洗濯物のポケットに紙類! 真夏の怪談バリに怖い話である。
「うっっっっそでしょ!?」
「昨日お前洗濯機回したまま寝てたからさ。一応声掛けたんだけど、ぐっすり眠ってるみたいだったから、一応俺見に行ったんだけど……」
またしても同じ失敗を繰り返している。本当に学習しないポンコツ野郎だ。
「ご、ごめん。またしても同じ迷惑を……」
「いや、俺次に洗濯機回すつもりだったからついでに見に行っただけなんだけど、ちょっと服が紙くずだらけに……」
「や、俺の服はいいよ。それより次に使った黒瀬君が大変だったでしょ。洗濯機の中ひどい事になってたんじゃ……」
そこで俺はまたしても足元の洗濯籠が空っぽであることに気が付いた。
「え、嘘。もしかしてまた俺の分も干してくれた?」
「一応紙くずははたいておいたけど、まだくっついたままのやつもあるかも」
「ありがとう! ごめんね」
黒瀬は自分の机の上に置いてあった小さなビニール袋を取り上げると、それをそのまま俺に向かって差し出してきた。
「これ、ズボンのポケットに入ってた分サルベージしておいたんだけど、大事なものじゃなかった?」
ズボンと一緒に洗濯されてくずくずになった紙片を見た瞬間、俺の顔からさぁっと血の気が引いて行った。
(あ、あれは……!)
黒瀬と同室になれるようにと願いを込めた、俺のさくらんぼのおまじないじゃないか!
(なんっっっっっっってこった!)
よりにもよって恋のおまじないをかけた紙片を洗濯機にかけ、それを当の本人に見つかってしまうなんて!
「……黒瀬君、これ、見た?」
「いや、ほとんど溶けて文字は読めなかった。レシートかなんかか?」
よ、よかったぁ~。女子の名前ならともかく、さくらんぼに自分と別の男の名前が書いてあるなんて、普通気持ち悪いに決まっている。しかもこのご時世、簡単にインターネットで調べればそこに込められている意味も分かってしまう。
「ま、まあ、そんな感じ」
「……なら良かった」
黒瀬はそう言って俺にビニール袋を手渡すと、もう一度ベッドに戻ってカーテンを閉めてしまった。俺は念のためビニール袋を開けて中身を確認した。黒瀬の言う通り、元々ノートの端っこだった紙片は一度濡れて溶けて再び乾いた状態で、ポケットに残っていたという部分もほとんどがくずくずの破片になっていた。確かにこれなら、元の紙がノートだったのかレシートだったのか判別することすら難しいだろう。
(全く、柄にもないことをするもんじゃないな)
黒瀬と同室になれなかっただけではなく、秘めた思いまで危うくこのさくらんぼにバラされるところであった。
(……いや、そもそもぼんやりしてポケットから出し忘れたり、洗濯物を干さずに寝ちゃった俺が悪いんだけどね)
洗濯機で回された挙句に八つ当たりまでされた哀れなさくらんぼに心の中で懺悔しつつ、俺は用無しになったそれをポイっとゴミ箱に放り込んだ。
それからの一週間は本当にあっという間に過ぎてしまった。黒瀬は相変わらず部活に勉強に忙しそうで、生活リズムの違う俺たちはなかなかゆっくりと話をする機会がなく、部屋替え当日の土曜日になってようやく顔を合わせて話すまとまった時間を得ることができた。
「荷物もうまとまった?」
「ああ、俺ほとんど持ち物って無いから」
そういえば、半年前も黒瀬は段ボール箱一つだけでこの三〇一号室を訪れたんだった。
「黒瀬君は何号室なんだっけ?」
「二〇二号室」
ああ、階まで大分離れてしまった。
「なんだか寂しくなるなぁ」
「クラス一緒なんだから毎日会うだろ」
それは確かにそうだ。そもそも同じ屋根の下に住んでいることには変わりないのだから、部屋が離れたところで普通の通学生よりはよっぽど関わる機会は多いのだ。
(……でも)
やっぱり寂しい。相部屋の人間というのは本当に特別な存在だ。同じ空間で寝起きする人間なんて、普通は家族しかいない。親とも兄弟とも違うけど、家族のような生活を共にする、いわば戦友のような存在だ。しかもそれが好きな人なのである。一つ屋根の下にいるとはいえ、別の部屋ではマンションで違う部屋に住んでいる他人と大差のない関係になってしまうじゃないか。
「……これ」
「え?」
黒瀬が不意にチャリッと音を立てながら何かを俺に差し出してきた。手のひらに落ちたそれは銀色の鎖の先端に丸くて赤い石のはめ込まれた小さなキーホルダーで、黒瀬の手に握られていたせいで人肌に温まっていた。
「半年間迷惑かけたから、その、お詫び?」
「ええっ? そんな、いいのに。むしろ俺の方がたくさん迷惑かけたと思うんだけど」
「いや、お前ペンの音とかで困ってたし」
「そんな……」
俺はおずおずと渡されたキーホルダーに視線を落とした。ガラスでできた赤い石は窓から差し込む太陽の光を受けてキラキラと光り、まるで本物の宝石のように輝いて見えた。
黒瀬と同室だったことを証明する、たった一つの贈り物。
「あ、ありがとう。大事に……」
不意にぽろりと目から雫が零れ落ちて、俺は慌てて黒瀬にさっと背を向けて自分のベッドにかがみこんだ。
この半年間、本当に俺はどうかしている。高校一年の時、いや、中学の時ですら、人前で泣いた記憶など一切無い。高校二年生になってまだ半年しか経っていないというのに、俺は既に人前で二回も涙を流している。
それもみんな黒瀬のせいだ。こいつと同室になってから、俺の情緒はジェットコースター並みに激しく上下に乱されまくりだ。
「白石?」
「ごめん、なんかちょっと感傷的になってるみたい」
「お前部屋替えのたびにそんな感じなのか?」
そんなわけないだろ。黒瀬と別れるのが寂しいから涙が出るんじゃないか。友野と別れるときなんか、「じゃ~また食堂で!」みたいな軽いノリでさっさと出て行ったわ!
