裕基は説明会が終わり、少し疲れた体を引きずりながら駅へと戻ってきた。今日の説明会は思ったよりも盛況で、企業の熱意が伝わってきたが、その分、学生たちのやる気も溢れており、どこか圧倒されてしまった自分がいた。ひとみとは説明会が始まる前に別れ、その後どうなったのかはわからない。
 「はあ…今日も微妙だったな」
 駅前の駐輪場に停めてあった自転車を見つけ、裕基は鍵を外す。久しぶりに使う自転車は、少しほこりをかぶっていたが、とりあえず乗れるだろうと思い、サドルに腰掛けた。
 「ん?」
 違和感が走った。いつもよりサドルが低い。足を地面につけると膝が曲がってしまう。どうやら誰かにサドルをいじられたらしい。裕基は面倒くさそうにため息をつき、サドルを調整しようとするが、錆びついて固まっていた。
 「マジかよ…」
 力を入れてもびくともしない。結局そのまま乗ることにしたが、ペダルを漕ぐたびに窮屈な姿勢になり、腰が痛くなる。通りすがる人々がちらりと裕基の乗り方を見て、不自然さに気づいているようで、ますます居心地が悪い。
 「なんでこう、うまくいかないんだろうな…」
 心の中でぼやきながら、住宅街をゆっくりと進む。裕基はふと、サドルが低いことで昔のことを思い出した。中学生の頃、まだ自転車に乗り慣れていなかった頃、同じようにサドルが低くて苦労していた記憶がある。その時、父親が「高さをちゃんと調整しないと怪我するぞ」と言って、しっかりと直してくれたことがあった。
 「父さん、今何してるのかな…」
 ふと懐かしい思い出が胸をよぎる。父親は単身赴任で地方に行っており、最近はなかなか連絡も取れていない。裕基が就職活動で悩んでいることも知らないだろう。実家に帰った時にでも、久しぶりに話をしてみようか、そんなことを考えながら、ペダルを漕ぐ足に少し力を入れる。
 しかし、坂道に差し掛かると、その低すぎるサドルがさらに仇となる。踏み込むたびに膝が痛むし、力が入らない。歩道を歩くおばあさんが、ゆっくり追い抜いていく。
 「情けないな…」
 自嘲気味に呟く。周りの景色はどこかのどかで、花壇には色とりどりの花が咲き誇っている。けれど、自分だけが取り残されているような気がして、胸が締め付けられる。社会という大きな坂を登ろうとしているのに、こんな低いサドルではどうにもならない。
 やっとの思いで坂を登り切ると、少し広がった公園が見えてきた。裕基は疲れた体を引きずりながらベンチに腰掛け、自転車を立てかける。膝をさすりながら、遠くで遊ぶ子供たちをぼんやりと眺める。
 「子供の頃は、何も考えずに坂を駆け上がってたんだよな」
 無邪気に笑いながら追いかけっこをする子供たち。そんな姿を見ていると、自分が抱えている不安が一瞬だけ小さく感じられる。何かを恐れて立ち止まるより、ただ夢中で走っていた頃の方が、よっぽど輝いていた気がする。
 スマホが震え、画面を見ると、ひとみからのメッセージが届いていた。
 「説明会、思ったより人が多くてびっくりしたけど、なんとか乗り切れたよ。石川君は大丈夫だった?」
 裕基は少し微笑んで、返信を打つ。
 「俺もなんとか終わったよ。やっぱり緊張したけど、三木さんが頑張ってるって思うと、俺も頑張れた」
 送信ボタンを押して、ふと考える。こうして誰かと気持ちを共有できるだけで、不思議と心が軽くなる。自分だけが孤独じゃないんだと感じられるだけで、また前を向ける気がする。
 サドルをいじり直すのはまた今度にしよう。裕基は立ち上がり、もう一度自転車にまたがる。まだ低くて違和感が残るが、坂を登り切ったことで少しだけ達成感があった。
 「もう少し、頑張ってみるか」
 ひとみから「次も一緒に説明会行こうね」と返信が来て、裕基は小さく笑った。桜の花びらが再び舞い降り、頬に軽く触れる。暖かい風が吹き、春の匂いがふわりと広がった。
 終