その日の夜、裕基は友人との飲み会を終え、駅前の雑居ビルにあるカラオケ店に寄っていた。就活の疲れを忘れるために、健允や彰裕たちと一緒に歌って騒いだ帰り道だった。ほろ酔い気分で駅に向かう途中、ふとビルの階段に座り込む健允を見つけた。
 「どうした?もう動けないのか?」
 健允は無言で頷き、やや俯いたままだ。普段から大人しい彼だが、今日は珍しく飲み過ぎているらしい。裕基はため息をつきながら、健允の腕を引っ張り立たせた。
 「ほら、帰るぞ。もう終電近いから。」
 「すまん、少し酔いすぎたかもしれない。」
 「珍しいな、お前がこんなに飲むなんて。」
 健允は苦笑しながら、裕基に支えられてビルのエレベーターまでたどり着いた。裕基が「1階」のボタンを押すと、エレベーターはスムーズに動き始めた。
 「なんとか間に合いそうだな…」
 ところが、途中で突然「4階」のランプが点灯し、エレベーターがそのまま4階へと向かってしまった。
 「えっ?4階?」
 扉が開くと、見知らぬ女性がエレベーター前で待っていた。しかし、どうやらこちらの状況を察して「すみません」と一言だけ言って、乗るのをためらった。
 「いや、こっちは大丈夫ですから…」
 裕基がそう言うと、女性は少し困った顔をしてエレベーターに乗り込む。扉が閉まり、もう一度「1階」のボタンを押すが、なぜか「2階」のランプが点灯し、そのまま2階へ向かう。
 「どうなってるんだ、このエレベーター…」
 健允がうつむいたまま小声で呟く。
 「もしかして、他の階で呼ばれてるんじゃないか…」
 「いや、そんなに人がいるわけないだろ。この時間だし。」
 「謎だな…」
 2階に着くと、誰もいない。扉が数秒間だけ開き、再び閉まる。ようやく「1階」に向けて動き出したが、裕基はなんとなく落ち着かない気持ちを抱えたままだった。
 「こういう時って、なんか不安になるよな…」
 エレベーターが1階に到着し、ようやく扉が開く。ほっとした気持ちで健允を支えながらビルを出ると、外の冷たい夜風が酔い覚ましにちょうどよかった。
 「なんだったんだ、あのエレベーター…」
 スマホを取り出し、ひとみにメッセージを送る。
 「エレベーターで1階押したのに、4階と2階に勝手に行ってさ…ちょっとホラーだった。」
 すぐに返信が来た。
 「え、怖いね!ボタンが壊れてたのかな?」
 「たぶんそうだと思うけど、酔ってる健允抱えてたから、なんか余計に焦った。」
 「酔っ払いの友達を支えながら、その状況はちょっと大変だね。」
 「うん、健允が珍しく飲みすぎててさ。」
 「健允君が?それは珍しいね。でも、石川君が一緒にいてくれて良かったかも。」
 「そうかな。まあ、無事に出られたし、これでよかったのかも。」
 健允はまだふらつきながらも、ようやく歩けるようになってきた。駅までの道をゆっくり歩きながら、少しずつ酔いが覚めていく様子が見える。
 「お前、今日はどうしたんだよ。普段はあんなに飲まないだろ。」
 健允は少し考え込んでから、小さく呟いた。
 「たまには、忘れたくなる時があるんだ。」
 「忘れたいこと、か。」
 普段物静かな健允がそう言うのは、きっと何かあったのだろう。しかし、無理に聞き出すことはせず、そのまま歩き続けた。自分にとっても、就活が上手くいかない時には同じように飲みたくなることがある。そんな共感が、言葉にしなくても伝わってくる。
 「ま、こういう日もあるよな。」
 「すまない、迷惑かけた。」
 「気にすんなよ。こういう日はお互い様だし。」
 健允は少しだけ笑って、わずかに目を細めた。普段は冷静な彼が、少しだけ人間臭く見える瞬間だった。
 「次はもう少しゆっくり飲もうぜ。お前が飲みすぎると、俺も気が抜けないからさ。」
 「わかった。ありがとう、裕基。」
 その言葉が自然と胸に響き、裕基は少しだけ照れながら歩き続けた。夜の街は静かで、酔いを覚ますにはちょうど良い冷たさだった。
 駅に着き、健允を見送ってから、もう一度ひとみに報告する。
 「なんとか健允を無事に送り出せた。少し酔いが冷めたみたいで良かったよ。」
 「良かった!石川君、優しいね。無事で安心したよ。」
 「三木さんが話してくれたから、落ち着いて対処できたよ。」
 「それなら良かった!今日はゆっくり休んでね。」
 駅のホームで電車を待ちながら、ようやく肩の力が抜けた。あのエレベーターの出来事が、今となっては少し笑える話になっている。普段の自分なら、不安でいっぱいになっていたかもしれないが、ひとみに話すことで冷静さを取り戻せたのだ。
 「今日はこれで良かったかもな。」
 電車がホームに滑り込み、自然と笑みがこぼれる。自分の周りには、こうして支えてくれる友人や、助けてくれる人がいる。それがどれだけ心強いことか、改めて感じた夜だった。
 終