「……そうだよ」
もちろんそんなこと言えるわけない。
「半年間一緒に過ごしたらもう家族みたいなもんだろ。友野と別れる時も寂しかったよ」
ズズッと鼻をすすって顔を上げた、その時だった。
不意にシャッとカーテンが閉まる音がして、俺の周囲が急に薄暗くなった。いつの間にか俺の背後に黒瀬が立っていて、自分の背後で俺のベッド周りのカーテンを閉めたのだ。
俺が驚いて振り返ると、狭い空間の中に二人だけで閉じ込められた黒瀬と正面から向き合う形になった。
「俺だけが特別じゃないのか?」
……え? 今なんて?
「お前は俺と部屋が分かれるのが寂しいんじゃなくて、一緒に半年過ごした人間と離れるのが悲しいだけなのか?」
「え、ええっ?」
どうして黒瀬はそんなことが気になるんだ? ていうか、何なんだこの雰囲気は? まるで相手なんか誰でもよかったんでしょ! と彼女に詰められている手の早い男みたいじゃないか。
「お、俺は……」
「俺はお前と離れるの、寂しいと思ってるよ」
なんっっっっって男前なんだ! まっすぐな瞳で相手を見つめながら、こんな恥ずかしいセリフを淀みなく口にする。普段不愛想で口数だって多くないのに、どうしてこうやって決めるところは決めてくるんだろう?
「それは誰でもってわけじゃなくて、お前が俺にとって特別な人間だからであって。それはお前も同じだと思っていたんだけど……」
「え? そ、それはどうして?」
どうして俺にとって、黒瀬が特別な人間だって分かったんだ?
黒瀬は机の引き出しを開けると、小さなビニール袋を取り出した。
「これ」
一度濡れたものを再び乾かしたようなしわだらけの紙に、何やら漢字が書かれている。インクが滲んで読みづらかったが、辛うじて「白」「黒」という文字が消えずに残っているのがうかがえた。
「お前、俺とお前の名前を書いた紙、ポケットに入れてただろ」
「……え?」
うわああああああああああ!!!
「ええええ〜!? だ、だってそれ、ほとんど溶けて文字は読めなかったって……」
「ごめん、あれ嘘」
嘘だって? なんてこった! こんなに簡単に騙される俺も俺だが!
「なんかよく分からなかったけど、これって俺と同室にして下さいって、寮監に嘆願書か何か提出しようとしたんじゃないかと思ってさ」
違う。これはそんな公的な文書ではない。しかしさくらんぼのおまじないだとバレる方が何倍も恥ずかしい!
「そ、そうだな〜、確かにそんな感じの嘆願書書いたかも」
そうだ、これは黒瀬との同室を希望する嘆願書だ。但し提出先は寮監ではなく、さくらんぼのキューピットだが。
「友野に聞いたんだが、友野と離れる時はこんな嘆願書は出してないって……」
「ああ、そうだよ! こんなの書いたの、今回が初めてだよ!」
もはややけっぱちである。俺は寂しさと恥ずかしさのせいで半泣きになりながら、相手の胸ぐらを掴む勢いで目の前に立つ黒瀬に詰め寄った。
「黒瀬君と離れるのが寂しくて、また同室になりたかったんだよ! でもダメだった」
「どうしてそんなに寂しがるんだ?」
「寂しいから寂しいんだよ! 寂しいに理由をつける必要なんかある?」
「俺はあるよ、寂しい理由」
一人で興奮して騒いでいる俺の目の前で、黒瀬は全く動揺する素振りを見せることなくこの言葉を口にした。
「好きだから」
「……え?」
「俺は白石のことが好きだから、離れて別々の部屋になるのは寂しいと思ってる」
え……え? 今何て?
