その日、教室に入った瞬間、
視線が、すこし多かった気がした。

席に向かいながら、その理由に気づく。

マスクを、していない。

もう、緊張はしなかった。
だけど、やっぱり少しだけ、背筋にひやりとしたものが走る。

「おはよう、小野くん」

隣の席の女子が、そう言った。
何でもない挨拶なのに、妙に丁寧だった。

「……おはようございます」

声が、かすかに震えていたかもしれない。

「最近、小野くんマスクしてないよね」

昼休み、誰かが言った。
話題にされたことに、ぎょっとしたけど、
反射的に聞き耳を立ててしまう。

「ね、なんか印象変わったっていうか……
 あれ? 小野くんって、顔、けっこう……」

「イケメンだったんだって思った」

ぽつりと、そう口にしたのは、女子グループのひとりだった。

ざわつく、というほどじゃない。
でもその一言は、静かに広がっていく。

“今までは気づかなかった何か”を、みんなが見つけたような空気。

それを、どう受け止めていいのか、僕にはまだ分からなかった。

“褒められる”ことに慣れていない。
そもそも、顔について何か言われることに、警戒心すらあった。

でも――

不思議と、怖くはなかった。

「小野くん、目も綺麗だけど、口元も整ってるよね」

「うんうん。マスクしてたとき、ちょっともったいなかったかも」

そんな声も聞こえてきた。

(……もったいなかった、か)

それは、今の自分を肯定する言葉だった。

過去の“嘲笑”ではなく、
今の“好意”でもなく、
ちゃんと、“存在を受け止めようとする言葉”。

その日の帰り道。
校門近くで、晴くんと合流した。

「……今日、ちょっと目立ってたかもな」

「……うん、わかる」

「“イケメン説”出てたぞ?」

「……誰が言ってたの?」

「廊下、普通に流れてた。なんか、“あの子、見た目いいじゃん”って」

「……晴くんは、どう思った?」

問いながら、自分でも驚いた。

“どう見られてたか”じゃなく、
“晴くんがどう感じたか”を、僕は一番気にしていた。

「嬉しかったよ」

彼はそう言った。

「紬が、自信ついてきて。人に見られることも、怖がらなくなって。
 それ、俺からしたら最高じゃん?」

「……うん。僕も、ちょっとだけ嬉しかった」

「だろ?」

彼は笑った。
でもその笑顔の奥に、どこか、ほんの一瞬だけ“何か”が滲んだ気がした。

(あれは、なに?)

笑顔の裏にあった一瞬の影。

それが、どこから来るものなのか、
このときの僕はまだ、気づいていなかった。

でも確かに、“ふたりの間に、まだ名前のない感情”が、
小さく揺れ始めていた。