「私服でふたりきりって、初めてかもな」

待ち合わせ場所に立っていた晴くんは、学校で見る“爽やかで明るい人気者”とは、少し違う顔をしていた。

黒のパーカーに、耳元で揺れるピアス。
ほんのり崩した髪型に、気だるげな目元。
でも、僕を見つけた瞬間、口元がふわりとほどける。

「お、来た来た。今日もマスクなしだな」

「うん。……晴くんの前では、もういらないって思ったから」

照れを隠すように小さく笑うと、彼の視線が一瞬、僕の唇に落ちた。

その熱の乗った視線に、胸が少し跳ねた。

「えらい。マスク外してる紬、俺、めっちゃ好き」

「……またそういうこと言う」

「言う。好きなやつには好きって言いたい」

手を差し出されて、自然と握り返す。

繋いだ手がじわじわと熱くなる。
彼の手はいつもあたたかくて、少しだけ僕のより大きくて、その指が絡んだ瞬間に、心まで包み込まれるようだった。

「なあ」

「なに?」

「今日、ずっと手繋いで歩いていい?」

「……うん」

ほんの少しの間があったのは、嬉しさのせいだ。
顔が熱くなるのを感じながら、それでもちゃんと頷けた自分がいた。

ふたりで向かったのは、晴くんが調べてくれたブックカフェ。

通りから少し入った静かな場所にあって、
木の棚とアンティーク調のランプに囲まれた、空気がやわらかくなるような空間だった。

「……いいとこ見つけたね」

「でしょ。紬、絶対好きそうだと思った」

「うん、すごく落ち着く」

「俺の彼氏の趣味、完璧に理解しているから」

「……やめて。そういうの、店の中で言うの……」

「なんで? 可愛いのに」

返す言葉が見つからなくて、視線を逸らした。
でも、顔が熱くなってるのを自覚している時点で、誤魔化せてないことは分かっていた。

窓際の席に並んで座ると、晴くんの膝が僕の足にふと触れる。

最初は偶然かと思ったけれど、
二度、三度と微妙な距離で当たるたび、
“これは狙ってるな”と確信する。

そんな中で、カップのココアに唇をつけた。
ふうっと小さく息を吹いてから飲むと、やわらかい甘さが口の中に広がる。

「……ん?」

視線を感じて顔を上げると、
晴くんがじっと、僕の口元を見ていた。

「な、なに……?」

「あー、ちょっと動かないで」

言いながら、彼の指先がすっと伸びてきた。

そのまま、僕の唇の端に触れる。
そっとなぞるように、拭うように。

「ココア、ついてた」

ささやくような声が耳に落ちて、
その瞬間、背筋がぞくりとした。

(……ずるい)

体温が一気に跳ね上がって、
心臓が煩いほどに脈打つ。

「……それ、狙ってたでしょ」

「バレた? いや、かわいくてさ。チャンスかと思って」

「……ほんと、晴くんって」

「彼氏だから許して?」

「……だいたい許すけど、図に乗らないでよね」

「乗るよ?」

にやけ顔で返されて、
こっちが視線を逸らすしかなかった。

でも、彼の指先の感触は、まだ唇に残っていた。

ブックカフェを出たあと、
晴くんが小さな雑貨店に立ち寄って、
ガチャガチャをひとつ回した。

出てきたのは、小さなチャーム付きのキーホルダー。

「なにそれ?」

「お揃いにしよ。つけてくれる?」

そう言って、彼が僕のリュックのファスナーに手を伸ばす。

「勝手に……」

「ダメ?」

「……いいけど、急すぎ」

「スピード勝負だから、恋ってやつは」

「……どの口が言うの」

ふたりで並んで歩いて、
どこへ行くわけでもなく、ゆっくりと日が傾いていく。

でも、ふとした沈黙さえ心地よくて。
どこまでも歩ける気がした。

帰り道、人気のない歩道に差しかかった時。
晴くんが突然足を止める。

「……ねえ、紬」

「なに?」

「俺、今日の紬がすごく好き」

「……今日?」

「うん。マスクなしで、俺と並んで歩いて、笑ったり怒ったりして、いじられてちょっと照れて――全部、俺だけの“今の紬”だなって思った」

言葉が、心に深く差し込んできた。

息をのむような間があって。

「……紬から、何か欲しい」

「なに?」

「――キス。してもいい?」

声が、少し低くなった。

「……お願い」

頷いた瞬間、
彼の手が僕の頬に触れる。

ゆっくりと、だけど確かに。
距離が縮まって、唇が重なる。

ぬくもりが伝わる。
柔らかさと、すこし濡れた感触。
そして、触れているだけなのに、深くなっていく呼吸。

喉の奥が震える。
背中に回された腕が、強く引き寄せる。

「……っ、晴くん……」

「もうちょっとだけ」

囁きと共に、また唇が重なる。

触れるたびに、気持ちも、身体も、
少しずつ近づいて、境目が曖昧になっていく。

夕暮れの色に染まった街角で、
僕たちは静かに、確かに“ひとつ”になっていくようだった。