「あ、あれ? 聞き間違いかな? なんか黒瀬が俺のこと好きって言ったように聞こえたんだけど……」
「言ったよ。てか心の声全部口から漏れてるぞ。俺のこといつもは君付けしてるくせに」
(しまったあああああ!)
慌ててさっと無意味に両手で口を押さえた後、ちらっと上目遣いに黒瀬を見た俺はハッとした。
浅黒い黒瀬の頬が、心なしか上気して赤く染まっているように見える。
「あれ、黒瀬君赤くなってない?」
「当たり前だろ! 普通この状況で聞くか?」
好きだ、と言う瞬間はいつも通りの表情だったくせに、今は羞恥心が遅れて押し寄せてきたみたいに黒瀬は恥じらうような表情を見せていた。
(あ、なんか可愛い)
「お、俺は、お前がお人好しだから、俺に対しても親切なのかとずっと思ってて。でもこの紙を見つけた時、もしかしたらお前も俺と同じ気持ちなんじゃないかって思って。それで最後だし、部屋離れる前に伝えておきたいと思ったんだ」
とうとう羞恥に耐えられなくなったのか、黒瀬は俺にぱっと背を向けた。
「でも俺の勘違いなんだったら忘れて。どうせ今日から別々の部屋だし……」
そのままカーテンの外に出て行こうとした黒瀬に、俺は慌てて背後から手を伸ばしてぎゅっと抱きついた。
「待って! 勘違いじゃない!」
「……!」
俺は卑怯者だ。黒瀬は正面から俺と向き合って、ちゃんと俺の目を見て自分の思いを伝えてくれたのに、俺は恥ずかしくて顔も見られず、後ろから告白する形になっている。こんな所にも正統派ヒーローとご近所ヒーローの資質の差が顕著に表れているみたいだ。
でも、今はそんなことどうでも良かった。今はただ、俺の想いを黒瀬に伝えたいということだけで頭が一杯だった。
「黒瀬君のことが好きだ。最初はただの憧れだと思ってたけど、でもそれだけじゃないって気が付いた。黒瀬君は俺にとって、他の誰とも違う特別な存在で、黒瀬君にとっても俺がそういう存在であって欲しいとずっと思ってた」
抱きしめている背中から、黒瀬の熱が俺の胸にじわじわと伝わってくる。うなじにそっと顔を近づけると、黒瀬の体が緊張したようにびくっと震えた。
「……お前さ、同性愛者なの?」
「俺?」
う~ん、と俺はしばし考え込んだ。
「たぶん違うと思う」
「だったら……」
「でもそういう意味で、黒瀬君に惹かれてる」
俺の熱に気づいたのか、黒瀬が再びピクリと体を反応させた。
「……だったら、今ここで証明してみせろよ」
「えっ、今?」
体の熱がどんどん上がっていく。今って、本当にいいのかな? 確かに環境はバッチリ整ってはいるけれども。
「お、俺、実は初めてなんだけど……」
「俺もだよ」
黒瀬は覚悟を決めたかのように再びくるりと俺に向き直った。俺よりだいぶ高身長なのに、どうしてこんなに可愛く見えるんだろうか?
「でもやり方は知ってる」
「白石君お願い! 僕の引いたクジと交換してくれない?」
ああ、やってるやってる。早速堂々と不正行為。
俺は食堂の隅でスマホをいじるフリをしながら、小さくため息をついた。
高校一年生の時点で、俺の周囲からの評判は地に落ちたも同然だった。そこまで悪いことをしたつもりはなかったんだが。どうも怒らせてはいけない人間を怒らせてしまったらしい。おまけに生まれつき無表情で近寄りがたい雰囲気を醸し出しているせいで、自ら悪評に説得力を持たせてしまっていた。
(まあ今更だし、別にどうだっていいんだけど)
とはいえ俺も一応は心を持った人間であって、あからさまな嫌悪を陰で向けられていると分かると当然ストレスを感じてしまう。誰だっけあいつ。確か小宮とかいうやつだったか? 俺と同室になるのが嫌なのは分かるけど、せめてそういうのは本人に分からないように隠れて交渉する気遣いを見せてくれよ。ていうか頼まれているやつだって俺と同室なんて嫌に決まってるだろ? 一体どうするつもりなんだ?
「ありがとう! 一生恩に着るよ!」
(あいつは確か……)
白石望。嫌な顔一つせず、笑顔で小宮とクジを交換してやっていた。いったいどんな交渉をしたんだろう?
(金かな? それともなんかの当番を引き受けてもらったとか?)
