そうか、俺がこの家に来て感じていたうら寂しい違和感の正体はこれ、父親の存在を感じられないという空気感から来るものだったのか。
「あ……そうだったんだ」
 俺が何と言っていいか分からず口ごもっていると、黒瀬は気にするなという風に俺の肩をポンポンと叩いた。
「別に気にしてないよ。もう子供じゃないんだから」
 そうかな。見た目は十分大人の男に見えるけど、年齢的に一応俺たちはまだ法律上は未成年だし、黒瀬の父親が出て行った時、こいつはもっと幼かったはずだ。
(その時はきっとすごく辛かっただろうに。そういう傷って二、三年で気にならなくなるものなのかな?)
 分からない。俺の両親は息子の存在を忘れて旅行に行くくらい、今でも仲が良いから。
 黒瀬の母親はひと月ぶりに帰ってきた息子とその友達である俺のために、たくさんの料理を夕飯として用意してくれていた。
「うわぁ、こんなにたくさん! ありがとうございます」
「男子高校生なんてアホみたいに食べるもんでしょ。まだまだあるから遠慮なく食べてね」
「いただきます!」
「お野菜は全部うちの畑で採れたものなのよ」
 同じきゅうりでも、採れたてのものは瑞々しくて歯触りが格段に違う。パリッと一口噛むと、口一杯に爽やかな味が広がって思わず笑顔が溢れてしまう。
「……きゅうりこんなに美味そうに食う奴初めて見た」
「えっ?」
「純也もたくさん食べなさいよ。どうせ寮ではケチってろくなお昼ご飯食べてないんでしょ?」
「そんなことない」
 甘辛い鶏の煮物に舌鼓を打ちながら、俺は黒瀬の手作りサンドイッチに思いを馳せていた。
(あれはろくなお昼じゃないと言えばそうだけど……)
「うちのことは心配しなくていいのよ。お父さんちゃんとお金は入れてくれてるから」
「だから心配なんかしてないって」
 夕食後、しばしの攻防の末、俺はなんとか皿洗いをする権利を勝ち取ることに成功した。
「せっかく遊びに来てくれたのに、お皿洗いなんかさせちゃって悪いわね」
 とんでもない! むしろ何でも良いので仕事をさせて下さい。でないとタダで泊めてもらう俺がいたたまれないので。
「しかもあの子ったら、お客さんより先にお風呂入っちゃったの?」
「俺たちいつも共同風呂なんで、黒瀬君が入っただけのお風呂なんてむしろ綺麗な方……」
 黒瀬君が入っただけのお風呂って、なんかちょっとエロくないか?
「ねぇ、さっきのお昼ご飯の話なんだけど、やっぱりあの子ちゃんと食べてるのかしら?」
 うっ! このお母さん、友人の俺に探りを入れてきた。どう答えれば黒瀬は怒らないんだろうか?
「……ちゃ、ちゃんと食べてますよ〜」
「やっぱりちゃんと食べてないのね」
 すまん黒瀬! 俺は嘘が下手くそなんだ。
「……あの子お父さんが出て行ったのも自分のせいだと思ってるみたいで。子供は何も悪くないんだけどね。養育費も貰ってるから大丈夫だって言ってるのに全然聞かなくて」
 そうか、それで黒瀬は普段学食や購買を利用せずに、少しでも出費を減らそうとわざわざ手作りサンドイッチを作っていたのか。
「でも学校での様子なんか親御さんは全く分からないでしょうに、母親はやっぱり息子のすることなんかお見通しなんですかね」
「一度寮から苦情の電話がかかってきたのよ。湯沸かしポットでパスタを茹でないで下さいって」
 そんな方法で作れるのか、パスタ。
「流石に私も恥ずかしかったから、百均で買ったレンジでパスタを茹でる入れ物送ってあげたんだけどね」
「画期的な発明品でしたね」
「でもあの子がお友達をうちに連れてくるなんて、本当に何年ぶりかしら。電話もらった時驚き過ぎて日付聞き忘れちゃって、しかもその後間違えてお兄ちゃんの方に電話かけちゃったのよ」
 このあっけらかんとした雰囲気なら、この話題に俺から触れても大丈夫そうな気がして、俺は気になっていたことを黒瀬の母親に聞いてみた。
「あの、黒瀬君のお兄さんはどうしてお父さんの方へついて行ったんですか?」
「ちょうどお兄ちゃんの高校進学の時期でね。うちは田舎だから、お父さんが市内に引っ越すことになったからそっちの方が都合が良かったのよ」
「そうだったんですね」
「それとまぁ、あの人のたっての希望ってのもあったんだけどね」

 入浴後、再びしばしの攻防の末、俺は黒瀬の部屋の床に敷かれた布団に横になっていた。
「俺の部屋の床フローリングだし、体痛いと思うけど」
「大丈夫だって」
 黒瀬は普段自分が使っているベッドを勧めてくれたのだが、泊めてもらっている身で快適な寝床を堂々と使えるほど、俺の神経は図太くは無かった。
(それに黒瀬のベッドって、なんか色々想像しちゃいそうだし……)
 お友達、を連れてきたのは久々だって母親は言っていたけど、じゃあ彼女は?
(この部屋に連れ込んで、そこのベッドで……?)
 あ、やばい。なんかちょっと変な気分になってきた。
「どうした?」
「えっ?」
「なんかソワソワしてるみたいだけど」
「えっ? い、いや、そこのベッドの下に見えるやつ、エロ本かな〜と思って」
 黒瀬はゴロリと寝返りを打ってうつ伏せになると、ベッドの下を覗き込んだ。
「……何もないけど」
「あ、じゃあ気のせいだったみたい。あははは……」
 黒瀬はベッドの下を覗き込んでいる体制から、布団の上の俺を上目遣いで見た。
「見たい?」
 ドクン、と心臓が跳ねて、全身の血液があらぬ所に集中するのが分かった。
 話をするようになってからも、寝る時黒瀬は必ずベッド周りのカーテンを閉めているため、彼がベッドに横になっている姿を見たのはこれが初めてと言ってよかった。ドライヤーを使わない黒瀬の癖毛は少し湿って波打っており、実家でパジャマ代わりに使っているのか、ヨレヨレの紺色のタンクトップが左肩から外れて胸元がチラリとのぞいている。
 何だこれ? 何でこんなに色気が凄まじいんだ!?
「えっ、見たいって?」
「だからエロ本」
「あるの?」
「ごめん、無い」
 無いんかい!
「……俺、ちょっとお手洗い借りてきます」
「別に断らなくていいのに」
 しかし結局エロ本は必要無かった。