「まだ、名前つけなくていいからさ」

そう言った晴くんの声は、やわらかくてあたたかかった。

川沿いのベンチ。
肌に触れる風が、すこしだけ夏の匂いを帯びてきていた。

少し前。
マスク越しの“キス未満の触れ合い”を経てから、
彼との距離は明らかに変わった。

でも、言葉にすればするほど、怖くなる。
「好き」とか「恋人」とか。
そういう言葉の輪郭は、まだ僕には鋭すぎた。

僕たちは並んで座って、何もしていなかった。
ただ、互いの存在をそばに感じることだけで、
なんだか満たされるような、そんな時間だった。



「なあ、紬」

「……なに?」

「お前って、“名前ついてない関係”って、落ち着く?」

その問いは、するりと胸の奥まで入ってきた。
教室の窓際、昼休み。
隣に座る晴の声は低くて、あたたかかった。

「……よく、わからない。けど、いまは……これでいい気がしてる」

「うん、俺もそんな気がしてた」

彼は、笑った。

「誰かといて、こんなふうに“名前がつかない関係”でいられるって、
 俺にとっては初めてかも。……なのに、不思議と不安じゃない」

「……なんで?」

「紬が、俺のこと、ちゃんと見てるのがわかるから」

その一言で、息が詰まりそうになった。

ちゃんと見てる。
そう言ってもらえるのは、うれしかった。
でも、“見られる”ことがずっと怖かった僕には、
それが少しだけ痛くもあった。

「……僕は、まだ……“名前”に、責任を持てない」

「いいよ」

彼はすぐに言った。

「名前がなくたって、ちゃんと好きでいられるって思ってるから」

“好き”という言葉。

彼の口から出るたびに、
僕の世界が少しずつ、塗り替えられていく気がした。

その日の昼休み。

教室の片隅。
プリントを配っていた晴くんが、僕の席の前で止まった。

「ねえ、これさ」

渡されたのは、英語のノート。

「あれ? これ……晴くんの?」

「うん。でも今日、紬の字が見たくなったから貸す。…俺の字、やばいから、ちゃんと書いて」

「……それ、勉強の依頼じゃなくて、甘えですよね」

「バレた?」

彼は悪びれもせずに笑った。

「紬って、何書いても綺麗だよな。字も、言葉も、反応も。ぜんぶ」

「……からかわないで」

「からかってない。本気」

そんなことを言われるたび、マスクの下が熱をもっていく。
でも、逃げたくはなかった。
彼がまっすぐこちらを見ているのがわかるから。

「俺なりに“攻めてる”つもりなんだけど、どう?」

「……攻め?」

「うん。そろそろ“じわじわ”から“ぐいっ”に変えたい頃」

「……」

「でも、ちゃんと待つよ。お前が“ぐいっ”てされても平気になるまで」

そんなふうに、笑いながら言える晴くんはずるいと思う。
でも、それと同じくらい――やさしい。

帰り道、いつものように並んで歩いていると、
彼がふいに言った。

「紬ってさ、俺のこと、どう思ってる?」

それは、シンプルな問いだった。
でも、いちばん答えるのが怖いやつでもあった。

「……まだ、よくわかんない」

「そっか」

彼は一歩だけ前に出た。

「でも、俺は“もっと近づきたい”って思ってる」

「……いまでも、けっこう近いよ?」

「近いけど、物理的にはまだ“触れてない”」

「……」

「触れたい。
 でも、無理にとは思ってない。
 だから、まずは“触れられてもいいか”って、聞いてみた」

その言い方が、あまりにもまっすぐで、
どこまでも“攻め”だった。

その日の夜。
ベッドの中でスマホを握りながら、
彼からのLINEが届いた。

今日の紬、目が優しかった
だから、ちゃんと伝えてみた
焦らなくていいから、少しずつ俺を受け入れて

“受け入れる”という言葉に、
僕の心が少し揺れた。

きっと――
僕は彼のことが、
もう、ただの“友達”ではいられないくらいには、
大切になっていた。

“ふたり”なのに、“関係の名前”がない。
でも、その“名もなさ”が、
逆に自由で、あたたかくて。

まるで風の中で立っているみたいに、
不安定だけど、確かなもの。

“まだ、名前はいらない”

けれど、“この想い”は確かにある。

それが、いまの僕たちの形だった。