マスクを外すなんて、思ってもみなかった。

少なくとも、今日みたいな日は。

「今日さ、ちょっと遠回りしていい?」

放課後、晴くんがそう言った。
それはいつもの誘いの口調と何も変わらない。
だけど、なぜか胸の奥に、ちいさな緊張が走った。

「どこまで?」

「……人がいないとこ」

その言い方が、なんだかすこしだけ、
“いつもと違う”何かを予感させた。

歩いたのは、駅の反対側。
住宅街を抜けた先にある、小さな神社の裏手。
日が傾いていて、鳥の声も聞こえない。

石畳の先に、木陰のベンチ。
誰もいない。
音もない。

まるで、ふたりだけの世界。

「ここ、昔から好きなんだ。
 夕方になると、空気がやわらかくてさ」

晴くんはベンチに座って、空を見上げた。
僕はその隣に腰を下ろし、しばらく黙っていた。

風の音だけが、耳に届く。

「……なあ、紬」

「……うん」

「俺さ。今日ここ来たの、ただ歩きたかっただけじゃない」

「……知ってる。なんとなく」

「お前が、少しだけ前に進もうとしてるの、感じてたから」

彼の言葉に、喉が詰まった。
でも、視線は彼から逸らさなかった。

「……マスクのこと、だよね?」

「うん。外せって言いたいわけじゃないよ。
 ただ、もし――
 “おれの前でなら”って思ってくれてるなら、受け止めたかった」

その言い方が、優しかった。

決して、強要じゃない。
でも、確かな“受け入れる覚悟”がにじんでいて。

「……いままで、誰の前でも外したくなかった。
 外せるわけないって思ってた。
 でも、晴くんは……」

言葉に詰まった。

でも、それでも、
いまこの瞬間だけは、伝えたかった。

「晴くんは、見てくれるから。僕の“全部”を」

静かに手を伸ばして、
マスクの端に指をかけた。

外気が頬に触れる。
布がずれ、耳元のゴムがふっと抜ける音。

たったそれだけなのに、
まるで心臓が露出するような、そんな感覚だった。

晴くんは、何も言わなかった。

驚きもせず、微笑みもせず。

ただ、まっすぐ僕を見てくれていた。

“見てる”のに、“見透かさない”。
その距離感が、たまらなく嬉しかった。

「……どう、見える?」

勇気を振り絞って、そう訊いた。

彼は一瞬だけ目を細めて、言った。

「きれいだよ」

「それって……」

「顔が、とかじゃない。
 お前が、俺を信じてマスクを外してくれたその姿が、
 いちばんきれいに見えたって意味」

その一言に、胸の奥がじんとした。

なぜだろう、涙が出そうになった。

でも、それは悲しいとか苦しいとかじゃなくて――
“やっと、見せられた”という、安堵の涙だった。

そのまま、彼がゆっくりと手を伸ばした。

触れたのは、僕の髪の先。

そっと耳元にかかる前髪を払って、
何も言わずに微笑んだ。

「……これからも、外せる日と、外せない日があると思う。
 でも、俺の前では、どっちでもいいよ」

「……ありがとう」

小さな声だったけど、
僕の“本当の声”で言えた気がした。

帰り道、またマスクをつけようとした時、
彼が言った。

「……今日だけは、そのままでもいいかも」

「……じゃあ、もうちょっとだけ、このままで」

たぶん、誰かとすれ違ったら、すぐにつけ直す。
でも、いまは――

この“少しのあいだ”を、
彼とだけの時間にしたかった。

夜、ベッドでスマホを見ていたら、晴くんからメッセージが届いた。

紬の素顔、ちゃんと見られてよかった
見せてくれてありがとう
見せてもらえた俺の顔、たぶん今まででいちばん優しかった気がする

画面を見つめながら、僕はそっと唇を噛んだ。

嬉しかった。

でもそれ以上に――
あの時の自分が、ちゃんと“選べた”ことが、誇らしかった。

マスクはまだ、必要なときがある。
でも、もう“全部隠すためのもの”じゃなくなった。

彼の前なら、
素顔でも、ちゃんと“僕”でいられる。

そう思えるようになったことが、
何よりの一歩だった。