何にせよ、悪名高い俺と同室にされてしまって、哀れなやつだ。
「あ、もう終わったんだ。早いね。俺なんかまだ……」
白石は気を遣っているのか、引っ越ししてすぐに他愛のない世間話を振ってきていたが、俺はそれには答えずシャッとカーテンを閉めて彼との間にさっそく壁を作った。
部屋が一緒だからといって、別に仲良くする必要なんかない。お互い干渉せず、居ないものとして生活すれば、日々は問題なく過ぎて行くはずなのである。
実家ほどではないが、まあまあな田舎にあるうちの高校の寮の裏手は山になっていて、朝のグラウンドはそこの木々の吐き出した空気が風に乗って運ばれてきてすがすがしい気分になる。朝早く起きるのは正直しんどいが、軽く汗を流せば気だるい眠気もすぐに吹き飛ぶ。こんな花曇りの朝でも、走れば気分は爽快である。
「白石ってマジでアホだよな~」
トラックの端で休憩しているとき、不意に自分と関わりのありそうな人間の名前が聞こえてきて、俺は思わず声のした方を振り返った。朝練はとっくに始まっているというのに、遅れてやってきた野球部員が二人、野球部の集団に加わろうと歩いてくるところだった。
(こんな時間にやってきて怒られないところを見ると、補欠ですらない下っ端ってとこか)
「小宮なんて助けてやったって、絶対恩義とか感じないタイプなのにな」
「まあ小動物っぽいし、昔から可愛がられて育ったんだろ。やってもらって当たり前みたいなとこあるよな」
「ていうかそもそもゴミ捨て小宮に押し付けようとしたのお前だろ?」
「去年いた野球部の他の先輩もあんな感じで、暇そうなやつに寮の当番押し付けてたんだ。伝統みたいなもんだよ」
くだらない。お前ら絶対俺にはそんなこと頼まないだろ。自分より弱そうな人間に仕事を押し付けて、恥ずかしくはないんだろうか?
「まあでも白石がいてくれて助かったよ。あれ以上小宮がごねたら面倒くさいことになってたし」
「ああいうアホにも使い道はあるってことだよな」
どうやら俺と同室の白石は、また小宮の面倒ごとを引き受けてやったらしい。
(別に俺には関係ないことだけど……)
寮のゴミ捨て場はグラウンドの端とフェンス一枚で隔てられた場所にあり、気を付けて見ているとやがて見覚えのある姿がゴミ捨て場をうろつき始めた。
(……小動物がいない。白石一人か?)
まさか、小宮のやつ助けてもらったにもかかわらず、白石一人にゴミ捨てを押し付けて自分はさっさとトンズラしたってのか?
「おい、おい、白石!」
同室のやつと話をするつもりなんてなかったのに、思わず声をかけてしまった。
「……代わってあげたんじゃなくて、俺が引き受けたんだ」
やっぱりゴミ捨て一人で押し付けられてる。どうしてそこまであいつの面倒ごとを引き受けてやるんだ? ひょっとしてあいつのことが好きなのか?
「別に人に好かれたくてやってるわけじゃないよ。感謝くらいはして欲しいけど。俺はただ、ヒーローになりたかっただけで……」
ヒーローってなんだ? 急に何を言い出すんだこいつは。
「こ、子供の頃、戦隊モノのヒーローになるのが夢だったんだ。だけど割と早い段階でヒーローレンジャーにはなれないことに気がついたんだ」
ヒーローレンジャーか。確かに俺もそんなのに憧れた時代があった。もっとも年齢が一桁の時代だけどな。
とりあえず白石は中二病を患っている、他人に感謝されたい欲の強いイタイ男子高校生だということが良く分かった。見た目そんな感じじゃないのに、キモい男だったんだな。俺は思ったことをそのまま告げて、くるりと白石に背を向けた。
まあでも、他人に仕事を平気で押し付ける連中や、俺みたいに他人に無関心なやつに比べたら、自分が満足したいだけの理由で相手に何も求めずに人助けを行う、あいつの方がよっぽど優しい人間だけどな。
白石は夜遅くまで勉強していることが多い。しかしクラスでの様子を見ている限り、そこまで勉強が得意であるようには見えない。単に要領が悪いのろまなのだろうか?
その日珍しく白石が早くベッドに入っていたので、気になってちらりと後ろを振り返った時、俺は見てはいけないものを目にしてしまった。
(あ、こいつ、洗濯籠そのままにして眠ってやがる!)
これは、朝起きた時に絶望するやつじゃないか。
こいつに親切にしてやる義理など全くない。でも、洗濯籠に積み上げられた濡れた衣服たちがまるでこちらをじーっと見ているような気がして気になってしょうがない。「見~た~な~」とでも呪いの言葉をかけられているかのようだ。
『見たのに、気づいたのに、放っておくのか~?』
(ああもう、分かったって!)
別に白石に親切にするのが目的じゃない。洗濯物の無言の圧に耐えきれなかっただけだ!
「ありがとう。俺カゴに入れっぱなしで寝ちゃってさ。焦って起きたからすごくホッとしたよ」
このやりとりをするのが嫌だったんだ。別に俺はいい人でも何でもないのに、こうやって感謝される感じがすごくむず痒くて、いたたまれない。
「黒瀬君、シャーペンの音がすごくうるさいんだって? 白石それで集中できなくて、わざわざ時間をずらして宿題やってるんだよ」
白石の元同室だという友野に言われてはっとした。マジで? 俺のシャーペンの音、そんなにうるさかったのか? 俺自身があんまり音に敏感じゃないから、他人がペンの音を気にすることがあるなんて全く気が付かなかった。一年の前半同室だったやつは大丈夫だったんだろうか? 藤沢はすぐにいなくなったから関係ないけど。
(ていうかうるさいならうるさいって言えよ!)
