眠りから覚め日常に戻れば、夜はいともあっさりやってくる。
少し早めの夕食と風呂を済ませた俺は、ひとり部屋にこもると、宝珠灯の灯りに照らされながら、魂刻をする為の準備を始めた。
白を基調に、袖などを薄い水色で縁取った、どこか司祭にも見えるシンプルな長袖の魔道着。
これは魂術師の正装。魂灯職人として魂刻する際に使う服で、師匠が俺のために仕立ててくれた物だ。
窓の外。星の見えない曇り空を見ながら、すっと袖に手を通していく。
これだけで心が引き締まるのは、この作業こそ魂灯の出来を決めるとわかっているから。
緊張もある。不安もある。だけど、昼間の気づきがあったからか。迷いは吹っ切れていた。
襟を正し、帯を締め魔道着に着替え終わった俺は、そのまま近くにある棚の引き出しを開けた。
そこにあるのは、鞘に収まった一本の片手剣。これもまた、魂刻で使う大事な魔道具だ。魔道着に合わせるには不釣り合いな物だけど、それが恥ずかしいと思ったことはない。
剣を収めたまま鞘を腰に差し、近くの姿見を見る。
髪型こそ普段通りで冴えないけれど、どこか締まって見えるのは服装のお陰か。
さて。後は……。
俺は剣の入っていた引き出しを閉じ、もう一段下から幾つかの手の平に収まるくらいの丸い白い石を手にすると、机まで行きそこに置いていた布袋に詰め、これも腰布に縛る。
あとは炎の灯った宝珠灯を腰紐に下げ、魂灰の入った硝子の器を持って……よし。これで準備はいいな。
ふぅっと息を吐いた俺は、そのまま自分の部屋の扉を開け、リビングへと入った。
テーブルで話をしていたリセッタとリオーネがこっちに気づくと、立ち上がり歩み寄ってきた。
「準備は終わったんですか?」
「ええ」
どこか心配そうな表情のリオーネに対し、リセッタは俺を軽く見回すと、普段通りの笑顔を見せた。
「へー。なんか普段と雰囲気違うね」
「そうか?」
「うん。お兄ちゃん、いつもその格好だったらいいのに」
「こういう堅苦しい格好は苦手なんだよ。こういう時だけで十分だって」
冗談じみたリセッタの言葉に、俺も軽口を叩いて返していると、そんな空気に取り込まれることなく、不安げなリオーネがこっちを見る。
「本当に、大丈夫なんですか? こんな時間に出掛けるなんて」
彼女がそう口にした理由。それは勿論、雲の上で紅月が昇り始めたであろうこの時間に、俺が外で作業をすると伝えたからだ。
魂刻の作業は、リセッタ達に見せるわけにはいかない。
でも、工房でもできる工程をわざわざ外で行おうとしているのは、彼女達に見られないよう念の為、というわけじゃない。
流石に魂刻に絡む話。具体的な理由は説明できないからこそ、野外で作業する必要があるとだけ伝えてはあるけれど、それ故にリオーネは不安を持っているんだろう。
「大丈夫ですよ。大魔術師である師匠から自衛する術も学んでますから」
「そうだよ! お兄ちゃんを信じよ?」
安心させるよう笑顔でそう伝えると、リセッタもそうやって元気づけようとしている。
……ほんと。リセッタのこういう所は助かるな。
実際、彼女は師匠が魔術を使えるとは知っていても、大魔術師だなんて初耳だろうし、俺にどこまでの実力があるかも知らない。
そんな俺が夜に出掛けると言えばリセッタだって不安になりそうなもんだけど、まったく取り乱したりしていない。
──「お兄ちゃん! ほんとに大丈夫なんだよね?」
俺と二人っきりだったら、きっと不安げな顔でこう言い出していたに違いない。
なんだかんだで心配性だからな。
「……そうですよね。すいません。私の為に頑張ってくれているのに」
俺と長い付き合いであるリセッタの明るい言葉のお陰で、少し気持ちが落ち着いたのか。小さく微笑みそう口にしたものの、リオーネの表情には未だ影がある。
とはいえ、今すべての不安を拭えなんて土台無理な話。ちゃんと仕事を終え戻ってくれば、彼女の心配だって杞憂に終わるんだ。今は我慢してもらおう。
「いいですよ。今日も遅くなると思うので、先に休んでください」
「はい」
「お兄ちゃん。頑張ってね!」
「ああ。それじゃあな」
何とか気丈に振る舞うリオーネと、笑顔で不安をごまかしているリセッタ。
