「……し、白石!」
「えっ?」
「えっ? じゃないよ。俺の話聞いてた?」
「あ、ごめん、ボーっとしてた。何?」
「大丈夫かよ? お前夏休み明けてからなんかおかしくない?」
 友野の言うことももっともである。俺は確かに最近自分がおかしい自覚がある。
(そりゃ、自分の信じていたアイデンティティが三百六十度ひっくり返されたんだぞ。茫然自失となったっておかしくなんかないだろ?)
 生まれて初めて、男を想像しながら抜いてしまった。しかもその張本人の実家のトイレで。
(あ〜! なんてことをしてしまったんだ、俺は)
 相変わらず寮の黒瀬のベッドは黄緑色のカーテンによる結界が張られた聖域のままであったため、あの日と同じ事故が起きるような事態だけは免れていた。
(しかしだ、俺がそういう意味で黒瀬のことが好きだと気付いてしまった以上、再び同じことが起こるのも時間の問題だ)
 そうなってしまったら、俺は一体どうすれば良いんだ?
(い、いやいや、健全な男子高校生たるもの、それくらい誰だって当たり前にしてるだろ? オカズがすぐ隣にいるのが問題ってだけで、それだってカーテン閉めて声を抑えれば気付かれる心配は無いわけで。黒瀬だっていっつも閉めてるカーテンの向こうで絶対一人でやってるはずだし……あ、ダメだ、想像しただけで興奮してきた)
「そう言えば、お前なんだかんだで半年間黒瀬とうまくやったよな」
「ヤった!?」
 俺が思わず裏返った声を上げたため、友野はビクッと飛び上がりながらギョッとした表情でこちらを見た。
「何? 俺なんか変なこと言った?」
「い、いや、何でもない。半年間何だって?」
「だから相部屋だよ。半年間ちゃんと退寮にならずによく耐えたじゃないか」
「ああ……」
 そんなの当たり前だ。藤沢の件は全くの濡れ衣で、黒瀬は何も悪いことなどしていなかったのだから。
「次は頼まれてもクジ交換したりなんかするなよ?」
「えっ、何の話?」
「白石、ボーッとし過ぎじゃないか?」
 友野は本気で俺のことを心配している様子だった。
「今日だぞ、半年に一度の寮の部屋替え」

 白い紙にペンでさくらんぼを描きます。左の実には自分の名前を、右の実には隣の席になりたい人の名前を書きます。小さく折って誰にも見つからないように、席替えの日まで持ち歩きます。
(このさくらんぼを四角い建物の絵で囲ってっと)
 席替えで隣の席になりたい人がいるときに使う、さくらんぼのおまじない。そこに勝手に寮の建物を付け足せば、俺のオリジナルの同室になりたい人がいる時に使うおまじないに早変わりである。
 何こんな小学生女子が喜んでやりそうなおまじないに、大の高校生男子が勝手にアレンジを加えてまで頼ろうとしているのかって? こんな子供騙しにでも頼らざるを得ないくらい、俺が切迫してるってことなんだよ!
(お願いします! もう一度黒瀬と同じ部屋になりますように!)
 頼みの綱であるさくらんぼの描かれた紙切れを大事にポケットに忍ばせたまま、俺は半年前と同じように、ガサゴソとビニール袋に手を突っ込んでクジを一枚取り出した。
「四〇三号室」
「あっ、白石君僕と一緒だ! やったね!」
 さくらんぼ〜! 全く効き目無しじゃないか! やはりアレンジを加えたのがまずかったのか。
「……え、白石君、僕と一緒の部屋嫌だった?」
「え? あ、うん、そんなことないよ」
 小宮は気分を害したように膨れっ面をしていたが、今の俺には彼に構っている余裕が無かった。
(黒瀬は……?)
 もしかしたら半年前の小宮のように、小心者の寮生が黒瀬との相部屋を嫌がってまたクジを交換してくれるかもしれない。
(あぁ〜、ダメだ。あいつは性格が良いことで有名なナイスガイだ。既に黒瀬に笑顔で手を振ってやがる。なんか腹立つな。こんな時にいい人ぶってんじゃねえよ!)
「え〜っと、今すぐ部屋替えをして欲しいのはやまやまなのですが、ちょっと先生の事情でこの土日は難しいので、来週の土曜日に移動してもらいます。一週間も猶予がありますので、それまでにきちんと荷物をまとめておくように」
 一週間。あと一週間で、黒瀬との相部屋生活が終わってしまう。
 俺は半分魂が抜けたような状態でフラフラと部屋に戻り、ほとんど記憶のない状態で辛うじて家事をしてから、ぽすりとベッドに倒れ込んだ。
「……白石? 大丈夫か?」
 黒瀬が心配そうな声で話しかけてきたが、俺は寝たふりをしてそれには答えず、そのまま枕に顔を押し付けてギュッと目をつぶった。
 黒瀬は何を考えているんだろう? 俺と離れること、寂しいとか思ってくれているのかな?
(そんなわけないよな……)
 黒瀬は悪意によって流布された悪評によって悪い印象がついているだけで、本当は心の綺麗な優しい人間だ。一緒に住んでみれば絶対に分かる。あのナイスガイだってすぐに気が付くはずだ。そしたら俺は、黒瀬の最大の理解者だという今のポジションを失って、ただの友達の一人に成り下がるのだろう。
 正しく理解されて、友達が増えること。それは黒瀬にとってとても喜ばしいことに違いない。それを寂しいと思ってしまう自分が嫌になる。こんなに心が狭くて汚れていて、俺はやはり正統派ヒーローになる資質の無い人間なのだ。
「白石?」
 黒瀬は珍しく少ししつこいくらいに俺の名前を呼んでいたが、やがて諦めたようにギシッとベッドから立ち上がると、そのままバタンと扉を開けて部屋から出て行ってしまった。
(しまった。あと少ししか一緒にいられないのに。ちゃんと返事をすれば良かった)
 ますますぐるぐると自己嫌悪に陥りながら、俺は布団の温もりの中でいつのまにかぐっすりと眠り込んでしまっていた。

 紙でできたさくらんぼがヒラヒラと宙を舞っている。黒瀬の名前が書かれたさくらんぼを必死に探すも、小宮や友野や他の人間の名前ばかりで、一番欲しい紙がなかなか見つからない。
(あ、あった!)
 ようやく見つけた紙を掴もうとした瞬間、それはつむじ風に飛ばされたかのようにひゅうっと俺の手を離れて、水の中にひらりと落ちてしまった。水の底から出てきたナイスガイがそれをまるで鯉のようにパクッと飲み込んで笑っている。
「ああああああああ!」
 思わず大声を上げてガバッと起き上がった瞬間、隣でシャッとカーテンの開く音がして、起き抜けの黒瀬が驚いた表情でこちらを凝視していた。
「大丈夫か!?」
「あ……おはよう」
 あまりの恥ずかしさにじわじわと顔に熱が上がってくる。
「ムカデでも出たのか?」
「いや、大丈夫。ちょっと変な夢を見て……」
「そうとう怖い夢だったんだな」
 黒瀬はゆっくりとベッドから起き上がると、神妙な表情でこちらに近づいてきた。
「実は俺からも怖い話があるんだが、今言っても大丈夫か?」
「え、何? 怖い話って?」
「お前さ、昨日ズボンのポケットに紙入れたまま洗濯機回してたぞ」