次の日の朝。
玄関の鏡の前で、ふと自分の顔を見た。

マスクをつけない自分の顔。
まだ慣れてないけど、以前とは、どこか違って見えた。

(これが、僕)

それを鏡に映すことに、
もう怯えずにいられる気がした。

理由は――
昨日、晴くんがその顔を“好きだ”と言ってくれたから。

「おはよう、紬」

教室に入ると、いつもより少し早く来ていた晴くんが、
僕に向かって手を軽く上げて微笑んだ。

制服姿は相変わらず“爽やかで明るい人気者”そのものなのに、僕には、昨日の私服姿と同じ人にしか見えなかった。

「……おはよう、晴くん」

僕も、自然に笑って返せた。

マスクをしていなくても。

「なんか、今日ちょっと違う?」

そう言われたのは、隣の席の女子からだった。

「……え?」

「顔、というか……雰囲気?なんか変わった感じする」

「そ、そうかな……?」

「いや、いい意味でだよ?なんかイケメン度増してない?」

「……え?」

その言葉に、耳がほんの少し赤くなったのを自覚する。
そして思わず、晴くんの方をちらりと見てしまった。

彼は、僕の顔を見て、くすっと笑って、
何も言わずにノートをめくっていた。

その沈黙の優しさが、
なんだか胸にじんわりと広がった。

昼休み。
人気の少ない図書室の隅で、晴くんと並んで座った。

会話はほとんどないけど、
お互いに読んでいる本のページをめくる音と、
ときどきふっと目が合って、微笑み合うだけで十分だった。

「……なあ」

「ん?」

「今日、マスクしてないまま登校してくれて、ありがとな」

「ううん。……晴くんのおかげだよ。昨日、隣で歩いてくれたこと。手を繋いでくれたこと。それが、今の僕をここにいさせてくれてるんだと思う」

「……そっか」

彼の手が、机の下で僕の指先をつついてくる。

そのまま、そっと絡めた。

目立たない、けどちゃんと繋がってる。

誰にも見られてなくても、
ふたりのあいだには、ちゃんと何かがある。

放課後。

昇降口に並ぶ靴箱の前。
晴くんが僕の名前を小さく呼んだ。

「紬」

「ん?」

「今度の週末さ、またどっか行こ。あのチャームつけてくれてるの、見えたから」

言われて、自分のリュックを見る。

昨日、彼がガチャで出してくれた小さなキーホルダーが、ファスナーのところで揺れていた。

「うん。また行こう。今度は僕が、行きたいとこ考える」

「マジで?楽しみにしてる」

「……期待しないで」

「でも、紬が選ぶなら、それだけでいい」

そう言って笑った彼の声を聞いて、
また少しだけ、自分が変われた気がした。

晴くんの隣にいると、
僕は“なにかになろう”としなくても、
ただの“僕”で、ちゃんと強くなれる。