「マスクの下って、なんか特別に感じるよな」
そう言った晴くんの声は、
いつもよりほんの少しだけ低かった。
季節は、春の終わりから初夏に向かっていた。
窓を開けると、風が湿り気を帯びていて、
制服のシャツがほんの少し肌に張りつく。
その日の放課後、僕たちはまたあの川沿いの遊歩道を歩いていた。
話すことは決まっていなかった。
でも、会う約束もしなかったのに自然と同じ場所に向かっていて、
何も言わずに横に並ぶその時間が、最近の僕にとっていちばん“普通”になっていた。
「なあ、紬」
「……なに?」
「俺って、ずっと待ってる感じある?」
「……どういう意味?」
「いや、俺さ。ちゃんと“好き”って言ってないのに、
ずっとお前のこと“待ってる”ような態度してる気がして」
「……」
返事ができなかった。
彼のその言葉に、胸の奥が跳ねた。
ずっと聞きたくて、でも怖くて、
だから聞けなかったことを――彼が、先に言った。
「……待たれるの、嫌?」
「……ちがう。嫌じゃない。……むしろ」
言葉が出てこない。
喉の奥で、何かがせき止められているみたいだった。
「むしろ……?」
彼が、僕の顔を覗き込む。
目が合って、すぐ逸らした。
でも、彼はそれを許してくれなかった。
すぐに僕の肩をつかんで、ぐいとこちらを向かせた。
その距離は、あまりにも近かった。
ほんの数十センチ先に、彼の瞳。
光の加減で、いつもより少しだけ暗く見えた。
僕の呼吸が、マスクの中で跳ねた。
「……紬、いま、マスクしてる?」
「……してるけど」
「じゃあさ、マスク越しだったら、キスしても大丈夫?」
「……なに、言って……」
「本気で言ってる。
でも、しないよ。いまは」
そう言って、彼はそっと手を離した。
「……でも、マスク越しに触れるくらいなら、許される?」
その言葉のあと、彼の指先が、
僕の頬に――じゃなく、マスクの端に、そっと触れた。
生身の肌と肌ではなく、布一枚越しの接触。
それだけなのに、全身に電流が走ったようだった。
「……触ったの、マスクだけだよ。
でも、俺の気持ちは、マスクの中まで届いてるって信じてる」
「……」
「マスク越しのキスって、変かもしれないけど、
それ以上のこと、俺はしようとしてる。
お前が外すって決めるまで、俺からは取らない。
でも、近くにいたいって思ってる。それは、ずっと」
言葉が、あたたかくて、怖かった。
だけど、嬉しかった。
誰にも、こんなふうに言われたことなんてなかった。
家に帰ったあとも、
彼の指先の感触が、頬に残っていた。
直接じゃなかった。
マスク越しだった。
それでも、確かに“触れられた”と思えた。
そして、それ以上に――
心を、ちゃんと見つめられた。
僕はまだ、マスクを外せない。
でも。
“外したい”と思う瞬間が、初めて生まれた。
その感情が、
言葉よりも深く、強く、
僕の中に差し込んできていた。
そう言った晴くんの声は、
いつもよりほんの少しだけ低かった。
季節は、春の終わりから初夏に向かっていた。
窓を開けると、風が湿り気を帯びていて、
制服のシャツがほんの少し肌に張りつく。
その日の放課後、僕たちはまたあの川沿いの遊歩道を歩いていた。
話すことは決まっていなかった。
でも、会う約束もしなかったのに自然と同じ場所に向かっていて、
何も言わずに横に並ぶその時間が、最近の僕にとっていちばん“普通”になっていた。
「なあ、紬」
「……なに?」
「俺って、ずっと待ってる感じある?」
「……どういう意味?」
「いや、俺さ。ちゃんと“好き”って言ってないのに、
ずっとお前のこと“待ってる”ような態度してる気がして」
「……」
返事ができなかった。
彼のその言葉に、胸の奥が跳ねた。
ずっと聞きたくて、でも怖くて、
だから聞けなかったことを――彼が、先に言った。
「……待たれるの、嫌?」
「……ちがう。嫌じゃない。……むしろ」
言葉が出てこない。
喉の奥で、何かがせき止められているみたいだった。
「むしろ……?」
彼が、僕の顔を覗き込む。
目が合って、すぐ逸らした。
でも、彼はそれを許してくれなかった。
すぐに僕の肩をつかんで、ぐいとこちらを向かせた。
その距離は、あまりにも近かった。
ほんの数十センチ先に、彼の瞳。
光の加減で、いつもより少しだけ暗く見えた。
僕の呼吸が、マスクの中で跳ねた。
「……紬、いま、マスクしてる?」
「……してるけど」
「じゃあさ、マスク越しだったら、キスしても大丈夫?」
「……なに、言って……」
「本気で言ってる。
でも、しないよ。いまは」
そう言って、彼はそっと手を離した。
「……でも、マスク越しに触れるくらいなら、許される?」
その言葉のあと、彼の指先が、
僕の頬に――じゃなく、マスクの端に、そっと触れた。
生身の肌と肌ではなく、布一枚越しの接触。
それだけなのに、全身に電流が走ったようだった。
「……触ったの、マスクだけだよ。
でも、俺の気持ちは、マスクの中まで届いてるって信じてる」
「……」
「マスク越しのキスって、変かもしれないけど、
それ以上のこと、俺はしようとしてる。
お前が外すって決めるまで、俺からは取らない。
でも、近くにいたいって思ってる。それは、ずっと」
言葉が、あたたかくて、怖かった。
だけど、嬉しかった。
誰にも、こんなふうに言われたことなんてなかった。
家に帰ったあとも、
彼の指先の感触が、頬に残っていた。
直接じゃなかった。
マスク越しだった。
それでも、確かに“触れられた”と思えた。
そして、それ以上に――
心を、ちゃんと見つめられた。
僕はまだ、マスクを外せない。
でも。
“外したい”と思う瞬間が、初めて生まれた。
その感情が、
言葉よりも深く、強く、
僕の中に差し込んできていた。



