「晴くんが、好きになってくれた“僕”で、ちゃんといたい」

それは、まっすぐに放たれた紬の言葉だった。
澄んだ声で、穏やかな表情で――それでもどこか、決意をにじませるような目で。

目の前でそんなふうに言われたら、
誰だって嬉しくなる。
心が震える。
世界が少しだけ明るく見える。

それなのに、俺の中には、ほんの少しだけ“空白”が生まれた。

言えなかったのは、「好き」って言葉。
俺が一番、紬の口から聞きたかった一言。
でも、それはなかった。

かわりに彼がくれたのは、
“今の自分を肯定してくれたこと”と、
“俺がくれたまなざしを受け止めたいという意志”。

それがどれだけ大きな一歩か、もちろん分かっている。

それでも、どうしようもなく“何かが足りない”と、
心の奥で誰かが囁いていた。

帰り道。
隣を歩く紬は、マスクを外したまま、
夕陽に照らされた頬を少しだけ紅潮させていた。

たぶん、緊張していたのは彼も同じだ。

時折、視線を上げては俺の横顔をちらりと盗み見る。
そしてまた、すぐに目を逸らす。

(かわいいな)

素直にそう思った。
そう思えるだけの余裕が、自分にもまだあることに少し安心した。

だけど、なぜかそのまま手を繋ごうとする勇気が出なかった。

いつもなら、自然と差し出してくれる手を、
今日は紬が出さなかった。

俺も、出せなかった。

それだけで、足元の影が少しだけ遠ざかる気がした。

「……ありがとう、晴くん」

歩道橋の下に差しかかるころ、
彼がそう呟いた。

静かで、やわらかくて、
けれどその響きのなかに、微かな“緊張”があった。

言葉を返すのに、ほんの数秒の間が空いてしまった。

「うん」

やっと絞り出した声は、
自分でも情けなくなるほどのそっけなさだった。

(なにやってんだ、俺)

あれだけの言葉をくれた彼に、
こんな薄い返事しかできない自分が、たまらなく不甲斐なかった。

夜。
部屋の明かりはつけずに、
カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、
スマホの画面をほのかに照らしていた。

今日はありがとう
ちょっと緊張したけど、晴くんに見てほしくて、伝えたかった

たった二行。

でもその短い文章の裏に、
どれだけの勇気と想いが詰まっているのか、痛いほどわかった。

指が震える。
返信を打つ前に、スマホをひとつ深呼吸して握り直した。

こちらこそありがとう
紬の気持ち、ちゃんと受け取ったよ

そう返して、送信ボタンを押すまでに、
何度も文章を読み返した。

「好き」って、俺の方から言えたらよかったのに。
このタイミングで伝えられたら、きっとすごく自然だったのに。
でも、それができなかった。

自分でも理由がわからないまま、
そのままスマホを伏せて、天井を仰いだ。

翌朝、学校。

紬はいつも通りだった。

「おはよう、晴くん」

笑顔を向けてくれるその顔に、
昨日の名残は一切なかった。

いや――たぶん、俺が“そう思いたかった”だけかもしれない。

教室に流れるざわざわした空気、
窓際の光の差し込み方、
机の角に置かれたカバンの影――
全部が、昨日と変わらないはずなのに、
俺だけが昨日のまま、足を止めている気がした。

昼休み。
ふと顔を上げると、紬が数人のクラスメイトと談笑していた。

笑ってる。
ちゃんと、自分の言葉で会話をしている。
視線を避けることもなく、相手の目を見て返事をしている。

(……強くなったな)

それは間違いなく喜ばしいことだった。

俺が、ずっと願っていたことでもあった。

でも、その笑顔の中に、
“俺が知らない紬”が少しずつ混ざっていくような気がして、
心のどこかがざわついた。

放課後、校門を出たあたりで紬がぽつりと口を開いた。

「晴くん、今日……ごめんね。昨日のこと、ちょっと緊張しすぎてて、うまく話せなかったかも」

「ううん。そんなことない。ちゃんと、伝わってたよ」

「ほんと?」

「ほんと」

うそじゃない。
本当に、ちゃんと伝わっていた。

でも――
伝わった先で、俺がどう答えるべきだったか、
まだ見えていなかった。

夜。

枕元のスマホが光るたびに、
また“紬からかもしれない”と胸がざわついた。

だけど、通知は別の友人からだった。

(なにやってんだ、俺)

また同じ言葉が頭をよぎった。

あの日から、
「俺も、好きだよ」と言えなかったことがずっと心に残っていた。

言えばよかった。
なにも、かっこつける必要なんてなかった。

ただ、ちゃんと返してあげればよかった。

紬は、変わった。
強くなった。

ひとりでも、ちゃんと笑えるようになった。

(俺は、どうだ?)

俺は、ただその後ろ姿を見て、
少しずつ“取り残されていく”ような感覚に、怯えているだけじゃないのか?

“想ってるのに、不安になる”

そんな矛盾が、胸の奥にしっかりと根を張っていた。

でも、明日もまた、彼に会える。

きっと、ちゃんと笑ってくれる。

それだけは信じていた。

だけど同時に、
“次こそは、自分の言葉で届かせないと”という焦りも、
静かに胸を締めつけていた。