私は三ヶ月前からある食べ物がやめられない。
それはミント味の飴玉だ。口の中に入れれば広がるミント特有の爽快感と共に彼の匂いも思い出す。
このミントの飴は淡い緑色の袋に入っていて20個ほどで298円で売っているが、人気がないのか売り切れていたことは一度もない。
私はミントの飴を一粒口に含んだまま、自宅アパートから十分ほどのところにある海辺にきていた。
スニーカーの中に砂が入るのも気にせず、ザクザクと砂浜を歩いていき、テトラポッドの上に登って沈みゆく夕陽を見つめる。
少し前までは、ここが私と元カレの聡太とのお決まりのデート場所だった。
『優羽、別れよ』
オレンジ色の優しい夕焼けの色を見つめていれば、聡太の低く静かな声が波の音と合わさって聴こえてきて、耳を塞ぎたくなる。
聡太とは大学のサークルで知り合い、付き合って半年で同棲を始めた。そして三ヶ月前、聡太から別れを切り出されて私の運命の恋が終わった。
いや、運命だと思って彼との恋に溺れていたのは私だけだった。
「……別れたってことは、運命じゃなかったってことだよね」
運命なんてものがこの世に存在するのであれば、それは間違いなく不確かで曖昧なモノだろうが、聡太と出会い恋に落ちた時、これは運命の恋だと自分の中で確かに直感があった。
占いなど、スピリチュアルなことを全く信じない私が、運命だと思い込むほどに、彼と出会って恋に落ちたことは、呼吸をするように違和感がなかった。彼に会うために生まれたきたんだ、なんてバカみたいなことを考えたくらいに。
聡太とは同じ趣味、嗜好で一緒にいて居心地がよく、喧嘩も一度もなかった。
嫌だなと思うことも、言い争いになりたくなくて、ぐっと堪える過去の恋と違って、聡太といるときはそんなことを思う暇もないくらい、ただ幸せしかなかった。
こんなにひとりの人間として『合う』人なんて、もう世界中どこを探してもいない、そう思ったことも一度や二度じゃない。
けれど今の状況をかえりみれは、運命の恋などはじめから存在しておらず、私が抱いた直感は幻想の一種だったのかも、しれない。
「……かも、か」
私は砂浜の方を振り返る。勿論誰もいない。映画やドラマのように、泣いて感傷的に浸っているヒロインの元に駆けつけて、やり直そうなどと言ってくれる運命の恋の相手であるヒーローなんてやっぱりいないのだ。
私は自嘲の笑みを浮かべた。この後に及んでまだどこかで運命の恋だと、聡太はヒーローなのだと諦め悪く考えてしまう自分にそろそろ本気で嫌気がさしそうだ。
それでもまだ会いたい。もう一度声が聞きたい。
まだ運命の恋をしていたかった。
溢れそうな涙をぐっと喉に押し込めば、ミントの香りが鼻からツンと抜けていく。
「……聡太、禁煙できたかな」
このミントの飴を始めに見つけて買ってきたのは私だった。喘息持ちのクセに聡太が煙草をやめられないから。
煙草を吸いたくなったら代わりにこの飴をと渡した時、聡太はくしゃっと笑って私にありがとうと言ってくれた。
あと聡太には最後まで言えなかったが、私が彼にこのミントの飴を渡したのには理由があった。
それはミントの花言葉だ。
──『かけがえのない時間』
私にとって聡太と過ごした時間はかけがえのない時間であり宝物だった。
「本当に……大好きだったよ」
聡太への気持ちを過去形にしたのは、そうでもしないと彼に電話をかけてしまいそうだから。
終わったんだと、自分に言い聞かせるように吐き出した言葉は波に攫われて海の奥深くへ消えていく。
私はため息をひとつ吐き出してからスマホを取り出すと、聡太の番号を消去した。
そして波音が静かに聞こえてくる海をじっと見つめた。
聡太は強面でコーヒーはいかにもブラックと見せかけて、クリープは絶対二つ必要で砂糖はまるまる一本いれる甘党だった。