いや、言えなかったのか。相手が俺だから。
(いやでもあいつ、俺意外の人間から言われたことでもなんでも断らずに引き受けてるし……)
嫌なことは嫌だとはっきり言えばいいのに。ていうか言え! 例え俺意外の人間が相手だったとしても。
何なんだ、この腹が立つような、モヤモヤとした感情は?
「……野球部の二人に唐揚げパン買ってくるよう頼まれちゃってさ、白石君ついでに買ってきてくれない?」
この手の人間というのはどうも際限なくつけあがっていくようだ。野球部の二人しかり、この小動物の小宮もしかり。
「俺今から購買行ってくるけど、手持ちが足りないから先にお金渡しておいてくれない?」
「そうなん? じゃあ小宮が持ってるって言ってたから、小宮に借りてってよ。俺たち今日五千円札しか持ってなくてさ」
そしてこの白石のお人好しも、とどまることを知らないらしい。全く、お前は常に誰かのヒーロー気取りでいたいらしいが、お前が困っている時にお前を助けてくれるヒーローは一体どこにいるっていうんだ?
「俺も今から購買行くから、ついでに買ってきてやるよ」
気付いたら体が勝手に動いていた。クラスのやつらとなんか、しかも軽蔑にしか値しないような人間となんか、絶対に関わり合いになるつもりなんかなかったのに。
「白石の昼飯買いに行くついでだから、お前らのお使いも一緒にまとめてしてきてやるよ」
くそみたいな底辺の連中に、わざわざ俺から声をかけてしまった。案の定野球部の二人はこそこそと逃げるように自分たちで昼飯を調達しに行ったようだ。期待通りの反応だったが、胸糞が悪いことに変わりはない。でもなんだか白石がほっとしたような表情をしている気がしたから、俺はそれで充分満足だった。
なるほど、白石がヒーローになりたがる気持ちが少しだけ分かった気がする。相手のほっとしたような顔を見るのは悪い気分じゃない。まあ俺の場合は、不特定多数の人間が相手ってわけじゃない気がするけど。
パアンッ! と音がした瞬間、白石がゴミ捨て場の地面にどさりと倒れこんだ。助け起こさなければ、と思ったが、全身がかっと熱くなるような怒りが沸いて、気が付いた時には腕を藤沢に向かって振り上げた状態で白石に後ろから羽交い絞めにされていた。
「左頬を張られたら、右頬も差し出しなさい!」
こいつ、またなんかやばい事口走ってないか?
「暴力はダメだよ」
先に頬を張られたのはお前なんだぞ。しかもお前は何の関係も無いのに。
それでも白石が本気で望んでいないと分かっていたから、俺はゆっくりと白石に引っ張られるがままに振り上げていた腕を下ろした。
白石の頬が腫れている。しかもどんどん熱が上がるように赤みが増して、痛々しい事この上ない。
(俺のせいで……)
みっともなかったけど、声が震えるのを押さえられなかった。なんでお前はそんなにもお人好しなんだ? ヒーローになりたいからって、そこまで体を張る必要なんかあるのか? ていうか別に俺のために体を張らなくたって、お前の自尊心を満たしてくれる対象なんて他にいくらでもいるじゃないか。頼むから俺のために傷ついたり、不利益を被るような真似はしないでくれ。
頼むから、俺の情緒をこれ以上掻き乱すような真似をするのはやめてくれ。
白石が俺の忠告を素直に聞くはずなんかないって分かっていたけど、それでも俺の怒りがおさまることはなかった。
(今回ばっかりはあまりにも酷い!)
何なんだ? 自分で漫才がやりたいって立候補したんだろ? それなのに直前になって緊張したのか何だか知らないけど、その尻拭いをお人好しにさせるなんて、一体どういう了見だ?
(それを二つ返事で快諾する白石も白石だ! お人好しを通り越して、もはや救いようのない間抜けだとしか思えない!)
文化祭に参加するつもりなど塵ほども無かったのだが、白石のことが気になって仕方がなかった俺は、柄にもなく派手に飾り付けられた入り口をくぐって、学生たちが青春の一ページを満喫している空間に足を踏み入れることとなった。
案の定、白石のステージは悲惨なことになっていた。当たり前だ。当日いきなり原稿を渡されて、数行のやり取りができただけでも十分褒めるに値することだと思う。
(だから言わんこっちゃない……)
セリフの出てこなくなった白石は、キラキラの衣装を身につけたまま、汗をダラダラと流しながらステージの上で棒立ちになっていた。うん、間抜け以外の何物でもない。
でもなんだろう。必死にステージを繋ごうと隣で何かまくし立てている相方を完全に無視して、一人魂が抜けたように放心状態で突っ立っている様は、背負っている哀愁が妙にシュールで、俺は腹をくすぐられるようにジワジワと笑いが込み上げてくるのを感じていた。
(……ぶっ!)
