翌朝、裕基はいつもより少しだけ早く家を出た。昨日の説明会の余韻がまだ残っているが、少しでも前に進みたいという気持ちが背中を押している。今日は別の企業の説明会だ。履歴書を入れたバッグを抱え、少し眠たそうな顔で駅に向かう。
 改札を抜けてホームに上がると、通勤ラッシュが始まったばかりで人が少しずつ増えている。電車が来るまで、スマホで今日の企業情報を再確認する。緊張感がじわじわと胸を締め付けるが、昨日のひとみとの会話を思い出し、なんとか気持ちを落ち着かせた。
 「昨日はうまく話せなかったけど、今日は…」
 そんな独り言を呟いていると、電車が滑り込んできた。ドアが開き、まだ座席に余裕がある車両に乗り込む。すぐに空いている席を見つけ、腰を下ろす。
 「ひゃっ!」
 座った瞬間、予想以上の冷たさが尻に伝わり、思わず声が漏れる。隣に座っていた中年の男性がチラリとこちらを見て、不審そうに首をかしげた。裕基は慌てて姿勢を直し、表情を引き締める。
 「なんでこんなに冷たいんだよ…」
 春先とはいえ、朝はまだ冷える。座席の冷たさがじわじわと体に染み込んでくる。少しだけお尻を浮かせて座ってみるが、すぐに筋肉が疲れてしまう。車内アナウンスが駅名を告げ、乗客がさらに増えてきた。座席を譲るわけにもいかず、仕方なく座り直すが、冷たさに自然と体が縮こまる。
 「寒い…」
 心の中で愚痴りつつ、周囲を見渡すと、他の乗客たちは平然と座っている。まさか自分が座った席だけが特別に冷たいのかと疑い始めるが、確認するわけにもいかない。目の前に立っている女子高生たちは、友達同士で笑い合っている。どうやら寒さなど気にしていない様子だ。
 「俺だけなのか…?」
 考え込むうちに、心の中のモヤモヤが増していく。ひとりでいると、こうして不安がどんどん大きくなる。それを振り払おうとスマホを取り出し、ニュースを見たり、SNSを眺めたりするが、どれも頭に入ってこない。
 そんな中、突然スマホが震えた。通知を見ると、ひとみからのメッセージが届いている。
 「おはよう、今日も説明会頑張ろうね。私も緊張してるけど、昨日石川君と話して少し元気出たよ。」
 その短いメッセージを読んで、裕基の心は少し温かくなった。昨日の会話が、ひとみの励みになっていることが嬉しかった。それと同時に、自分自身も少し勇気づけられる。
 「ありがとう、三木さん。俺も頑張るよ。」
 返信を打ちながら、ふと気づく。さっきまであんなに冷たかった座席が、少しだけ温かく感じる。どうやら体が慣れてきたらしい。あまりにも冷たさばかりを気にしていた自分が、急に滑稽に思えてくる。
 「結局、慣れればどうってことないのか…」
 ひとり苦笑しながらスマホをポケットに戻し、周囲を見渡す。ラッシュが激しくなってきたため、立ち席の乗客が増え、窓の外には次の駅が見えてきた。
 「次は〇〇駅です。お乗り換えの方は…」
 電車が減速し、ホームが見え始める。裕基はもう一度、バッグの中の資料を確認し、深呼吸をした。緊張が少しだけ和らぎ、胸の奥から「やってやる」という小さな決意が芽生える。
 電車が停車し、人々が一斉に降りていく。裕基も立ち上がり、改札に向かう。冷たい座席も含めて、今日は何があっても前向きに捉えようと心に決めた。昨日とは少し違う自分がいる気がして、歩く足取りがほんの少しだけ軽くなった。
 外に出ると、まだ冷たい風が吹いていたが、裕基はコートの襟を立てて歩き出す。春の冷たさも、今日を乗り切るためのスパイスだと考えると、なぜか少しだけ勇気が湧いた。
 終