体温が高いくせにわざと寒いと言っては寝る前、私にくっついてきて甘えるようにベッドに誘った。
片付け下手で散らかすのが得意なくせに、スーパーの袋はきちんと三角に折ってキッチンの引き出しにちゃんと入れるほど貴重面なところがあって、洗濯は私に任せきりにする代わりに、洋服や靴下はきちんと裏返すことなく脱いで、洗いやすくしてくれたり、さりげなくお風呂掃除をしてくれたりと気遣いのできる人だった。
甘いセリフなんて滅多に言わないけれど、でも眠る前はいつも同じ言葉を私の耳元で囁いてくれた。
──ずっと一緒にいような。
耳元で勝手に再生された彼の声にはまだ温度があって
、今この状況でもまだ夢だったらなんて願わずにいられない。
「……嘘つき。ずっと一緒にいようって言ったくせに」
いつからだろうか。今となってはその境界線は曖昧だが、私はいつからか聡太との不確かな未来を勝手に夢見るようになっていた。ずっと二人でこれからも思い出を積み重ねていつか家族になるんだなんて、そんな自分勝手な理想と想いを抱いてしまっていた。
それが別に悪いことだとは思わない。それだけ彼が私にとって運命だと思えるほど特別な人であり、一生に一度の恋だと思っていたから。
でも聡太にとってはどうだったんだろうか。
いつも自分のことばかり考えて、気持ちを主張して、知らず知らずに彼を追い詰めてはいなかっただろうか。
別れるとき、聡太は見たこともないくらい辛く悲しそうな表情だった。
『ごめん。限界』
理由を聞こうとしたけど、辛そうな聡太を前に何も言えなかった。それに理由はわかっていたから。
きっと私のことが重荷になったんだと思う。
思い返せば、聡太とのLINEが途絶えただけでなぜだが心配になってよく電話した。漠然とした不安から眠る前、訳もなく涙が出て聡太を困らせたりした。
時々、感情の起伏が抑えられなくて彼にキツイ言葉を使ったり、気持ちを試すような質問をしたりもした。
だって好きだったから。
どうしようもなく好きだった。
けれど好きだけじゃ難しい。
きっと愛してると言われてもそれだけじゃ満たされない。どれだけ抱き合っても想いを伝え合っても、別の人間だから全部を分かり合うことは不可能だから。
私はどこからかきっと聡太の全部を欲しがりすぎたのだと思う。
愛はミントが土に根を張り繁殖していくように、一度根を張れば強欲に心のままに、どこまでも増殖していくモノなのかもしれない。
でもね、もっと私を知って欲しかった。知りたいと思って欲しかった。悪いところは叱ってくれて良かったし、面倒な時は素直にそう言って欲しかった。
心が疲れてしまう前に、もっと言葉にしてほしかった。何も言わなくても無理に言葉を探さなくても、私が困らせたときはただ抱きしめてくれたらそれで良かった。
「……聡太……っ」
ミントの味が口内から消えて、私の両目から涙が溢れ出した。かけがえのない時間はもう願っても泣いても戻ってこない。
泣くのは今日で終わりにしよう。
そう思って聡太と初めてキスをしたこの海に来たけれど、まだ難しいかもしれない。何をしていてもどこにいても私はこのミントの匂いと共に聡太を思い出す。
どうしたって頭の片隅から離れない。
忘れられない。
私は口の中にもう何個目かわからないミントの飴を放り込むと、コロンと転がす。
やっぱり聡太を思い出して苦くて切なくなる、でも到底やめられそうもない。
ミントのようなこの恋は、まだしばらく私の心から消えてなくなったりはしないだろう。
それでいい。だってミントの飴はまだたくさん残っている。なくなればまた買えばいい。
飽きるほどに食べて涙が枯れ果てた時、ようやく私はミントのような恋を手放せる、そんな気がした。
