お尻の部分にでっかく白字で『H』と書かれた、紺色のボクサーパンツ。HEROの頭文字が印刷された、俺のお気に入りのパンツだ。俺は穢れなき純粋な気持ちで購入したのだが、以前同室だった友野にはいかがわしいデザインだと笑われてしまったネタパンツである。
うん、こんなパンツ好き好んで履く人間など、この学生寮には恐らく俺一人ぐらいしかいないだろう。
しかしなぜ干した覚えのない俺の洗濯物が、きちんと物干し竿にぶら下がって風に揺られているのだろうか?
ベッドの足元に置かれた空の洗濯カゴを思い返してみる。俺の部屋に勝手に入れる人間は、俺以外には一人しか存在しなかった。
(まさか、黒瀬のやつが……?)
嬉しい誤算で乾いていた体操服を取り入れて部屋に戻ると、ちょうど黄緑色のカーテンの中から出て来る所だった黒瀬とバッタリ鉢合わせした。
「あ、お、おはよう」
黒瀬は相変わらずキツい目つきで俺を一瞥し、挨拶を返すこともなく勉強机の横の洋服ダンスを漁り始めた。
昨日までの俺なら、黒瀬と会話ができなくてもいつものことだと特に気にせずそのままスルーしていたに違いない。だけど今日ばかりはそういうわけにはいかなかった。
「あのさ、黒瀬君」
無視された後に更に食い下がるというのはなかなか勇気のいることだったが、俺は洋服ダンスと向き合っている黒瀬の背中に向かって思い切って話し続けた。
「あの、もしかしなくてもさ、俺の洗濯物干しておいてくれた?」
彼はまだ返事を返さない。俺は思い切って黒瀬の背後に近づくと、パジャマ代わりの彼のTシャツの裾を掴んでチョイチョイッと引っ張った。
「ありがとう。俺カゴに入れっぱなしで寝ちゃってさ。焦って起きたからすごくホッとしたよ」
黒瀬はようやくランニングウェアを掴んでこちらを振り返った。
(あ……)
彼はいつも通り不機嫌そうな表情をしていたが、浅黒い頬が微かに上気していた。すごく分かりづらい変化だったけど、俺にはすぐに分かった。だってこんなに近くで向き合っているんだから。
ーーもしかして照れてる?
「濡れた物が置きっぱなしになってたら気になるだろ?」
ようやく口をきいてくれた黒瀬に向かって、俺もようやく相好を崩すことができた。
「気になってくれてありがとう」
黒瀬は珍しく……いや、初めてベッド周りのカーテンをシャッと開けると、ベッドの上にランニングウェアを放り投げて、パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ始めた。
「お前さ、なんでいつも遅くまで勉強してるんだ?」
捲し上げたTシャツの下から綺麗に割れた腹筋が覗いている。普段日の元に晒されることのないその部分は、顔や腕などの他の箇所と比べて異常なほど色白に見えた。
「……聞いてるのか?」
「あっ、ごめん、なんだっけ?」
ついうっかり魅入ってしまった。いいなぁ、シックスパック。
「だからいっつも寝るの遅過ぎないか? 宿題するのにそんなに時間かかるか?」
「えっと……」
その時、コンコンと三〇一号室の扉を叩く音がして、四角い覗き窓から友野の目が部屋の中を覗き込んできた。
「白石〜、昨日貸したノートまだ返してもらってないんだけど」
「あっ、ごめん!」
俺は慌てて机に立てかけてあった彼のノートを掴み、扉を開けて部屋の中に入って来ていた友野に手渡した。
「ありがとう。昨日返すつもりだったんだけど、うっかり寝ちゃって」
「しっかりしてくれよ」
その時、友野が俺の背後を見て微かに顔をこわばらせた。
「なぁ、お前こいつの友達なの?」
俺は思わず声の主である後ろの黒瀬を振り返った。まさかこいつ、友野のことを覚えていないのか? 一応去年一年間同じ建物で暮らした仲間なんだけど。
「……そうだよ。去年同じ部屋だったんだ」
なんとなく口調の固い友野に構わず、黒瀬はつかつかと友野の前まで歩いて来た。
「こいついつも遅くまで勉強してるんだけど、去年もそうだったのか?」
(うん、そうだった! いや、そうじゃないんだけど、そうだった事にしてくれ!)