誰も笑っていないこの空間で、俺だけ笑っているのは明らかにおかしい。でも、笑ってはいけないと考えれば考えるほど笑いとは制御が難しくなるもので、俺は堪えきれずに肩を小刻みに震わせ始めた。
(あっ……)
目の前にいたカップルが出て行ったタイミングで、信じられないという表情をした白石と目が合った。そりゃあそうだ。この漫才の一体どこに、こんなにツボるポイントがあったって言うんだ?
他の誰にも賛同してもらえることはないだろうけど、俺にはあったんだ。ツボるポイントが。
セリフを忘れて呆然と舞台に棒立ちになっている姿は、他の観客の目にはただただ間抜けにしか映らなかっただろう。でも俺の目には、その姿はとても勇敢で、ヒーローのあるべき鮮やかな姿として美しく力強く映っていたことは確かだった。
「うちの実家に泊ればいい」
俺は自分の性癖を自覚してから、自分の家に友達を招いたことは一度も無かった。母親もそれを知っていたので、白石のことを話した時は非常に驚いていた。
「え、もしかしてその人彼氏なの?」
「違うよ。ただの同室の友達。でも信用できるやつだから」
中一の時、俺は自分が同性愛者であることに気が付いた。昨今珍しい話でもないし、両親に話すことにそこまでの抵抗は無かった。俺は両親に愛されていると信じていたからだ。
母親は俺の思っていた通りに俺のことを愛してくれていたが、父親は少し違ったようだ。
「純一に悪影響があるかもしれないだろ?」
「あなた、そんな言い方って無いんじゃないの?」
父は俺が兄に何かするんじゃないかと恐れて、ちょうど高校進学を控えていた兄を連れて市内に引っ越してしまった。
父の反応は中一の俺にはショックだったが、純一兄さんとは今でもそこそこ連絡を取り合う仲だ。
「え、純也、お前寮に入るのか?」
「ああ、この辺高校無いし。父さんの所は嫌がられるだろ?」
「寮って男子寮なのか? 相部屋なんだろう?」
「当たり前だろ」
「それって大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
俺はネコだから、物好きなタチが奇跡的な確率で同室にならない限り、不祥事を起こすことはまずあり得ない。
とはいえ男友達を家に連れて来れば間違いなく母親にそういう目で見られることは分かりきっていたし、面倒を承知で家に呼びたいような人間もいなかったため、今までずっと誰も家に呼んでこなかったのだ。
そういう意味では、白石は俺にとって特別な人間だった。俺は同性愛者だから、男だったらアリかナシかという目で見ることはどうしても避けられない。白石は全然アリだと思う。でもこいつは誰に対しても優しいお人好しなだけだから、俺に脈ありというわけではないだろう。それでもよかった。たとえ脈がなかったとしても、こいつは俺のテリトリーに入れてもいい人間だと思えたから。
(うわっ、マジかよ……)
洗濯機の蓋を開けた俺は、悲惨な中の状況に思わず大きなため息をついていた。
白石のやつ、何度か声をかけたにも関わらず起きなかった所を見るに、今日は相当疲れている様子だった。しかしいくら疲れていたからといって、共同のランドリールームでのこの暴挙が許されるわけではなかった。
(ったく、また洗濯物干さずに寝てるから、気を利かせて見に来てやってみれば……)
ポケットの中に紙類を入れたまま洗濯機を回した挙句に放置とか、次に使う人間に対するテロ行為に他ならない。
(……仕方ない)
とりあえず洗濯機から洗濯物を全て取り出し、ドラム内に残った紙屑を地道に集めてから、ようやく白石の洗濯物の処理に取りかかる。紙屑テロの爆心地は、白石が今日一日着ていたジャージのポケットだと判明した。
(うわぁ、酷い事になってんな……)
ジャージのポケットを裏返して濡れた紙の塊を取り出したとき、そこに書かれていたらしい文字がうっすらと残っていることに気が付いた。
(大事な書類とかじゃなかっただろうな……ん? これって俺たちの名前じゃね?)
「白」と「黒」という漢字は割としっかりと残っていて、白の後ろにうっすらと「石」という漢字も読み取れる。「黒」の後ろの漢字はさんずいのみがはっきりと読み取れたが、ここまでくれば「黒瀬」と書いてあったんだろうと大体想像はつく。
(なんで白石のジャージのポケットに、俺と白石の名前が書かれた紙が入っているんだ?)
さらにもう少し目を凝らしてよく見てみると、二つの名前はそれぞれの円の中に書かれていて、円から伸びた直線が上で一つにつながり、ご丁寧に葉っぱまで描かれていた。
(これはあれだな。たぶん、さくらんぼだ)
さくらんぼの実の中に、自分と他人の名前を書く理由。全くもって見当がつかない。
(こういう時はネットで検索……っと、あった!)
