今日の私の課題はヒカリが居なくても部活に出ること。
 昨日、クズヤに変なマウントを取られて戦闘意識を刺激された私は、アドレナリンが異常に放出されたまま部室に向かった。

(大丈夫。)

 暗示をかけながら歩く、三階の二年生の教室から二階の美術教室に行くまでの廊下が、やけに長く感じる。

(ヒカリが居なくても、私は私じゃん。)

 でも、やっぱり一人で入るのは勇気がいる。
 結局私は、風邪でもないのにピンク色のマスクを着けて部室に入ることにした。

 ※
 
「ちはー。」

 明るくハキハキとした声を出して美術教室に入ると、人が居るにもかかわらず相変わらずしんと静かな部室だ。

 そして相変らず誰とも視線が合わない。
 そんな中、顔を上げていた熊先輩とだけは目が合った。

 思わず微笑むと、熊さんはすぐに俯いてしまった。

 モテなさそう。

 私がデッサンの用意をしていると、部長の新見がようやく顏を上げて呟いた。

「田中さん、来たんだね。」

 今さら?

「昨日は無断で休んですみません。
 ちょっと風邪ぎみで…。」

 私はわざとらしくケホンと咳ばらいをする。
 新見は静かにうなずいて、また視線をキャンバスに戻した。
 
(気にしない気にしない!)

 私はヒカリのように音楽を聴こうとしてラジオの電源に手を伸ばした。
 
「あれ?」

 スイッチを押してもウンともスンとも言わない。

「電池切れかな?」

 電池のカバーを外して中を覗き込むと、単4電池が4本入るスペースがそのまま空洞になっている。

「え、なんで?」

 私がショックを受けていると、いつの間にか部長の新見が目の前に立っていた。

「田中さん、ちょっと話があるんだけど、いいかな。」

 ♢

 隣の美術準備室に呼び出された私は、パイプ椅子に座って新見と向き合った。

「田中さんは入って来たばかりで何も分からないのに悪いけど、昨日みんなでミーティングをしたの。
 田中さんにも共有したいので、聞いてください。」

「はぁ。」

「ミーティングの議題は、最近、部内の規律が乱れていることについてです。」

 嫌な予感がする。
 私はマスクのズレを直すフリをして呼吸を整えた。

「まずは、部活中の無駄な私語を禁止。
 それから、活動と関係のない機器の利用も校則で禁止です。
 もちろんスマホやゲーム、あとはラジオもね。」

「それって…。」

 遠回しに言っているけど、全部が私とヒカリのことじゃん。 
 私はイラッとした顏がバレないように、マスクをしていて良かったと心から思った。

「私のこと、ですよね。」
 
「そう。
 あなたが来てから、すごくお喋りがうるさくて迷惑しているの。
 みんなが絵に集中できないのよ。」

 私は金づちで殴られたかのようにショックを受けた。

 うるさい。
 迷惑。

 私とヒカリがそんな風に見られてたんだ。
 本来なら二人が浴びるべき非難を私だけが受けることを恨みがましく思う反面、ヒカリが居ない時に文句を言うことに苛立ちを覚えた。

「め、迷惑をかけていたことは申し訳なく思います。
 でも、以前からヒカリはラジオはつけていたんですよね?
 今さらじゃないですか?」

「最初にそれを許しちゃったのがマズかったと思ってる。」

 新見は深くため息を吐いた。
 
「だから話し合いをすることになったのよ。
 部員がみんな、ガマンの限界だって言っているからね。」

 だからって本人がいないところで決めるなんて…イジメじゃん。

 私は下唇をギュッと噛みしめた。
 サイアク。

「田中さん、絵は好き?」

「まぁ、普通です。」

「普通ね。
 どうもヒカリもあなたも絵が好きなようには見えなくて。」

 図星だからだろうか。
 部長の言い方に若干の嫌味成分を感じた。

 その時、準備室の扉がノックされた。

「ねぇ、フィキサチーフ取っていい?」

 残念イケメン…もとい、ハルトが顏を出して気まずい顏をした。

「お説教部屋?」

「ミーティングの共有よ。
 ハルト君もあとで話しましょ。」

「俺は結構です。」

「全員参加です。」

「うへー。」

「君は才能ある人なんだから、ちゃんと活動しなよ。」

 部長の声が急に優しい口調に変わる。

(人によって態度を変えんなよ。)

 私の中でそれが起爆剤になった。

「お話は分かりました。
 もう部活中の私語はしないしラジオも流しません。
 それから私は絵が好きかどうか分かりませんが、部活は辞めません。」

「わ、私は辞めてと言ったわけじゃないわよ。」

「それなら良かったです。これからも毎日来るのでよろしくお願いします。」

 私はわざと大きな声で言い放つと美術準備室を出た。

 ♢

 イライラしながら一人で美術室に戻りクロッキーブックを開くと、熊先輩が近寄ってきた。

「今日から二年生は中体連の課題である静物画の油絵を描くんだよ。
 部長に聞いた?」

「…聞いてません。」

 私は横目でチラリと先輩の胸元の名札のプレートを確認した。

(この人『吉田』っていう名前だったんだ。)

 間違っても『熊先輩』という陰のあだ名では呼ばないようにしなきゃ。 

「じゃあまず、道具の用意しようか。キャンバスは作ったことある?」

 私が無言で首を横に振ると、先輩は優しく微笑んだ。

「じゃあ、今回は俺がキャンバスを張るから、横から見て覚えてね。」

 吉田先輩にアドバイスを受けながら用意されたキャンバスに下絵を描くと、思った以上に正確なスケッチができた。

「本当に初めて? 才能アリだね。」

 褒められると、お世辞でも嬉しい。

(見た目はモッサいけど、優しい人なのかな。)

 私は少しだけ吉田先輩に興味を持った。

「先輩は今、どんな絵を描いているんですか?」

「風景画だよ。」

「わぁ…。」

 点描のようなタッチの草原に、実写のように精密に描かれたガラクタの山が整然と描かれている。
 美術館で見るようなアート作品だと思った。

「プロみたい。」

「そんなことないよ。
 こっちの方がプロ級だから。」

 吉田先輩が指し示した横には、童話の世界のような絵があった。
 ふんわりとしたタッチなのに細やかな色使いや大胆な構図が、この絵の中に入ってしまった錯覚になる。

 素人目で見ても、こんな絵が描いてみたいと思う。
 
「ヤバイ! 可愛い‼」

「それはハルトの作品。
 天才だよね。」

 残念イケメンの顏を思い出して、私はなぜか悔しくなった。

「ほめて損した。」

「ハルトのこと、そんな風に言う女子は初めて見たよ。」

「興味ないんで。」

「田中さんて、面白いね。」

 吉田先輩は独特な引き笑いをした。 

「それにしても、さっきはよく頑張ったね。」

 吉田先輩が穏やかな声で切り出した。

「何がですか?」

「準備室で部長に詰められてたでしょ。」

 私は強がって明るい声で答えた。

「大丈夫です。」

「ま、あんまり深く考えなくてもいいと思うよ。
 田中さんは田中さんらしく。
 困ったことがあれば、僕に相談して。」

 私は頭の中の熊先輩のプロフを書き換えることにした。

 モッサい→☓

 優しくて親切→○