なにせ俺と友野は半年間同じ部屋で過ごしたという固い絆で結ばれている。彼ならきっと俺の心の内を正確に汲み取ってくれるだろう。
「いや、白石はどっちかっていうと早く寝るタイプだったよ」
絆〜!!! 俺たちの絆は一体どこに行った?
「二年生の勉強難しくなってついていけないのか?」
黒瀬は不思議そうに俺を見ながらそう聞いてきたが、俺が口を開く前に友野がさっと俺を庇うように急に前に出た。
「黒瀬君、シャーペンの音がすごくうるさいんだって? 白石それで集中できなくて、わざわざ時間をずらして宿題やってるんだよ」
友野! なぜ俺の秘密をいきなりここでバラしてくれたんだ!?
(どうしよう? クレームつけたって思われて、黒瀬きっと怒って……)
「……俺のシャーペンの音、そんなにうるさかったのか?」
思いの外驚いた様子の黒瀬に、俺と友野は思わず顔を見合わせた。
(……あ、ていうかそもそも攻撃っていうか、わざとじゃなかったんだ……)
「……ごめん。全然気が付かなかった。去年しばらく一人で部屋使ってたから、他人に気を使うの忘れてたっていうか」
気まずげな様子でそう謝られて、俺は慌てて両手を顔の前でブンブンと振ってみせた。
「いや、俺の方こそ、なんか嫌味な感じになってごめん! 黒瀬君とあんまり喋ったことなかったから、なかなか言い出しづらくて。それにシャーペンの音ぐらいでこんなに神経質になる自分も嫌でさ」
黒瀬がまだ何か言おうとした時、ピンポンパンポーン! と朝の点呼を知らせるチャイムが部屋中に響き渡った。
「あっ、点呼始まっちゃう」
俺の言葉に、黒瀬は開けかけた口を閉じると、黙って先に扉から部屋の外へと出て行った。
「はぁ〜、まじでちびるかと思った!」
黒瀬の後から部屋を出ようとした時、友野がそう言いながら安堵のため息を漏らした。
「あ、ありがとう。俺の代わりに言いにくいこと言ってくれて」
「いや、ちょうどいいタイミングだったからさ。俺が言わなきゃ白石絶対自分じゃ言えないと思ったし」
その通り。友野が言ってくれなかったら、自分はきっと半年間ずっと言えずに我慢し続ける羽目になっていただろう。
「しっかし気付かなかったって本当かよ? 実は一人で部屋を使いたくて、白石にストレス与えて追い出すつもりだったんじゃないのか? ほら、藤沢だって同じやり方で追い出されることになったとか……」
「いや、それは違うよ」
自分でも驚くほど反射的に言葉が口から飛び出した。友野がびっくりしたような表情で俺の顔を見つめている。
「白石?」
「黒瀬君、俺が昨日干すの忘れて寝ちゃった洗濯物、代わりに干してくれてたんだ」
「へぇ?」
友野は信じられないと言わんばかりに片方の眉をひょいっと上げた。
「一応罪悪感とか感じてたりするのかな?」
(違う、そんなんじゃないよ……)
先ほど確かに、氷のように冷たい目の端から頬にかけて微かに赤らんでいた。まるで母親に内緒でこっそり畳んでおいた洗濯物が見つかって褒められた時の子供のように。その表情から読み取れたのは純粋な恥ずかしさだけであって、打算や罪悪感などは全くと言っていいほど感じられなかったのだ。それを友野に説明しようとしたが、なんとなく気恥ずかしいような、また自分の心の内にだけそっと留めておきたいような不思議な感覚に見舞われて、俺はそれ以上何も言わずにそっとドアノブに手をかけた。
うん、こんなパンツ好き好んで履く人間など、この学生寮には恐らく俺一人ぐらいしかいないだろう。
しかしなぜ干した覚えのない俺の洗濯物が、きちんと物干し竿にぶら下がって風に揺られているのだろうか?
