朝、教室の扉を開けた瞬間、ほんの僅かに――世界が揺らいだ気がした。
いつも通りの時間、いつも通りの動作。
扉を引いて、左足から一歩教室へ踏み出す。
周囲の視線を避けるように、肩を少しすぼめ、できるだけ静かに席に向かう。
廊下から差し込む朝の光に照らされて、誰かの髪がきらりと反射している。
カバンの中で教科書がぶつかる音。
スマホをいじる指のリズム。
すべてが昨日と同じなのに、同じでない気がした。
胸の奥で、音もなく「なにか」が揺れていた。
気のせいかもしれない。
でもそれは、昨日の放課後、あのコンビニで出会った“もう一つの顔”のせいだった。
──桐ヶ谷晴。
学校では、誰とでも話し、誰にでも笑いかける。
その笑顔は、いつだって無敵で、誰の心も自然とほぐしてしまうような不思議な力がある。
でも、昨日の彼は違っていた。
黒いパーカーに、いくつも光るピアス。
少し眠たげで、どこか斜に構えたような空気を纏っていた。
「これ、学校には内緒な」
そう言って、僕のマスクに触れた彼の指先。
まるで何かの鍵みたいに、僕の心に“ひとつの扉”を開いた気がした。
けれど、今この教室で僕が目にするのは、
いつもの“桐ヶ谷晴”だった。
「おはよー、寝坊しかけたー!」
朗らかな声が飛ぶたびに、数人が笑い、反応が返ってくる。
彼がいる場所だけ、色が濃くなっていくような錯覚。
……昨日のことは、なかったことになるのだろうか。
そんな思いが、静かに胸の内を満たしていく。
僕は俯いたまま、自分の席に腰を下ろした。
ノートを取り出し、表紙の端を指先でなぞる。
余計なことは考えない。
いつも通り、目立たず過ごすだけ。
そのはずだったのに。
放課後――
また僕は、同じコンビニへ向かっていた。
理由は、わかっていた。
「また会えるかもしれない」
そんなあり得ない期待が、心のどこかでうっすらと揺れていた。
それを認めたくなくて、「ただ甘いものが食べたかっただけ」と自分に言い聞かせる。
でも、それなら家の近くのスーパーでもよかったはずだ。
このコンビニじゃなきゃ、なんて理由はなかった。
なのに僕は、昨日と同じ時間、同じ道を選んでいた。
スマホの画面をちらりと確認する。
時刻は午後五時三十二分。
昨日、彼と出会ったのは――たしか、五時半過ぎだった。
無意識に、心臓の音が早くなる。
コンビニの明かりが見えた瞬間、呼吸が少しだけ浅くなった。
けれど、店内に入っても彼の姿は見えなかった。
期待していたくせに、それが“当然”だと悟った瞬間、胸に空洞ができる。
何やってんだ、俺――
そう思ったその時。
「うわ、やっぱプリンかぶった」
背後から、不意に届いた声。
びくりと体が揺れた。
反射的に振り返ると、そこには昨日と同じ、黒パーカー姿の桐ヶ谷くんがいた。
だけど、今日は昨日よりずっと近い距離。
彼の目線が、真正面から僕を捉えていた。
「やっぱ甘党なんだな、お前」
彼の手には、僕と同じプリン。
偶然? それとも――
「……たまたま、です」
そう言って目をそらすと、彼は笑った。
「俺、昨日のあれ見て、気になって買ってみた。案外うまかった」
その一言が、なぜか反則のように心に刺さった。
僕の好きなものを、
彼が“気になってくれた”。
それだけで、たったそれだけのことで、
心が少しだけ温かくなった。
「……小野って、さ」
名前を呼ばれて、鼓動が跳ねた。
「昨日も思ったけど、あんま喋んないよな。しゃべるの苦手?」
「……たぶん、そうです。昔から、うまく言えないから」
「ふーん。けど、声は落ち着いてる。聞き取りやすいし」
「……?」
それって、褒められたのだろうか。
わからないけど、喉の奥が熱くなる。
「小野って、誰かに似てるって言われたことない?」
「……ないです」
「そっか。なんか、うちの猫に似てんだよな。すげー警戒心強いけど、気を許すと腹見せる感じ?」
「……猫、飼ってるんですか?」
「お。初めて質問されたかも。飼ってるよ、白とグレーの雑種。俺が中一のときに拾ったんだ」
ふと、彼の顔が少し柔らかくなった気がした。
その変化を見逃すまいと、僕の目が彼を見つめていた。
「……名前、なんていうんですか?」
「ゆば」
「……ゆば?」
「豆腐のやつ。拾った時に冷蔵庫にあったから、それ見てつけた」
「……へんなの」
「へんなのって言った、今」
思わず口元が緩んだ。
マスクの奥で笑った僕に、彼はにやりと笑って言った。
「ほら、やっぱり。笑った方が似合うって」
「……」
どうしてこんなに、軽やかに言葉を投げられるのだろう。
僕が一番触れてほしくない場所に、彼は何のためらいもなく踏み込んでくる。
それなのに、不思議と嫌じゃなかった。
──むしろ、心の奥が少しだけ、揺れた。
家に帰る道。
手にしたプリンが、いつもよりあたたかい気がした。
それはきっと、袋の中のスイーツが温まったわけじゃない。
僕の手が、いつもより熱を持っていたからだ。
彼と話した。
笑った。
名前を呼ばれた。
全部が昨日までの自分には、なかったこと。
些細な変化。
でも、確かにそれは“はじまり”の気配だった。
胸の奥が少しだけうずいた。
痛いような、くすぐったいような。
もし、明日も会えたら。
もし、明日も名前を呼ばれたら。
そんな“もしも”を、
