受験戦争とはよく言ったもので、受験とはマジで戦争である。限られた定員という枠の中に滑り込むため、受験生たちはこの場合において敵となり得る他の受験生たちより少しでも抜きん出ようと、日々勉学に勤しむことになる。敵と正面から撃ち合う戦争とは違って、本来受験では敵を攻撃する手段は存在しない。ただし、それは物理攻撃に限った話であった。

 カッカッカッカ! とまるで木の勉強机を穿つように響き渡るシャープペンシルの筆音に、目の前の国語の文章問題が全く頭に入ってこない。進学塾に通っていた友人に以前聞いたことがある。一人でも他の受験生を蹴落とすために、試験中はなるべく回答を書く際には筆記用具で大きな音を立てて周りの人間にプレッシャーを与えるのだと。その話を聞いた時は、ふ〜ん、それが何の脅威になるってんだ? ぐらいにしか思わなかったのだが、ところがどうして、二人きりの静かな相部屋内でこれをやられた暁には、結構なダメージを食らうことが判明した。控えめに言って立派な精神攻撃だ。普通に音がうるさくて集中できないだけではなく、筆音というのは他の騒音とは違ったプレッシャーを与えてくるのだ。え? あの人あんなにカリカリ書いてるけど、そんなに先に進んでるの? 俺まだ問一で止まってるんだけど? 早く回答を進めなきゃ、どんどん遅れるしあいつに負けるし受験に落ちる! ……確かに焦りと自信喪失を引き起こし、普段なら決してしないような凡ミスを誘発しそうだ。

「おはよう。あれ、白石どうしたの? なんか目の下にクマできてるけど」
「ちょっと友野聞いてくれよぉ」
 次の日、さっそく俺は寮での朝食時に友野に泣きついた。
「黒瀬のやつ、シャーペンで攻撃してくるんだけど」
「えっ、マジで? どこか刺された?」
「いや、物理的にじゃなくて、精神的に」
 俺がシャープペンシルの筆音攻撃について説明すると、友野は呆れたように肩をすくめた。
「そんなの一言黒瀬に言えばいい話だろ? もうちょっと静かにしてもらえませんかって」
「あいつにクレーム付けろって言うのか? そんなのできるわけないだろ!」
「いや、クレームとかじゃなくて、単にお願いするだけなんだけど」
「無理だよ。そもそも俺は黒瀬とは会話せずに半年間を乗り切ろうと決めたばかりだってのに」
「一体何の話?」
 さらに昨日の小宮との会話を説明する。
「ずっと同室の人間と会話せずに過ごすつもりか? それは流石に無理だろ」
「黒瀬と平穏に過ごすためにはやるしかないんだよ」
「じゃあ耳栓使ったら? それなら音による攻撃を防げるんじゃないか?」
「ダメダメ! うるさいですって暗にアピールすることになるじゃないか! バレたら黒瀬の機嫌を損ねかねないよ」
 友野はうんざりしたような表情でソーセージをパリッと噛んだ。
「俺にはこれ以上の案は浮かばないよ」
「いいんだ。最初から解決策なんか無かったんだから。話を聞いて欲しかっただけなんだ」
「カウンセリング料もらおうかな」
「そこは元同室のよしみでサービスしといてくれよ」
 朝食を済ませた後、友野と別れて三〇一号室に戻ると、相変わらず黒瀬のベッド周りのカーテンは閉められたままであった。いや、この感じはあれだな。黒瀬は既にここにはいなくて、ただカーテンが閉まっているだけだな。その証拠に勉強机の横に置いてあるはずの黒瀬の通学カバンが見当たらない。彼は既に登校した後のようであった。
 俺はカーテンの開けっぱなしになっている自分のベッドをチラッと見てため息をつくと、紺色の通学カバンを担いで部屋を出た。
 寮の正面玄関から外に出ようとした時、三人の寮生が玄関先でたむろしているのが目に入った。
「じゃあゴミ捨て頼んだわ」
「ちょっといつも僕ばっかり……」
「俺ら朝練あるんだって。小宮が入ってるのって漫画研究会だろ? 運動部と違って朝練ないんだしさ」
 寮の朝のゴミ出し当番は、それぞれの部屋に住む生徒が持ち回りで行っている。まぁどこの世界にもこうやって自分に当てがわれた仕事を他人に押し付けようとする輩は存在するものなのだ。
「あっ、白石君!」
 ゴミ捨てを押し付けられそうになっていた小宮は、俺の姿を見つけるとパタパタとこちらに駆け寄ってきた。
「野球部の奴らがまたゴミ出しやってくれって言ってくるんだけど」
 俺はスタスタと小宮に詰め寄っていた二人のユニフォーム姿の寮生の前まで歩いて行った。
「たまにはちゃんと当番やってくれよ」
「小宮にも話してたんだけど、俺ら朝練あるんだって。暇な奴がやってくれたらいいだろ? ほら、俺たちレギュラーかかってるしさ」
 そんなの俺と小宮の知ったことではない。そもそもそれならもっと早く準備して出てくればいいものを、一体何を部屋でぐずぐずとやっていたのか。
 だがうちの学校では、野球部員というだけでカーストの上位層に属することになり、それだけで発言力がグッと増す。部員数も多く上下の結束も固いため、下手に怒らせると上級生が乗り出してくる恐れもあった。
 仕方ない。いつも通り俺が引き受けてやるしかないか。
「分かったよ。今日は俺と小宮でやっておくから、次こそは頼んだぞ」
「悪いな。それじゃよろしく!」
 二人の野球部員は調子のいい笑顔を浮かべると、道具の入ったカバンを担いでさーっと走って行ってしまった。
「……白石君、僕ね」
「ん?」
「実は国語の宿題やるの忘れてて……」
 小宮、お前もか!
 みんな俺のことをバカだと思うだろうが、しかし俺はにっこりと笑顔を作って小宮の背中を押してやった。
「いいよ、俺一人でやっとくから、早く学校行って宿題済ませろよ」
「うん、ありがとう!」
 小宮は曇っていた表情をようやく晴らすと、一目散に学校の玄関に向かって駆けて行った。
(まあ、これも今に始まったことではないし。こうなることは大体想像ついてたけど)
 しかし本来相部屋の二人でやるべき作業だ。俺一人でするとなると何回か往復しなければならない。三〇一号室の当番はまだ先になるが、きっと黒瀬もやらないだろうからその時も俺一人でやる羽目になりそうである。トホホ。
 寮のゴミ捨て場は学校のグラウンドに面した場所にあり、ここに来るたびに改めて自分達の住んでいる場所が学校の敷地内にあることを痛感させられる。担いで来たゴミ袋を緑色のフェンスの中にドサッと放り込んで顔を上げると、重苦しい春の曇天の下で朝練に勤しむ高校生たちの姿がちらほらと目に入った。ていうか既にどこの部活の朝練も終盤に入っているように見えるけど、さっきの二人大丈夫なのか?
「……い、おい、白石!」
 少しぼんやりとしていたところに突然強い口調で怒鳴られて、俺は思わずその場でビクッと飛び上がりそうになった。
「えっ、な、なに? 俺?」
「お前何やってんだよ?」