次の日、俺は久しぶりにスッキリと冴えた頭で午前中の授業を聞いていた。
「お、白石。今日はなんだか顔に生気があるな」
「先生、分かります?」
「ああ、最近酷かったクマも無いし、心なしか肌ツヤもよく見える気がする。何かいいことでもあったのか?」
ええ、ええ、そうです。ありましたとも。なんと黒瀬は昨日の晩、本当にシャーペンの音に気を使ってくれたのだ。
昨日の夕方、部活を終えた黒瀬は、丸めた地図のような形の透明な物体を持って三〇一号室に帰ってきた。
「購買のおばちゃんに相談したら、これ使ったらいいって教えてくれて」
「何それ?」
「デスクマット」
黒瀬はそう言うと、持って来たデスクマットを自分の机に広げて、元の形に丸まろうとする端っこを押さえて机に馴染ませようとした。
「へぇ、そんなの売ってたの? わざわざお金出して買ってもらっちゃって申し訳ないんだけど……」
「いいよ。なんか書き心地も良くなるみたいだし」
黒瀬は試しにプリントを一枚デスクマットを敷いた机の上に広げると、シャープペンシルでサラサラと試し書きをしてみせた。
「本当だ。音が全然違う」
「文字も書きやすいな」
黒瀬は心なしかホッとしたように小さくため息をついた。
「これで文句無いだろ?」
「うん、十分過ぎるよ!」
「これでもまだうるさいってんなら、耳栓でもしてくれ」
そういうわけで、昨日は正規の勉強時間に宿題を終えることができた俺は、そのままの流れで就寝時間も早めることができたというわけだ。
「先生〜、肌ツヤが良くなるいいことって一体何ですかぁ?」
クラスメイトの誰かが茶化すようにそう言い、教室の中にクスクスという笑い声がさざなみのように広がった。あ、確かに言われてみれば、何だかやらしい意味にも取られそうだ。
(笑われたって結構! 俺は今日めちゃくちゃ元気だからな!)
俺はこっそり教室の端の方の席に座る黒瀬を振り返った。フリなのか本当に寝ているのか、黒瀬は机の上に突っ伏して顔を隠している。教師が雑談をしたり、授業と関係ない話をしている時、黒瀬はたいていこうやって机に顔をうつ伏せに押し付けていることが多かった。
黒瀬、そんなに悪いやつじゃないじゃないか。確かに無愛想で笑ってるところなんて一度も見たことがないけど、話だってちゃんと通じるし、俺が困っているって分かったらすぐに改善してくれた。
(あれかな、やっぱり俺みたいな凡人が相手だから普通に接してくれるのかな?)
チャラ男代表の藤沢はよっぽど嫌われていたのだろうか?
(もしかして好きな子を取られたとか、何か私怨でもあったのかな?)
その日の昼休憩、隣のクラスになった友野が、早速黒瀬が一年生の時の情報を入手してきてくれた。
「隣の席になった女子が教えてくれたんだけどさ、黒瀬って一年の時、クラス中のほとんどの女子からモテモテだったらしいぞ」
中庭のベンチに座って購買で買ったカツサンドを頬張りながら、友野が小声で極秘情報を告げるみたいに俺に額を近づけてきた。
「まぁ、そうだろうね」
あの身長で、あの顔で、あのシックスパックである。モテない方が逆におかしいだろう。
「それでさ、あの矢口さんも去年黒瀬に告ったんだって」
「えっ、あの読モでうちの学年で一番可愛いと言われる矢口さんが?」
「そうそう。同じクラスになってみて、改めてオーラの違いを日々感じてるわ」
「ってことは、黒瀬は矢口さんと付き合ってるってこと?」
俺の自然な問いに、友野は急に声のトーンをぐっと下げた。
「それが付き合ってないみたいなんだ」
「えっ、どういうこと?」
「矢口さんは黒瀬に振られたってことさ」
嘘だろ? 学年一可愛い女子だぞ? 向こうから告られて断る男なんかいるものなのか?