さくらんぼのおまじない。席替えで隣の席になりたい人がいる女子必見!
(え、白石俺と隣の席になりたかったのか? でも先週席替えしたばっかりだし、しばらく席替えなんてしないと思うんだけど)
先週からずっとポケットに入れっぱなしだったとか?
(いやいや、白石は部屋着ってあんまり持ってないから、二日に一回は絶対洗濯してるはずだ。そもそもクジを引く時にもこの紙を身につけておかないといけないってこのサイトには書かれている。席替えの時は制服だろ? この紙は先週の席替えとは絶対関係ないはずだ)
だったらこのさくらんぼのおまじないは一体何の目的で作られたものなのだろうか?
(……ひょっとして、部屋替えじゃね?)
部屋替えなら、タイミング的にもドンピシャである。
(白石、まさか俺ともう一度同室になりたかったのか? 本来のおまじないの意図を勝手に捻じ曲げてまで、一体どうして?)
恋に効くおまじない一覧。さくらんぼのおまじないを見つけたサイト名だ。
(恋……)
白石のやつ、まさか俺と同じ同性愛者だったとか?
絶対に無理だと決めつけていた時は、こんな感情が湧き上がることなんてなかった。握手会で握手くらいはできるけど、所詮は手の届かないアイドル。白石は俺にとって、そんな親近感のある芸能人のような存在だった。
でも、もっと他の場所にも触れてもいいのなら。相手も自分と同じ気持ちなんだったら。
(……そんなの、当然触れたいに決まってる)
白石のことが好きだ。アリかナシかなんて、本当はそんな次元で語れるような存在じゃない。アホでお人好しで承認欲求が強くて純粋。どこか危うくて心配で目が離せないのに、自己満足のためだと果敢に人助けをして、俺のためにも体を張って頬を張られている、そんな優しい男。見た目は普通だし、どちらかというと自分の好みからは外れているのに、不覚にも子供のように純粋で綺麗なその魂に、俺は惹かれてしまったようだ。
(どうしよう。言ってもいいものだろうか……?)
部活や勉強で忙しくしていたら、一週間などあっという間に過ぎ去ってしまった。わざわざあんなおまじないにまで頼ろうとしていたくせに、白石からは何のアプローチも無い。
(もしかして、ただ単に同室になりたかっただけで、俺と同じ気持ちってわけではないのかもしれない)
環境が変わることをストレスに感じる人間もいる。半年間一緒に過ごして俺との同居生活には慣れているし、ただ単に楽だから同じ人間ともう半年も同じ部屋で過ごしたいだけなのかもしれない。
悶々としながら大浴場に向かった時、たまたま白石の友人の友野とばったり出くわした。
「あ、ちょっと……」
「えっ?」
俺に話しかけられて、友野は何事かと軽く身構えるそぶりを見せた。白石と過ごしていてすっかりぬるま湯につかっていたが、本来他人の俺に対する評判は最悪で、話しかけるとこういう風に怯えられるのがむしろデフォルトだった。
「ちょっと聞きたいんだけど、去年の部屋替えの時、白石ってどんな様子だった?」
「どんな様子って?」
「いや、環境が変わるのを嫌がってたとか、もう一度お前と同じ部屋になりたがってたとか」
「ええ~? どうだったかな。あいつでも結構飽きっぽいし、次は角部屋がいいとかほざいてたし、全然部屋替え楽しみにしてたけど」
「お前と別れるのを寂しがってたとかは?」
「全く。黒瀬く……ちょっと話したことない人と一緒になるのは不安だったみたいだけど、別に俺と離れるのが寂しいとか、そんなんじゃなかったと思うよ」
やっぱり、きっと俺だからだ。俺とだから、もう一度同室になりたいと願ったんだ。
伝えたい。俺も同じ気持ちだって。でも万万万万が一俺の勘違いだったら? ああ、向こうから言ってくれればいいのに。
(いや、何女々しいこと考えてるんだ。男ならこういう時こそ決めるもんだろ!)
失敗しても、恥ずかしくても、自分の発言の責任はきちんと自分で取ろう。その覚悟を持って、あの綺麗な白石の魂に向き合うんだ。
「相良さん、ちょっと頼みがあるんだけど」
「えっ!」
こちらから話しかけると相良は非常に驚いて飛び上がっていたが、俺の頼みを聞くと喜んで引き受けてくれた。
「悪いな。俺寮生だし部活あるから、平日は学校の外に出られなくて」
「いいよ! 黒瀬君の頼みなら喜んで! カップルで持つようなキーホルダーを買ってくればいいんだよね? 私が住んでる親せきの家の近くに雑貨屋さんがあるから、そこで見てみるね」
奇しくも相良が買ってきてくれたのは対になったさくらんぼの実をカップルで一つずつ持つタイプのキーホルダーだった。
「なんか女子っぽいのしかなくて、こんなので良かった?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
「女の子ならきっと喜ぶと思うから!」
残念ながら相手は女の子ではなかったが、きっと白石ならこのさくらんぼを喜んでくれるだろうと、俺には妙な確信があったのだった。
四〇三号室の住人は既に出て行った後で、俺は高校二年生の残りの半年間を過ごすことになる部屋のドアをゆっくりと開けると、押してきた台車ごと中に足を踏み入れた。
(……黒瀬君、大丈夫だったかな?)
