春が始まって、もうすぐ一ヶ月が経つ。

けれど、僕の生活に変化はなかった。
いや、むしろ「変化がないこと」こそが僕にとっての救いだった。

高校二年。
クラス替えがあったはずなのに、誰とも話さず、誰にも話しかけられず、気づけば去年と何も変わらない立ち位置にいた。
教室の隅。窓際から二番目の席。
いつもマスクをして、誰とも目を合わせない。
そんな「地味で目立たない存在」に収まっているのは、僕――小野紬(おの・つむぎ)だ。

「……小野くん、これ、配ってくれる?」

担任の先生が、プリントの束を僕に差し出す。
この手の役目は、目立たない奴に押しつけるのが一番だ。
僕も文句なんて言わない。
そもそも言葉を交わすのは、こういう時くらいだ。

「はい」

小さな声で返事をして、席を立つ。
教室の前列から順に、無言でプリントを配っていく。
目を合わせない。手だけで渡す。
そのやり方も、すっかり体に染みついていた。

背筋は少し丸め、足取りは静かに。
まるで気配を消すように、存在を薄くして歩く。

ああ、今日も“普通”にやり過ごせたな――
そんな風に思いながら、席へ戻った瞬間、斜め前の席の子が、誰かと話していた。

「ねえ、桐ヶ谷くんって、ほんと爽やかだよね。ああいう人が彼氏だったらな〜」

……聞こえてくる名前に、無意識に反応してしまった。

桐ヶ谷晴(きりがや・はる)。

同じクラスの人気者。
笑顔が眩しくて、どこかの雑誌から出てきたような“青春の象徴”みたいな男子。

彼は、僕とは対極の存在だった。

明るくて、社交的で、友達も多い。
先生からも信頼されて、男女問わず好かれている。
彼がいる場所には、自然と人が集まる。

そして僕は。
できるだけ誰にも気づかれず、空気みたいに過ごしている。

隣の世界。
違う舞台。
交わるはずのない、線と線。

それなのに、たまにふと視線が交差する瞬間がある。
廊下で、靴箱で、すれ違いざまに。

目が合いそうになったら、すぐにそらす。
見つめ返す勇気なんてない。

彼が僕の名前を知っているはずもない。
そう思っていた。

──でも。

その日の放課後。
たった一つの偶然が、そんな“前提”を覆す。

帰り道、僕はいつものように駅前のコンビニに立ち寄った。
人通りが少なくなる時間を狙って、なるべく目立たずに買い物をする。
今日は甘いものが食べたかった。
心が少しだけ、くたびれていたから。

飲み物と、バニラプリン。
小さな癒しをレジに持っていこうとしたその時。

「……お前、こんなとこで何してんの?」

低くて、でも聞き覚えのある声が、耳に入った。

振り返った僕の視線の先にいたのは――
学校とはまるで雰囲気の違う、桐ヶ谷晴だった。

「……え?」

言葉が出なかった。
というより、混乱して、出せなかった。

黒のパーカー。
耳にはシルバーのピアス。
髪はやや乱れていて、制服の時の整った印象とはかけ離れている。

僕が知っている桐ヶ谷くんじゃない。
でも、顔は間違いなく、本人だった。

「小野、だよな?」

彼が、僕の名前を呼んだ。

知ってたのか。
僕のこと。

一瞬、思考が止まった。

「びっくりした? そんな顔すんなって」

彼は困ったように笑って、ポケットに手を突っ込んだまま、ゆるく肩をすくめる。

「まあ、学校の俺は“営業スマイル”ってやつだからさ。こういうの、見なかったことにしてくれよな」

冗談みたいに言ったけど、どこか切なげな声だった。
あの爽やかな笑顔とは違う、素の顔。

「……うん。誰にも言わない」

ようやく、それだけ絞り出すと、彼はほっとしたように笑った。

「サンキュ。で……それ、プリン?」

「えっ……あ、うん」

「可愛いな、甘党?」

「ちが……っ、いや……」

動揺して言葉が詰まる。
すると彼は、何でもないみたいな顔で言った。

「俺も、好きなんだよな。あのプリン。家帰ってから食うの、ちょっとした楽しみって感じ」

そんなの、初めて知った。
人気者の彼にも、日常の楽しみなんてあるんだ。

そう思った瞬間だった。

彼の手が、伸びてきた。
そして、僕のマスクの端に、そっと触れた。

「……似合ってないし、それ」

「……っ」

一瞬、息が止まった。
何も言えなかった。
ただ、体がこわばって、視線を泳がせる。

彼はそれ以上触れずに、笑って言った。

「いや、いい意味でな。別に無理に外せってわけじゃないよ。ただ――もったいねぇなって思っただけ」

マスク越しの僕を、まっすぐに見つめながら、そう言った。

その言葉が、胸に残った。

“似合ってない”

そのフレーズは、これまで何度も投げつけられてきた。
でも、それはいつも、否定の言葉としてだった。

今日のそれは――

少しだけ、違っていた気がした。

コンビニを出て、帰り道。
夜の風が、マスク越しにひんやりと触れた。

“桐ヶ谷くんが、僕の名前を呼んだ”
そのことが、頭から離れなかった。

知られているはずがないと思っていたのに。

僕は、彼の中に“存在していた”んだ。

その事実だけで、少しだけ、胸がざわついた。

もしかしたら、ほんの少しだけ、
今日という日を“特別”だと思ってしまったのかもしれない。

──次の日からも、彼と話すことはなかった。

教室では、いつも通りだった。
桐ヶ谷くんは相変わらず中心にいて、僕は、いつも通り隅にいる。

だけど。

ほんのすこしだけ、世界の見え方が違って見えたのは、
きっと、あの時の「似合ってない」のせいだ。