「……あ、マスク忘れてた」

教室に入って、席につこうとした時。
気づいた時にはもう、周りに数人のクラスメイトがいた。

ほんの数秒、心臓が跳ねた。
頬を隠そうとしたけれど、もう遅い。

「……おー、小野くん、マスク外してるの珍しくね?」

誰かがそう言った。
悪気のない、ただの反応。

「うん、たまたま」

そう答えて、カバンからマスクを取り出しながら、
僕は晴くんの方をちらっと見た。

彼は、黒板の前でプリントを配りながら、
ほんのすこしだけ、目だけで笑っていた。

それが、“なにも気にするな”って言ってくれているようで、
すっと息ができるような気がした。

昼休み。
晴くんが僕の席の隣にやってきて、弁当を広げながら言った。

「今日、マスクしてない紬見て、“お、いいな”って思ったヤツいたら俺が先に言っとく」

「……え?」

「“俺の前で先に見せてもらいましたー!”って」

「……晴くん」

「なに?」

「……そういうの、ずるいって思う」

「だろ?」

彼は冗談めかして笑ったけど、
その言葉のひとつひとつが、ちゃんとあたたかかった。

「でも、本気で言うなら」

「うん?」

「晴くんの前で、先に外せてよかった」

僕のその言葉に、彼は少しだけ目を丸くして――
照れくさそうに目を逸らした。

「あー、それは……今日一日、ずっと嬉しい気持ちでいられそう」

放課後。
ふたりで歩いた帰り道。
何か特別なことが起きたわけじゃない。
でも、歩幅が自然と揃っていた。

「……俺さ、もうそろそろ“恋人”って言いたいくらいなんだけど、
 “彼”って言えたら、それでもいい?」

「……まだ、早い気もする」

「だよな」

「でも、距離は……近いと思う」

「どれくらい?」

「“名前で呼ばれるより近いくらい”」

その言葉に、彼はふっと笑った。

「じゃあ、そろそろ“おいで”って言っても、逃げられない?」

「……言ってみて」

「え、今?」

「うん」

一瞬の沈黙のあと、彼が小さく呟いた。

「紬、おいで」

自然と足が動いていた。

一歩、彼のほうへ。

肩と肩が、触れるか触れないかの距離。
ふたりの間に、もう名前なんていらないくらいに、ぴったりだった。

「……なあ、紬」

「うん」

「俺さ、こうしてると、言葉じゃ伝えられないくらいお前のことが好きになる」

「……うん。僕も、わかる」

まだ“恋人”って呼んでいない。
でも、たぶん今の僕たちは――名前より近い。

触れるより、つながってる。
そんな確かな“何か”を、ふたりだけで共有できていた。