初めて同士の初体験。当然事がスムーズに進むはずがなかった。「やり方は知ってる」と豪語していたにも関わらず、黒瀬はずっと痛みを我慢しているかのようにぎゅっと目をつぶっていた。
(それがまた色っぽくて良かったんだけど……)
こんなことならもっと早く、こちらから告白しておけばよかった。せっかくずっと同じ部屋で過ごしていたのに、もうこんなチャンス二度とめぐって来ないだろう。
(残りのチャンスは高校三年生になってからの二回だけど、同じ人間ともう一度同室になれる確率ってどれくらいなんだろう……)
俺は小さくため息をつくと、台車に乗せていた段ボール箱を床に下ろし始めた。
寮の二人部屋は入り口から入って左右にそれぞれ机とベッドが配置されていて、右側を自分のテリトリーにするか左側にするかは住人同士で相談して決める。別にどちらでも大差ないのだが、なんとなく俺は左側の机に自分の荷物を置いた。黒瀬と半年間過ごした部屋でも、俺は左側を選んでいた。特に理由は無いんだけど。同室になるはずの小宮はなかなか来ないし、勝手に俺はどちら側を使うか決めさせてもらうことにした。
段ボールの中身を机に出していると、寮でつかっている筆箱に付けた赤いガラスのキーホルダーがカチャリと机に当たって音を立てた。
(……やっぱり、引っ越し手伝いに行こうかな。いやでも黒瀬君の荷物段ボール一箱だけだし、もうとっくに終わってるかも)
むしろガチャガチャと荷物の多い小宮を手伝うべきかもしれない。なかなかここに上がってこないのも、物が多すぎて荷造りが終わっていないからかもしれなかった。
(ったく、最初から最後まで世話の焼けるやつだな)
その時、扉がガチャリと開いて、ようやく相方が四〇三号室に入って来た。
「遅かったじゃないか。勝手に左側……」
そう言いながら振り返った俺は、予想していた小動物のような小宮の代わりに長身の浅黒い男が立っていることに驚いて、思わず手に持っていた教科書を足の上に落としてしまった。
「痛って!」
「大丈夫か?」
黒瀬は持ってきた段ボール箱を右側の机に置くと、かがんで俺が落とした教科書類を拾い上げてくれた。
「えっ、黒瀬君、どうしてここに? 引っ越しは?」
「今からだろ」
黒瀬はこともなげにそう言うと、持ってきた段ボールを手で指し示した。
「えっ? でも黒瀬君は二階だろ? ていうか小宮は?」
「小宮は二階」
黒瀬はそう言いながら、段ボール箱を開いて中身を机に出し始めた。
「小宮と部屋を替わってもらったんだ」
「ええっ?」
「あいつだって半年前に同じことをしたんだから、俺に何か言える筋合いなんてないだろ」
た、確かに。
「あいつ白石と同じ部屋になって、いろいろ助けてもらえると思って喜んでたみたいだけど、俺がちょっと優しく言ったらすぐに大人しく部屋交換してくれたよ」
珍しく黒瀬が悪そうな笑みを浮かべていたため、俺も思わずつられて笑顔になっていた。
「そんなに優しく言ったんだ」
「なんであんなに怯えていたのか皆目見当が付かないけどな」
黒瀬がベッドに腰を下ろしたため、俺はすぐに黒瀬の隣に移動して黄緑色のカーテンをシャッと閉めた。
「おい! 今はまだ……」
「キスだけはだめ?」
さっきは切羽詰まって余裕がなくて、キスをするのをすっかり忘れていたのだ。
「……いいけど、本当にそれだけだからな」
「分かってるって」
初めてのキス、初めての体験、初めての気持ち。全てが真新しくて新鮮で、生まれたての若葉のように瑞々しく、喜びに満ち溢れている。
「……これからまた半年間よろしくね」
「……うん」
見上げた黒瀬の瞳は艶っぽく濡れていて、目の前の俺に対する愛情に満ちているような気がした。半年前の刺すような鋭い視線とは雲泥の差だ。そんな一つ一つの黒瀬のギャップが、俺を骨抜きにして虜にしていく。
「半年もあれば、きっと俺上手になると思うから」
「お前そればっかりかよ」
「ち、違うよ! 別にそんなつもりで言ったんじゃないけど、さすがにさっきはダメダメだったと思ったから……」
慌てて弁解する俺を見て、黒瀬は心からおかしそうにふふっと笑った。
「分かってるって。まぁ、お手柔らかに頼むわ」
終わり