ベッドの足元に置かれた空の洗濯カゴを思い返してみる。俺の部屋に勝手に入れる人間は、俺以外には一人しか存在しなかった。
(まさか、黒瀬のやつが……?)
嬉しい誤算で乾いていた体操服を取り入れて部屋に戻ると、ちょうど黄緑色のカーテンの中から出て来る所だった黒瀬とバッタリ鉢合わせした。
「あ、お、おはよう」
黒瀬は相変わらずキツい目つきで俺を一瞥し、挨拶を返すこともなく勉強机の横の洋服ダンスを漁り始めた。
昨日までの俺なら、黒瀬と会話ができなくてもいつものことだと特に気にせずそのままスルーしていたに違いない。だけど今日ばかりはそういうわけにはいかなかった。
「あのさ、黒瀬君」
無視された後に更に食い下がるというのはなかなか勇気のいることだったが、俺は洋服ダンスと向き合っている黒瀬の背中に向かって思い切って話し続けた。
「あの、もしかしなくてもさ、俺の洗濯物干しておいてくれた?」
彼はまだ返事を返さない。俺は思い切って黒瀬の背後に近づくと、パジャマ代わりの彼のTシャツの裾を掴んでチョイチョイッと引っ張った。
「ありがとう。俺カゴに入れっぱなしで寝ちゃってさ。焦って起きたからすごくホッとしたよ」
黒瀬はようやくランニングウェアを掴んでこちらを振り返った。
(あ……)
彼はいつも通り不機嫌そうな表情をしていたが、浅黒い頬が微かに上気していた。すごく分かりづらい変化だったけど、俺にはすぐに分かった。だってこんなに近くで向き合っているんだから。
ーーもしかして照れてる?
「濡れた物が置きっぱなしになってたら気になるだろ?」
ようやく口をきいてくれた黒瀬に向かって、俺もようやく相好を崩すことができた。
「気になってくれてありがとう」
黒瀬は珍しく……いや、初めてベッド周りのカーテンをシャッと開けると、ベッドの上にランニングウェアを放り投げて、パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ始めた。
「お前さ、なんでいつも遅くまで勉強してるんだ?」
捲し上げたTシャツの下から綺麗に割れた腹筋が覗いている。普段日の元に晒されることのないその部分は、顔や腕などの他の箇所と比べて異常なほど色白に見えた。
「……聞いてるのか?」
「あっ、ごめん、なんだっけ?」
ついうっかり魅入ってしまった。いいなぁ、シックスパック。
「だからいっつも寝るの遅過ぎないか? 宿題するのにそんなに時間かかるか?」
「えっと……」
その時、コンコンと三〇一号室の扉を叩く音がして、四角い覗き窓から友野の目が部屋の中を覗き込んできた。
「白石〜、昨日貸したノートまだ返してもらってないんだけど」
「あっ、ごめん!」
俺は慌てて机に立てかけてあった彼のノートを掴み、扉を開けて部屋の中に入って来ていた友野に手渡した。
「ありがとう。昨日返すつもりだったんだけど、うっかり寝ちゃって」
「しっかりしてくれよ」
その時、友野が俺の背後を見て微かに顔をこわばらせた。
「なぁ、お前こいつの友達なの?」
俺は思わず声の主である後ろの黒瀬を振り返った。まさかこいつ、友野のことを覚えていないのか? 一応去年一年間同じ建物で暮らした仲間なんだけど。
「……そうだよ。去年同じ部屋だったんだ」
なんとなく口調の固い友野に構わず、黒瀬はつかつかと友野の前まで歩いて来た。
「こいついつも遅くまで勉強してるんだけど、去年もそうだったのか?」
(うん、そうだった! いや、そうじゃないんだけど、そうだった事にしてくれ!)