そんな顔をさせている事を心苦しく思いながらも、俺は一人家を後にすると、レトの町に続く街道を歩き始めた。
少し肌寒い風。天気は良くないけれど、雨が降りそうなじめっとした空気ではないい。
ただ、より闇に近い暗雲が、この先への不安を予言しているようにも見える。
……流石にそれは考えすぎか。
こんな事を考えているから、詩人みたいとか言われるんだ。
以前この街道でリオーネに言われたことを思い出し、自然と浮かぶ苦笑い。
一緒に笑ってくれる人のいない中、俺は黙々と歩き続け、街道の途中で道を逸れると人気のない海沿いの方に丘を下っていく。
……きたか。
耳に届いた羽音に視線を向けると、頭上に蝙蝠が飛び交っている。
ポラナの島は流石に小さな島なのもあり、魔物と遭遇なんてまずしない。とはいえ、蝙蝠や狼、熊といった動物は存在するし、紅月の時間に凶暴化だってする。
蝙蝠は俺の後を追うように、頭上を飛び回っている。
こっちが警戒しているのに気づいて、機を伺っているに違いない。
目的の場所まで着けば気にしなくて済むけれど、このまま付いてこられるのも面倒だな。
俺は頭上の蝙蝠達に目を向けたまま、くるりと指で小さく弧を描く。
すると、ふわりと体の光った蝙蝠達は、まるで何かを探すかのように、その場でふらふらと散開し始めた。
魂術、無感覚。
これは術を受けた者達の五感を、一時的に遮断するものだ。
音や振動、臭いを頼りに獲物を探すと言われている蝙蝠も、流石に五感を絶たれればどうしようもない。
ふらふらと飛んでいた一羽が、バランスを崩し草むらに落ちていき、今いるのが地面なのかもわからいのか。もがくかのようにバタバタと羽を動かし続けている。
他の蝙蝠達もまた互いにぶつかり合って散り散りとなり、ある物はあらぬ方向に飛んでいき、ある物は同じように地に落ちていく。
炎球なんかで撃ち落とす事もできるけれど、別にそこまでする必要はないだろう。せっかくの魔道着が汚れるのも嫌だしな。
俺は蝙蝠達をそのままに、歩みを止めず丘を下りる。そして、誰もいない暗がりの砂浜に辿り着いた。
肌を撫でる風に、潮の香りが交じる。
曇り空で星もないからこそ、今俺を照らしているのは宝珠灯の灯りだけ。それが一層闇を深く感じさせる。
レトの町の漁港から随分離れているし、丘が影になっているのもあり、町の灯りは見えない。海星魚の輝きもなければ、漁に出ている船もないからこそ、誰かに見られる心配はない。
これこそが、俺が求めた最高の作業場だ。
「さて。余計な物が来る前に、早めに準備するか」
波打ち際から離れた砂浜の上に、家から持ってきた白い石を布袋から取り出し、ひとつずつ砂浜の上に置き始めた。
大人が四、五人横に並んでも収まる円を意識し、等間隔に配置したその石こそ、聖刻陣を刻む時に使う楔石。
とはいえ、この石は本格的な聖刻陣を刻む物じゃなく、一時的に聖刻陣を展開するための簡易用。
……これでよし。
石を並べ終えた俺は、石を繋ぎできる円の中心に立つと、一度足元に宝珠灯と硝子の器を置き、両目を閉じると胸の前で腕を組んだ。
『白き聖石よ。偉大なる魔力の力でこの地を浄化し、聖なる力で護り給え』
魔術でも上位の術、結界術を詠唱し目を開けると、両手に集めた魔力を自身の足元から地を這わせ、それぞれの石に巡らせる。
と、石がまばゆく輝いた瞬間。空から五本の光の柱が降り注ぎ、石の上に降り立った。
直後、柱をつなぐように砂間はに弧を描いた光が、まるで血管に血が巡るかのように、俺のいる方に細かな文様を広げつつ魔方陣を描き出していく。
それが俺の真下まで来た瞬間、改めて柱同士を繋ぐように、より強い光の壁が俺の周囲を覆う。
きちんとした聖刻陣は、こういった光の壁や柱が見えず、魔物達と関係ない物──例えば風や光なんかをそのまま素通りさせてくれる。
だけど、簡易版であるこの陣はそこまで万能じゃない。だから、光の壁や柱は透明度はあるものの白く輝き続けているし、結界の外から流れてくる風なんかも遮ってくれる。
そのお陰で、砂浜でも風を気にせず作業ができるのはありがたい。
柱に魔力は十分に注いだ。これで作業中に結界を失うことはないだろう。
さて。ここからが本番だな。