それはミント味の飴玉だ。口の中に入れれば広がるミント特有の爽快感と共に彼の匂いも思い出す。
このミントの飴は淡い緑色の袋に入っていて20個ほどで298円で売っているが、人気がないのか売り切れていたことは一度もない。
私はミントの飴を一粒口に含んだまま、自宅アパートから十分ほどのところにある海辺にきていた。
スニーカーの中に砂が入るのも気にせず、ザクザクと砂浜を歩いていき、テトラポッドの上に登って沈みゆく夕陽を見つめる。
少し前までは、ここが私と元カレの聡太とのお決まりのデート場所だった。
『優羽、別れよ』
オレンジ色の優しい夕焼けの色を見つめていれば、聡太の低く静かな声が波の音と合わさって聴こえてきて、耳を塞ぎたくなる。
聡太とは大学のサークルで知り合い、付き合って半年で同棲を始めた。そして三ヶ月前、聡太から別れを切り出されて私の運命の恋が終わった。
いや、運命だと思って彼との恋に溺れていたのは私だけだった。
「……別れたってことは、運命じゃなかったってことだよね」
運命なんてものがこの世に存在するのであれば、それは間違いなく不確かで曖昧なモノだろうが、聡太と出会い恋に落ちた時、これは運命の恋だと自分の中で確かに直感があった。
占いなど、スピリチュアルなことを全く信じない私が、運命だと思い込むほどに、彼と出会って恋に落ちたことは、呼吸をするように違和感がなかった。彼に会うために生まれたきたんだ、なんてバカみたいなことを考えたくらいに。
聡太とは同じ趣味、嗜好で一緒にいて居心地がよく、喧嘩も一度もなかった。
嫌だなと思うことも、言い争いになりたくなくて、ぐっと堪える過去の恋と違って、聡太といるときはそんなことを思う暇もないくらい、ただ幸せしかなかった。
こんなにひとりの人間として『合う』人なんて、もう世界中どこを探してもいない、そう思ったことも一度や二度じゃない。
けれど今の状況をかえりみれは、運命の恋などはじめから存在しておらず、私が抱いた直感は幻想の一種だったのかも、しれない。
「……かも、か」
私は砂浜の方を振り返る。勿論誰もいない。映画やドラマのように、泣いて感傷的に浸っているヒロインの元に駆けつけて、やり直そうなどと言ってくれる運命の恋の相手であるヒーローなんてやっぱりいないのだ。
私は自嘲の笑みを浮かべた。この後に及んでまだどこかで運命の恋だと、聡太はヒーローなのだと諦め悪く考えてしまう自分にそろそろ本気で嫌気がさしそうだ。
それでもまだ会いたい。もう一度声が聞きたい。
まだ運命の恋をしていたかった。
溢れそうな涙をぐっと喉に押し込めば、ミントの香りが鼻からツンと抜けていく。
「……聡太、禁煙できたかな」
このミントの飴を始めに見つけて買ってきたのは私だった。喘息持ちのクセに聡太が煙草をやめられないから。
煙草を吸いたくなったら代わりにこの飴をと渡した時、聡太はくしゃっと笑って私にありがとうと言ってくれた。
あと聡太には最後まで言えなかったが、私が彼にこのミントの飴を渡したのには理由があった。
それはミントの花言葉だ。
──『かけがえのない時間』
私にとって聡太と過ごした時間はかけがえのない時間であり宝物だった。
「本当に……大好きだったよ」
聡太への気持ちを過去形にしたのは、そうでもしないと彼に電話をかけてしまいそうだから。
終わったんだと、自分に言い聞かせるように吐き出した言葉は波に攫われて海の奥深くへ消えていく。
私はため息をひとつ吐き出してからスマホを取り出すと、聡太の番号を消去した。
そして波音が静かに聞こえてくる海をじっと見つめた。
聡太は強面でコーヒーはいかにもブラックと見せかけて、クリープは絶対二つ必要で砂糖はまるまる一本いれる甘党だった。