なにせ俺と友野は半年間同じ部屋で過ごしたという固い絆で結ばれている。彼ならきっと俺の心の内を正確に汲み取ってくれるだろう。
「いや、白石はどっちかっていうと早く寝るタイプだったよ」
絆〜!!! 俺たちの絆は一体どこに行った?
「二年生の勉強難しくなってついていけないのか?」
黒瀬は不思議そうに俺を見ながらそう聞いてきたが、俺が口を開く前に友野がさっと俺を庇うように急に前に出た。
「黒瀬君、シャーペンの音がすごくうるさいんだって? 白石それで集中できなくて、わざわざ時間をずらして宿題やってるんだよ」
友野! なぜ俺の秘密をいきなりここでバラしてくれたんだ!?
(どうしよう? クレームつけたって思われて、黒瀬きっと怒って……)
「……俺のシャーペンの音、そんなにうるさかったのか?」
思いの外驚いた様子の黒瀬に、俺と友野は思わず顔を見合わせた。
(……あ、ていうかそもそも攻撃っていうか、わざとじゃなかったんだ……)
「……ごめん。全然気が付かなかった。去年しばらく一人で部屋使ってたから、他人に気を使うの忘れてたっていうか」
気まずげな様子でそう謝られて、俺は慌てて両手を顔の前でブンブンと振ってみせた。
「いや、俺の方こそ、なんか嫌味な感じになってごめん! 黒瀬君とあんまり喋ったことなかったから、なかなか言い出しづらくて。それにシャーペンの音ぐらいでこんなに神経質になる自分も嫌でさ」
黒瀬がまだ何か言おうとした時、ピンポンパンポーン! と朝の点呼を知らせるチャイムが部屋中に響き渡った。
「あっ、点呼始まっちゃう」
俺の言葉に、黒瀬は開けかけた口を閉じると、黙って先に扉から部屋の外へと出て行った。
「はぁ〜、まじでちびるかと思った!」
黒瀬の後から部屋を出ようとした時、友野がそう言いながら安堵のため息を漏らした。
「あ、ありがとう。俺の代わりに言いにくいこと言ってくれて」
「いや、ちょうどいいタイミングだったからさ。俺が言わなきゃ白石絶対自分じゃ言えないと思ったし」
その通り。友野が言ってくれなかったら、自分はきっと半年間ずっと言えずに我慢し続ける羽目になっていただろう。
「しっかし気付かなかったって本当かよ? 実は一人で部屋を使いたくて、白石にストレス与えて追い出すつもりだったんじゃないのか? ほら、藤沢だって同じやり方で追い出されることになったとか……」
「いや、それは違うよ」
自分でも驚くほど反射的に言葉が口から飛び出した。友野がびっくりしたような表情で俺の顔を見つめている。
「白石?」
「黒瀬君、俺が昨日干すの忘れて寝ちゃった洗濯物、代わりに干してくれてたんだ」
「へぇ?」
友野は信じられないと言わんばかりに片方の眉をひょいっと上げた。
「一応罪悪感とか感じてたりするのかな?」
(違う、そんなんじゃないよ……)
先ほど確かに、氷のように冷たい目の端から頬にかけて微かに赤らんでいた。まるで母親に内緒でこっそり畳んでおいた洗濯物が見つかって褒められた時の子供のように。その表情から読み取れたのは純粋な恥ずかしさだけであって、打算や罪悪感などは全くと言っていいほど感じられなかったのだ。それを友野に説明しようとしたが、なんとなく気恥ずかしいような、また自分の心の内にだけそっと留めておきたいような不思議な感覚に見舞われて、俺はそれ以上何も言わずにそっとドアノブに手をかけた。