俺は一度深呼吸をすると、魂刻を始めることにした。
少し早めの夕食と風呂を済ませた俺は、ひとり部屋にこもると、宝珠灯の灯りに照らされながら、魂刻をする為の準備を始めた。
白を基調に、袖などを薄い水色で縁取った、どこか司祭にも見えるシンプルな長袖の魔道着。
これは魂術師の正装。魂灯職人として魂刻する際に使う服で、師匠が俺のために仕立ててくれた物だ。
窓の外。星の見えない曇り空を見ながら、すっと袖に手を通していく。
これだけで心が引き締まるのは、この作業こそ魂灯の出来を決めるとわかっているから。
緊張もある。不安もある。だけど、昼間の気づきがあったからか。迷いは吹っ切れていた。
襟を正し、帯を締め魔道着に着替え終わった俺は、そのまま近くにある棚の引き出しを開けた。
そこにあるのは、鞘に収まった一本の片手剣。これもまた、魂刻で使う大事な魔道具だ。魔道着に合わせるには不釣り合いな物だけど、それが恥ずかしいと思ったことはない。
剣を収めたまま鞘を腰に差し、近くの姿見を見る。
髪型こそ普段通りで冴えないけれど、どこか締まって見えるのは服装のお陰か。
さて。後は……。
俺は剣の入っていた引き出しを閉じ、もう一段下から幾つかの手の平に収まるくらいの丸い白い石を手にすると、机まで行きそこに置いていた布袋に詰め、これも腰布に縛る。
あとは炎の灯った宝珠灯を腰紐に下げ、魂灰の入った硝子の器を持って……よし。これで準備はいいな。
ふぅっと息を吐いた俺は、そのまま自分の部屋の扉を開け、リビングへと入った。
テーブルで話をしていたリセッタとリオーネがこっちに気づくと、立ち上がり歩み寄ってきた。
「準備は終わったんですか?」
「ええ」
どこか心配そうな表情のリオーネに対し、リセッタは俺を軽く見回すと、普段通りの笑顔を見せた。
「へー。なんか普段と雰囲気違うね」
「そうか?」
「うん。お兄ちゃん、いつもその格好だったらいいのに」
「こういう堅苦しい格好は苦手なんだよ。こういう時だけで十分だって」
冗談じみたリセッタの言葉に、俺も軽口を叩いて返していると、そんな空気に取り込まれることなく、不安げなリオーネがこっちを見る。
「本当に、大丈夫なんですか? こんな時間に出掛けるなんて」
彼女がそう口にした理由。それは勿論、雲の上で紅月が昇り始めたであろうこの時間に、俺が外で作業をすると伝えたからだ。
魂刻の作業は、リセッタ達に見せるわけにはいかない。
でも、工房でもできる工程をわざわざ外で行おうとしているのは、彼女達に見られないよう念の為、というわけじゃない。
流石に魂刻に絡む話。具体的な理由は説明できないからこそ、野外で作業する必要があるとだけ伝えてはあるけれど、それ故にリオーネは不安を持っているんだろう。
「大丈夫ですよ。大魔術師である師匠から自衛する術も学んでますから」
「そうだよ! お兄ちゃんを信じよ?」
安心させるよう笑顔でそう伝えると、リセッタもそうやって元気づけようとしている。
……ほんと。リセッタのこういう所は助かるな。
実際、彼女は師匠が魔術を使えるとは知っていても、大魔術師だなんて初耳だろうし、俺にどこまでの実力があるかも知らない。
そんな俺が夜に出掛けると言えばリセッタだって不安になりそうなもんだけど、まったく取り乱したりしていない。
──「お兄ちゃん! ほんとに大丈夫なんだよね?」
俺と二人っきりだったら、きっと不安げな顔でこう言い出していたに違いない。
なんだかんだで心配性だからな。
「……そうですよね。すいません。私の為に頑張ってくれているのに」
俺と長い付き合いであるリセッタの明るい言葉のお陰で、少し気持ちが落ち着いたのか。小さく微笑みそう口にしたものの、リオーネの表情には未だ影がある。
とはいえ、今すべての不安を拭えなんて土台無理な話。ちゃんと仕事を終え戻ってくれば、彼女の心配だって杞憂に終わるんだ。今は我慢してもらおう。
「いいですよ。今日も遅くなると思うので、先に休んでください」
「はい」
「お兄ちゃん。頑張ってね!」
「ああ。それじゃあな」
何とか気丈に振る舞うリオーネと、笑顔で不安をごまかしているリセッタ。
そんな顔をさせている事を心苦しく思いながらも、俺は一人家を後にすると、レトの町に続く街道を歩き始めた。
