人に触れることが、ずっと怖かった。

他人の体温が、僕の輪郭を曖昧にしていくようで。
近づかれすぎると、自分が薄れてしまいそうで。

それが、「怖い」と言葉にできたのは、ごく最近のことだった。

「今日、少しだけ……俺に触れてみない?」

夕暮れの遊歩道。
川沿いを歩いていたとき、不意に晴くんがそう言った。

その声は、いつものように柔らかくて、
だけど、少しだけ“覚悟”がにじんでいた。

「……どういう意味?」

僕は問い返すしかなかった。
だって、“触れる”って、簡単なようで一番難しいことだから。

「この間、言ったじゃん。
 俺は、紬に触れたい。……でも、無理にとは思わない。
 だから、今日は――紬の方から、来てもらえると、嬉しい」

その言葉が、胸の奥で響いた。

立ち止まったまま、僕は考えていた。

触れること。
ただ、指先を重ねるだけでもいい。

でも、そんな簡単なことが、ずっとできなかった。

「……晴くんってさ」

「うん?」

「なんで、僕を……怖がらないの?」

「怖がる理由なんて、ないから。
 それに、紬が怖がってるのも、俺、ちゃんとわかってるよ」

「……わかってるのに、近づいてくるの?」

「うん」

「……ずるいな、それ」

「ごめん。攻めたいから」

そう言って笑う彼が、
なんだかやさしくて、ずるくて。
でも、すごく、あたたかかった。

少しだけ勇気を出して、僕は右手を彼の左手に重ねた。

触れたのは、ほんの一瞬。
でも、彼の手の温度が、僕の手のひらにじんわりと広がった。

「……いま、震えてる」

「僕の手?」

「ううん、俺の心」

そう言って、彼が僕の手を優しく握り返してくる。

「俺さ、ほんとは……いつでも抱きしめたいくらいなんだよ?」

「……うん」

「でも、それができなくても、紬が“触れてくれた”だけで、俺はもう今日ぜんぶ報われた」

その言葉に、涙が出そうになった。

誰かに触れたいと思ったのは、たぶん初めてだった。
触れてもいいって、思えたのも初めてだった。

でも、それを“受け取ってくれる人”がいてくれたから――
やっと、僕の中の恐怖は少しずつ溶けていった。

帰り道、彼は僕の手をずっと握ったままだった。

「紬って、あったかいんだな」

「……晴くんの手も、ちゃんとぬくもりあります」

「俺のは“攻め”の手だからね。引っ張る手」

「じゃあ……僕のは?」

「“受け止める手”。やっと俺の手を受け止めてくれた」

その会話が、どこまでも自然だった。

名前のない関係。
でも、そこにはもう確かに“想い”があって。

そしてそれは、初めて紬の方から伸ばされた“触れる意志”で結ばれていた。

その夜。
彼からLINEが届いた。

触れてくれてありがとう
紬の手、俺の中で一番優しい場所になった

画面を見ながら、
僕はマスクを外して、そっと指先に唇を当てた。

触れた手は、ちゃんと残っている。

そして、もう一度触れたいと思えるその気持ちが、
まるで、恋そのものみたいだった。