「そんな、もったいない……」
「だがしかし、だ。重要なのはここからだぞ」
「えっ、学年のマドンナがばっさり振られたって衝撃情報より重要なこと?」
友野は神妙な表情で俺に頷いて見せた。
「同じクラスになってみて分かったんだけどさ、矢口さんっていっつも周りに取り巻きがいて、なんていうか、カースト上位の女子高生の典型みたいな感じでさ」
「それは別に想像に難くないけど?」
「そういう人間って色んなパターンがあると思うんだけど、俺が思うに矢口さんはちょっと性格がアレなタイプだな」
アレ、と友野は濁して言ったが、この場合アレに相当するのは基本的に悪い意味だ。
「性格キツイいタイプなんだ」
「そうだな。周りの女子も彼女の顔色を常に伺ってる感じがする」
「そっかぁ、黒瀬はそれが嫌だったのかな?」
「いや、黒瀬に振られるまでは、実は彼女は猫を被っていて、クラスのみんなも彼女はもっと大人しくて優しい人間だと思っていたらしい」
「マジで?」
隠していた素が現れたのか、それとも好きな男に振られて豹変したのか。
「それでさ、黒瀬の評判が悪くなりだしたのって、矢口さんを振った時期とちょうど被るらしいんだ」
俺は思わずバカみたいにポカンと口を開けて友野を見ていた。
「それって……」
「ああ。おそらくだけど、彼女が黒瀬の悪い噂を流したんだと思う」
「本当に矢口さんがそんなことしたのかな? だって好きな相手だったんだろ?」
「さぁ、振られた腹いせかもしれないし、ひょっとすると実はまだ諦めきれなくて、他の女子が近づかないように手を回したのかも」
そのどちらかか、もしくは両方の理由である可能性もあった。
「じゃあ黒瀬が乱暴者だとか、サイコパスだっていう噂は全て捏造されたものだったってこと?」
「全部が全部嘘だとは限らないけど、誇張して吹聴された可能性は十分ありうるな」
噂で聞いていた黒瀬の像と、実際に俺がこの目で見た黒瀬の姿の間には、確かに大きな隔たりがあるように思えた。
(無愛想だし目つきも鋭いけど、勉強も部活も意外と真面目に取り組んでいるし、話もちゃんと聞いてくれるし……)
ゴミ捨て場で言われた言葉を思い返してみる。全くオブラートに包まれていない言葉は確かに厳しかったが、ただただ真実を述べているだけで、意地悪で俺を傷つけようという悪意は全くと言っていいほど感じられなかった。
「そんな、あの黒瀬が実はいじめられてたってこと?」
「いじめられるって言葉が死ぬほど似合わないけどな」
「女子のいじめって女子同士とか、もっと鈍臭い感じの男子に矛先が向けられるものだとばっかり思ってたのに、あんな強面のイケメンが……」
「まあでもいじめる側の人間って、相手がやり返してきそうかどうか結構見てると思うんだよね。自分が傷つけられない相手か判断する狡賢さっていうの? 黒瀬って全然弱そうには見えないから、やられても敢えてやり返さないタイプなのかも」
「え、それって、右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさいってやつ?」
実は非常に目つきの悪い聖人君子だったってこと?
「分からないけど、矢口さんはそれに近いものを黒瀬に感じ取っていたのかもね」
もしかしたらそんな彼に惚れ込んで、愛情が憎しみに変化してしまったのかもしれない。
「お、白石。今日はなんだか顔に生気があるな」
「先生、分かります?」
「ああ、最近酷かったクマも無いし、心なしか肌ツヤもよく見える気がする。何かいいことでもあったのか?」
ええ、ええ、そうです。ありましたとも。なんと黒瀬は昨日の晩、本当にシャーペンの音に気を使ってくれたのだ。
昨日の夕方、部活を終えた黒瀬は、丸めた地図のような形の透明な物体を持って三〇一号室に帰ってきた。
「購買のおばちゃんに相談したら、これ使ったらいいって教えてくれて」
「何それ?」
「デスクマット」
黒瀬はそう言うと、持って来たデスクマットを自分の机に広げて、元の形に丸まろうとする端っこを押さえて机に馴染ませようとした。
「へぇ、そんなの売ってたの? わざわざお金出して買ってもらっちゃって申し訳ないんだけど……」
「いいよ。なんか書き心地も良くなるみたいだし」
黒瀬は試しにプリントを一枚デスクマットを敷いた机の上に広げると、シャープペンシルでサラサラと試し書きをしてみせた。
「本当だ。音が全然違う」
「文字も書きやすいな」
黒瀬は心なしかホッとしたように小さくため息をついた。
「これで文句無いだろ?」
「うん、十分過ぎるよ!」
「これでもまだうるさいってんなら、耳栓でもしてくれ」
そういうわけで、昨日は正規の勉強時間に宿題を終えることができた俺は、そのままの流れで就寝時間も早めることができたというわけだ。
「先生〜、肌ツヤが良くなるいいことって一体何ですかぁ?」
クラスメイトの誰かが茶化すようにそう言い、教室の中にクスクスという笑い声がさざなみのように広がった。あ、確かに言われてみれば、何だかやらしい意味にも取られそうだ。
(笑われたって結構! 俺は今日めちゃくちゃ元気だからな!)
俺はこっそり教室の端の方の席に座る黒瀬を振り返った。フリなのか本当に寝ているのか、黒瀬は机の上に突っ伏して顔を隠している。教師が雑談をしたり、授業と関係ない話をしている時、黒瀬はたいていこうやって机に顔をうつ伏せに押し付けていることが多かった。
黒瀬、そんなに悪いやつじゃないじゃないか。確かに無愛想で笑ってるところなんて一度も見たことがないけど、話だってちゃんと通じるし、俺が困っているって分かったらすぐに改善してくれた。
(あれかな、やっぱり俺みたいな凡人が相手だから普通に接してくれるのかな?)
