、意外で、
ほんの少しだけ、胸があたたかくなった。
誰かに話したのは、初めてだった。
本当に初めて。
親にも言っていない、
先生にも言えなかった。
誰にも渡したことのない“僕の秘密”を、
今、桐ヶ谷くんに、手渡した。
「……これ、秘密にしてもらえますか?」
「もちろん。ぜったいに」
彼はそう言って、レジ袋を揺らした。
なかに、僕と同じプリンがふたつ、入っていた。
「この時間に、ここで甘いもん買ってるのも、
マスクの理由も――
俺たちだけの秘密ってことで、いい?」
“俺たちだけの秘密”
その響きが、なぜか静かに胸に染み込んでいく。
「……はい」
たぶん僕は、笑っていたと思う。
マスクの下で、だけど、確かに。
家までの帰り道。
手にした袋のぬくもりが、今日だけはやけに重かった。
プリンの重さじゃない。
“誰かと繋がっている”という感覚の、重さ。
今までずっと一人でいた。
それが普通で、当たり前だった。
だけど今日、たった数分の会話で、
その“当たり前”が、少しだけ揺らいだ。
帰り道、風が吹いた。
春の終わりを思わせるような、ほんのり湿った匂いの風。
空を見上げると、薄い雲が流れていた。
それが、なんとなく“変わっていく”予感のように見えた。
僕は、マスクの端をそっと指先で押さえた。
まだ外せない。
でも――
ほんの少しだけ、手を伸ばしてみようと思った。
彼と共有した秘密が、
僕に、そう思わせてくれたから。
次の日。
ホームルームが終わったあと、
プリントを配りに立ち上がったとき――
教室の奥から、視線を感じた。
ふと目をやると、
桐ヶ谷くんが、僕を見ていた。
そして、に、と笑った。
口元だけの、小さな笑顔。
でもそれは、僕にしか向けられていない“サイン”だった。
声を出さなくても、通じる合図。
“秘密を共有してるふたり”だけが持つ、無言の会話。
僕も、マスクの下で、笑い返した。
その瞬間、教室の空気が、
ほんの少しだけ、やさしくなった気がした。
──秘密は、孤独じゃない。
そう、初めて思えた夜だった。