少し肌寒い風。天気は良くないけれど、雨が降りそうなじめっとした空気ではないい。
ただ、より闇に近い暗雲が、この先への不安を予言しているようにも見える。
……流石にそれは考えすぎか。
こんな事を考えているから、詩人みたいとか言われるんだ。
以前この街道でリオーネに言われたことを思い出し、自然と浮かぶ苦笑い。
一緒に笑ってくれる人のいない中、俺は黙々と歩き続け、街道の途中で道を逸れると人気のない海沿いの方に丘を下っていく。
……きたか。
耳に届いた羽音に視線を向けると、頭上に蝙蝠が飛び交っている。
ポラナの島は流石に小さな島なのもあり、魔物と遭遇なんてまずしない。とはいえ、蝙蝠や狼、熊といった動物は存在するし、紅月の時間に凶暴化だってする。
蝙蝠は俺の後を追うように、頭上を飛び回っている。
こっちが警戒しているのに気づいて、機を伺っているに違いない。
目的の場所まで着けば気にしなくて済むけれど、このまま付いてこられるのも面倒だな。
俺は頭上の蝙蝠達に目を向けたまま、くるりと指で小さく弧を描く。
すると、ふわりと体の光った蝙蝠達は、まるで何かを探すかのように、その場でふらふらと散開し始めた。
魂術、無感覚。
これは術を受けた者達の五感を、一時的に遮断するものだ。
音や振動、臭いを頼りに獲物を探すと言われている蝙蝠も、流石に五感を絶たれればどうしようもない。
ふらふらと飛んでいた一羽が、バランスを崩し草むらに落ちていき、今いるのが地面なのかもわからいのか。もがくかのようにバタバタと羽を動かし続けている。
他の蝙蝠達もまた互いにぶつかり合って散り散りとなり、ある物はあらぬ方向に飛んでいき、ある物は同じように地に落ちていく。
炎球なんかで撃ち落とす事もできるけれど、別にそこまでする必要はないだろう。せっかくの魔道着が汚れるのも嫌だしな。
俺は蝙蝠達をそのままに、歩みを止めず丘を下りる。そして、誰もいない暗がりの砂浜に辿り着いた。
肌を撫でる風に、潮の香りが交じる。
曇り空で星もないからこそ、今俺を照らしているのは宝珠灯の灯りだけ。それが一層闇を深く感じさせる。
レトの町の漁港から随分離れているし、丘が影になっているのもあり、町の灯りは見えない。海星魚の輝きもなければ、漁に出ている船もないからこそ、誰かに見られる心配はない。
これこそが、俺が求めた最高の作業場だ。
「さて。余計な物が来る前に、早めに準備するか」
波打ち際から離れた砂浜の上に、家から持ってきた白い石を布袋から取り出し、ひとつずつ砂浜の上に置き始めた。
大人が四、五人横に並んでも収まる円を意識し、等間隔に配置したその石こそ、聖刻陣を刻む時に使う楔石。
とはいえ、この石は本格的な聖刻陣を刻む物じゃなく、一時的に聖刻陣を展開するための簡易用。
……これでよし。
石を並べ終えた俺は、石を繋ぎできる円の中心に立つと、一度足元に宝珠灯と硝子の器を置き、両目を閉じると胸の前で腕を組んだ。
『白き聖石よ。偉大なる魔力の力でこの地を浄化し、聖なる力で護り給え』
魔術でも上位の術、結界術を詠唱し目を開けると、両手に集めた魔力を自身の足元から地を這わせ、それぞれの石に巡らせる。
と、石がまばゆく輝いた瞬間。空から五本の光の柱が降り注ぎ、石の上に降り立った。
直後、柱をつなぐように砂間はに弧を描いた光が、まるで血管に血が巡るかのように、俺のいる方に細かな文様を広げつつ魔方陣を描き出していく。
それが俺の真下まで来た瞬間、改めて柱同士を繋ぐように、より強い光の壁が俺の周囲を覆う。
きちんとした聖刻陣は、こういった光の壁や柱が見えず、魔物達と関係ない物──例えば風や光なんかをそのまま素通りさせてくれる。
だけど、簡易版であるこの陣はそこまで万能じゃない。だから、光の壁や柱は透明度はあるものの白く輝き続けているし、結界の外から流れてくる風なんかも遮ってくれる。
そのお陰で、砂浜でも風を気にせず作業ができるのはありがたい。
柱に魔力は十分に注いだ。これで作業中に結界を失うことはないだろう。
さて。ここからが本番だな。
俺は一度深呼吸をすると、魂刻を始めることにした。


