その日の夕方、裕基は仕事帰りに駅前のスーパーに立ち寄った。冷蔵庫の中がほとんど空っぽになっていることを思い出し、最低限の食材を買って帰ることにした。スーツのままだと少し動きづらいが、帰宅してからもう一度出かけるのも面倒だ。
 「何買おうかな…」
 入り口近くのカゴを手に取り、まずは野菜売り場へ向かう。普段から自炊するわけではないが、たまにはちゃんとした食事を取らなければと思い、トマトやレタスを選んでカゴに入れる。少し歩いたところで、何やらカゴの底がやけに冷たいことに気がついた。
 「なんだこれ…?」
 不審に思ってカゴを覗き込むと、底にうっすらと水滴がたまっているのが見えた。どうやら前に使った誰かが冷凍食品を入れたまま、解けた水が残っていたらしい。
 「うわっ、最悪だ…」
 カゴを取り替えようかとも思ったが、すでに野菜を入れた後だし、わざわざ出入り口に戻るのも億劫だ。水滴が直接食材に触れているわけではないが、なんとなく気分が悪い。
 「こんな時に限って…」
 ため息をつきながらも、気を取り直して他の売り場へ向かう。肉売り場で鶏もも肉を手に取ったが、底が濡れているせいでカゴに入れるのが少し躊躇われた。仕方なく肉パックをビニール袋に入れて、なるべく濡れた部分に触れないようにそっと置いた。
 「こういうのって、ほんとテンション下がるよな…」
 スマホを取り出し、ひとみにメッセージを送る。
 「スーパーのカゴが濡れてて、買い物しづらい…」
 すぐに返信が来た。
 「えー、それは嫌だね!前に使った人が冷凍物入れてそのまま放置してたのかもね。」
 「多分そうだと思うけど、なんか気持ち悪くてさ。」
 「あるある!私も底が濡れてるカゴに気づかず、パン入れちゃったことあるよ。」
 「それは悲惨だな…今回は野菜だからまだ良かったけど。」
 「気になるなら、店員さんに言って新しいカゴに変えてもらったら?」
 「そうだよな。でも、もう半分くらい買っちゃったから面倒で…」
 「なら、家に帰ったらちゃんと拭いておくと安心かも。」
 「そうするよ、ありがとう。」
 ひとみの柔らかい言葉に少し気が楽になり、気にしすぎないように心を切り替えた。冷蔵食品コーナーで牛乳を手に取り、カゴの中を確認すると、やはり底の水滴が少し広がっている。仕方なく、持ち方を工夫して、濡れた部分が食材に触れないよう気を使いながらレジへ向かった。
 「お会計、1,280円です。」
 支払いを済ませ、袋詰めのカウンターに移動し、袋を二重にして濡れた底部分が当たらないように工夫する。少しだけ面倒だが、ひとみの言う通り、帰ってからしっかり拭けば大丈夫だと自分に言い聞かせた。
 店を出て帰り道を歩きながら、もう一度スマホを確認すると、ひとみから追加のメッセージが届いていた。
 「ちゃんと買えた?無事ならいいけど…」
 「なんとかね。濡れた部分に触れないように気を使ったけど、無事に持ち帰れそう。」
 「良かった!帰ったらちゃんと手洗ってね。」
 「うん、ありがと。三木さんが話してくれたおかげで落ち着けたよ。」
 「ふふ、ささいなことでも気になる時ってあるからね。ちゃんと気をつけて帰ってね!」
 夜風が心地よく、少しだけ気分が軽くなった。ささいなトラブルでも、誰かと共有できるだけで、モヤモヤが和らぐ。ひとみに報告したことで、自分だけが不運を背負っているわけじゃないと感じられた。
 アパートに着き、まずは濡れたカゴが触れていた袋を丁寧に拭き取る。幸い、食材に異常はなく、無事に片付けを終えた。
 「ほんと、次からはカゴを確認してから使おう…」
 ひとみへ最後の報告を送る。
 「帰宅して無事に片付け終わったよ。結局、家でちゃんと拭いた。」
 「お疲れ様!無事で何より。次は濡れてないカゴが見つかるといいね。」
 「だね。三木さんに話したら気が楽になったよ、ありがとう。」
 「どういたしまして!いつでも話してね。」
 そのメッセージを眺めながら、自然と笑みがこぼれた。日常の小さなトラブルも、こうして誰かと共有できると、不思議と心が軽くなる。冷たい夜風が窓を揺らし、部屋の中にはようやく落ち着きが戻ってきた。
 「今日はこれで良かったのかもな…」
 少し肩の力が抜け、リラックスできたのは、ひとみがいてくれたおかげだ。ささいなことでも、こうして共有できる誰かがいる。それだけで毎日が少しずつ楽になる気がする。
 明日は、もっと良い日になるようにと願いながら、裕基は晩ご飯の準備に取り掛かった。
 終