体温が高いくせにわざと寒いと言っては寝る前、私にくっついてきて甘えるようにベッドに誘った。
片付け下手で散らかすのが得意なくせに、スーパーの袋はきちんと三角に折ってキッチンの引き出しにちゃんと入れるほど貴重面なところがあって、洗濯は私に任せきりにする代わりに、洋服や靴下はきちんと裏返すことなく脱いで、洗いやすくしてくれたり、さりげなくお風呂掃除をしてくれたりと気遣いのできる人だった。
甘いセリフなんて滅多に言わないけれど、でも眠る前はいつも同じ言葉を私の耳元で囁いてくれた。
──ずっと一緒にいような。
耳元で勝手に再生された彼の声にはまだ温度があって
、今この状況でもまだ夢だったらなんて願わずにいられない。
「……嘘つき。ずっと一緒にいようって言ったくせに」
いつからだろうか。今となってはその境界線は曖昧だが、私はいつからか聡太との不確かな未来を勝手に夢見るようになっていた。ずっと二人でこれからも思い出を積み重ねていつか家族になるんだなんて、そんな自分勝手な理想と想いを抱いてしまっていた。
それが別に悪いことだとは思わない。それだけ彼が私にとって運命だと思えるほど特別な人であり、一生に一度の恋だと思っていたから。
でも聡太にとってはどうだったんだろうか。
いつも自分のことばかり考えて、気持ちを主張して、知らず知らずに彼を追い詰めてはいなかっただろうか。
別れるとき、聡太は見たこともないくらい辛く悲しそうな表情だった。
『ごめん。限界』
理由を聞こうとしたけど、辛そうな聡太を前に何も言えなかった。それに理由はわかっていたから。
きっと私のことが重荷になったんだと思う。
思い返せば、聡太とのLINEが途絶えただけでなぜだが心配になってよく電話した。漠然とした不安から眠る前、訳もなく涙が出て聡太を困らせたりした。
時々、感情の起伏が抑えられなくて彼にキツイ言葉を使ったり、気持ちを試すような質問をしたりもした。
だって好きだったから。
どうしようもなく好きだった。
けれど好きだけじゃ難しい。
きっと愛してると言われてもそれだけじゃ満たされない。どれだけ抱き合っても想いを伝え合っても、別の人間だから全部を分かり合うことは不可能だから。
私はどこからかきっと聡太の全部を欲しがりすぎたのだと思う。
愛はミントが土に根を張り繁殖していくように、一度根を張れば強欲に心のままに、どこまでも増殖していくモノなのかもしれない。
でもね、もっと私を知って欲しかった。知りたいと思って欲しかった。悪いところは叱ってくれて良かったし、面倒な時は素直にそう言って欲しかった。
心が疲れてしまう前に、もっと言葉にしてほしかった。何も言わなくても無理に言葉を探さなくても、私が困らせたときはただ抱きしめてくれたらそれで良かった。
「……聡太……っ」
ミントの味が口内から消えて、私の両目から涙が溢れ出した。かけがえのない時間はもう願っても泣いても戻ってこない。
泣くのは今日で終わりにしよう。
そう思って聡太と初めてキスをしたこの海に来たけれど、まだ難しいかもしれない。何をしていてもどこにいても私はこのミントの匂いと共に聡太を思い出す。
どうしたって頭の片隅から離れない。
忘れられない。
私は口の中にもう何個目かわからないミントの飴を放り込むと、コロンと転がす。
やっぱり聡太を思い出して苦くて切なくなる、でも到底やめられそうもない。
ミントのようなこの恋は、まだしばらく私の心から消えてなくなったりはしないだろう。
それでいい。だってミントの飴はまだたくさん残っている。なくなればまた買えばいい。
飽きるほどに食べて涙が枯れ果てた時、ようやく私はミントのような恋を手放せる、そんな気がした。