今日は少しだけ、許してもいい気がした。
いつも通りの時間、いつも通りの動作。
扉を引いて、左足から一歩教室へ踏み出す。
周囲の視線を避けるように、肩を少しすぼめ、できるだけ静かに席に向かう。
廊下から差し込む朝の光に照らされて、誰かの髪がきらりと反射している。
カバンの中で教科書がぶつかる音。
スマホをいじる指のリズム。
すべてが昨日と同じなのに、同じでない気がした。
胸の奥で、音もなく「なにか」が揺れていた。
気のせいかもしれない。
でもそれは、昨日の放課後、あのコンビニで出会った“もう一つの顔”のせいだった。
──桐ヶ谷晴。
学校では、誰とでも話し、誰にでも笑いかける。
その笑顔は、いつだって無敵で、誰の心も自然とほぐしてしまうような不思議な力がある。
でも、昨日の彼は違っていた。
黒いパーカーに、いくつも光るピアス。
少し眠たげで、どこか斜に構えたような空気を纏っていた。
「これ、学校には内緒な」
そう言って、僕のマスクに触れた彼の指先。
まるで何かの鍵みたいに、僕の心に“ひとつの扉”を開いた気がした。
けれど、今この教室で僕が目にするのは、
いつもの“桐ヶ谷晴”だった。
「おはよー、寝坊しかけたー!」
朗らかな声が飛ぶたびに、数人が笑い、反応が返ってくる。
彼がいる場所だけ、色が濃くなっていくような錯覚。
……昨日のことは、なかったことになるのだろうか。
そんな思いが、静かに胸の内を満たしていく。
僕は俯いたまま、自分の席に腰を下ろした。
ノートを取り出し、表紙の端を指先でなぞる。
余計なことは考えない。
いつも通り、目立たず過ごすだけ。
そのはずだったのに。
放課後――
また僕は、同じコンビニへ向かっていた。
理由は、わかっていた。
「また会えるかもしれない」
そんなあり得ない期待が、心のどこかでうっすらと揺れていた。
それを認めたくなくて、「ただ甘いものが食べたかっただけ」と自分に言い聞かせる。
でも、それなら家の近くのスーパーでもよかったはずだ。
このコンビニじゃなきゃ、なんて理由はなかった。
なのに僕は、昨日と同じ時間、同じ道を選んでいた。
スマホの画面をちらりと確認する。
時刻は午後五時三十二分。
昨日、彼と出会ったのは――たしか、五時半過ぎだった。
無意識に、心臓の音が早くなる。
コンビニの明かりが見えた瞬間、呼吸が少しだけ浅くなった。
けれど、店内に入っても彼の姿は見えなかった。
期待していたくせに、それが“当然”だと悟った瞬間、胸に空洞ができる。
何やってんだ、俺――
そう思ったその時。
「うわ、やっぱプリンかぶった」
背後から、不意に届いた声。
びくりと体が揺れた。
反射的に振り返ると、そこには昨日と同じ、黒パーカー姿の桐ヶ谷くんがいた。
だけど、今日は昨日よりずっと近い距離。
彼の目線が、真正面から僕を捉えていた。
「やっぱ甘党なんだな、お前」
彼の手には、僕と同じプリン。
偶然? それとも――
「……たまたま、です」
そう言って目をそらすと、彼は笑った。
「俺、昨日のあれ見て、気になって買ってみた。案外うまかった」
その一言が、なぜか反則のように心に刺さった。
僕の好きなものを、
彼が“気になってくれた”。
それだけで、たったそれだけのことで、
心が少しだけ温かくなった。
「……小野って、さ」
名前を呼ばれて、鼓動が跳ねた。
「昨日も思ったけど、あんま喋んないよな。しゃべるの苦手?」
「……たぶん、そうです。昔から、うまく言えないから」
「ふーん。けど、声は落ち着いてる。聞き取りやすいし」
「……?」
それって、褒められたのだろうか。
わからないけど、喉の奥が熱くなる。
「小野って、誰かに似てるって言われたことない?」
「……ないです」
「そっか。なんか、うちの猫に似てんだよな。すげー警戒心強いけど、気を許すと腹見せる感じ?」
「……猫、飼ってるんですか?」
「お。初めて質問されたかも。飼ってるよ、白とグレーの雑種。俺が中一のときに拾ったんだ」
ふと、彼の顔が少し柔らかくなった気がした。
その変化を見逃すまいと、僕の目が彼を見つめていた。
「……名前、なんていうんですか?」
「ゆば」
「……ゆば?」
「豆腐のやつ。拾った時に冷蔵庫にあったから、それ見てつけた」
「……へんなの」
「へんなのって言った、今」
思わず口元が緩んだ。
マスクの奥で笑った僕に、彼はにやりと笑って言った。
「ほら、やっぱり。笑った方が似合うって」
「……」
どうしてこんなに、軽やかに言葉を投げられるのだろう。
僕が一番触れてほしくない場所に、彼は何のためらいもなく踏み込んでくる。
それなのに、不思議と嫌じゃなかった。
──むしろ、心の奥が少しだけ、揺れた。
家に帰る道。
手にしたプリンが、いつもよりあたたかい気がした。
それはきっと、袋の中のスイーツが温まったわけじゃない。
僕の手が、いつもより熱を持っていたからだ。
彼と話した。
笑った。
名前を呼ばれた。
全部が昨日までの自分には、なかったこと。
些細な変化。
でも、確かにそれは“はじまり”の気配だった。
胸の奥が少しだけうずいた。
痛いような、くすぐったいような。
もし、明日も会えたら。
もし、明日も名前を呼ばれたら。
そんな“もしも”を、
今日は少しだけ、許してもいい気がした。