チャラ男代表の藤沢はよっぽど嫌われていたのだろうか?
(もしかして好きな子を取られたとか、何か私怨でもあったのかな?)
その日の昼休憩、隣のクラスになった友野が、早速黒瀬が一年生の時の情報を入手してきてくれた。
「隣の席になった女子が教えてくれたんだけどさ、黒瀬って一年の時、クラス中のほとんどの女子からモテモテだったらしいぞ」
中庭のベンチに座って購買で買ったカツサンドを頬張りながら、友野が小声で極秘情報を告げるみたいに俺に額を近づけてきた。
「まぁ、そうだろうね」
あの身長で、あの顔で、あのシックスパックである。モテない方が逆におかしいだろう。
「それでさ、あの矢口さんも去年黒瀬に告ったんだって」
「えっ、あの読モでうちの学年で一番可愛いと言われる矢口さんが?」
「そうそう。同じクラスになってみて、改めてオーラの違いを日々感じてるわ」
「ってことは、黒瀬は矢口さんと付き合ってるってこと?」
俺の自然な問いに、友野は急に声のトーンをぐっと下げた。
「それが付き合ってないみたいなんだ」
「えっ、どういうこと?」
「矢口さんは黒瀬に振られたってことさ」
嘘だろ? 学年一可愛い女子だぞ? 向こうから告られて断る男なんかいるものなのか?
「そんな、もったいない……」
「だがしかし、だ。重要なのはここからだぞ」
「えっ、学年のマドンナがばっさり振られたって衝撃情報より重要なこと?」
友野は神妙な表情で俺に頷いて見せた。
「同じクラスになってみて分かったんだけどさ、矢口さんっていっつも周りに取り巻きがいて、なんていうか、カースト上位の女子高生の典型みたいな感じでさ」
「それは別に想像に難くないけど?」
「そういう人間って色んなパターンがあると思うんだけど、俺が思うに矢口さんはちょっと性格がアレなタイプだな」
アレ、と友野は濁して言ったが、この場合アレに相当するのは基本的に悪い意味だ。
「性格キツイいタイプなんだ」
「そうだな。周りの女子も彼女の顔色を常に伺ってる感じがする」
「そっかぁ、黒瀬はそれが嫌だったのかな?」
「いや、黒瀬に振られるまでは、実は彼女は猫を被っていて、クラスのみんなも彼女はもっと大人しくて優しい人間だと思っていたらしい」
「マジで?」
隠していた素が現れたのか、それとも好きな男に振られて豹変したのか。
「それでさ、黒瀬の評判が悪くなりだしたのって、矢口さんを振った時期とちょうど被るらしいんだ」
俺は思わずバカみたいにポカンと口を開けて友野を見ていた。
「それって……」
「ああ。おそらくだけど、彼女が黒瀬の悪い噂を流したんだと思う」
「本当に矢口さんがそんなことしたのかな? だって好きな相手だったんだろ?」
「さぁ、振られた腹いせかもしれないし、ひょっとすると実はまだ諦めきれなくて、他の女子が近づかないように手を回したのかも」
そのどちらかか、もしくは両方の理由である可能性もあった。
「じゃあ黒瀬が乱暴者だとか、サイコパスだっていう噂は全て捏造されたものだったってこと?」
「全部が全部嘘だとは限らないけど、誇張して吹聴された可能性は十分ありうるな」
噂で聞いていた黒瀬の像と、実際に俺がこの目で見た黒瀬の姿の間には、確かに大きな隔たりがあるように思えた。
(無愛想だし目つきも鋭いけど、勉強も部活も意外と真面目に取り組んでいるし、話もちゃんと聞いてくれるし……)
ゴミ捨て場で言われた言葉を思い返してみる。全くオブラートに包まれていない言葉は確かに厳しかったが、ただただ真実を述べているだけで、意地悪で俺を傷つけようという悪意は全くと言っていいほど感じられなかった。
「そんな、あの黒瀬が実はいじめられてたってこと?」
「いじめられるって言葉が死ぬほど似合わないけどな」
「女子のいじめって女子同士とか、もっと鈍臭い感じの男子に矛先が向けられるものだとばっかり思ってたのに、あんな強面のイケメンが……」
「まあでもいじめる側の人間って、相手がやり返してきそうかどうか結構見てると思うんだよね。自分が傷つけられない相手か判断する狡賢さっていうの? 黒瀬って全然弱そうには見えないから、やられても敢えてやり返さないタイプなのかも」
「え、それって、右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさいってやつ?」
実は非常に目つきの悪い聖人君子だったってこと?
「分からないけど、矢口さんはそれに近いものを黒瀬に感じ取っていたのかもね」
もしかしたらそんな彼に惚れ込んで、愛情が憎しみに変化してしまったのかもしれない。


