背が高くて浅黒く、壁際にいるにも関わらず異様なオーラと存在感を放っている。こんなに目を惹く知り合いの男性を、俺は一人しか知らなかった。
(黒瀬だ)
 文化祭には参加しないとあれだけキッパリと宣言していた黒瀬がいる。しかも、引き受けるなんてアホだと馬鹿にしていた俺の舞台を見に来ている。それだけでも十分驚くに値する事実だったが、それ以上に衝撃的な視覚情報が全ての俺の驚きをかっさらっていった。
 笑っていたのだ。あの黒瀬が。決して苦笑いとかではなく、湧き上がる笑いを堪えられないように、小さく肩を震わせながら、黒瀬は声を殺して笑っていた。それは決して嘲笑でも侮蔑でもなく、まるで子供のように純粋に、黒瀬は俺を見ながら笑っていた。
(あ……)
 笑顔には人を安心させる力がある、と以前何かの記事で読んだことがあった。だから俺はできるだけ普段から笑顔を心がけている。それが人をホッとさせたいご近所ヒーローの嗜みというものだろう。
 黒瀬の笑顔は舞台の上の俺を確かにホッとさせてくれた。冷え切った舞台に立つ芸人にとって、笑ってくれる観客というのは春の日差しのように暖かい存在であることは間違いない。
 しかし次の瞬間、まるで春の嵐のように激しい感情が湧き上がってきて、安堵に落ち着いていた俺の情緒をかき乱し、唐突に一つの結論という海に俺を投げ込んでいった。
(……そうか、好きなんだ)
 黒瀬のことが好きだ。その結論に至るならば、ここ最近の自分の感情の波に説明がつく。イライラしたりモヤモヤしたり、笑ってくれてこんなに幸せな気持ちになったりする、この感情の波に。
(そんな、俺男なのに……)
 こんなことってあるだろうか。男という時点で、おそらく俺は振られた矢口や相良以上に相手にしてもらえる見込みがない。あんな女子たちより絶対俺の方が黒瀬と真摯に向き合っているはずなのに、彼女たちが生まれながらにして既に立っている土俵に、俺は立つことすらできないのだ。
 観客席が突然しん、と静まり返り、黒瀬がはっと笑うのをやめた。
(あれ、どうして……?)
 頬をつーっと一粒の滴が流れ落ちていく感触がして、俺はようやく自分が涙を流していることに気がついた。
(やばっ!)
「あ、白石君、大丈夫? やっぱり俺らが悪かっ……」
「い、いやごめん! 違うんだ」
 本当に違うんだ。別に素人とか、金返せとか言われたことが悲しくて泣いてるんじゃない。この止められない感情は、そんな不特定多数の相手との関わりで引き起こされるような、気にかけるに値しないくだらないものとは全然違うのだ。
 裏方の誰かが気を利かして、エンドレスに流していた漫才の録画を再びスクリーンに映し出してくれた。俺と斉藤はオチも付けずにグダグダのまま退場したが、そもそも始めから破綻した舞台だったので、今更それに関して咎める者は誰もいなかった。
「ごめん斉藤君。俺もちょっと緊張しちゃったみたい」
「いやいや、マジでありがとう! おかげで何とか体裁は保てたよ」
 控室代わりに使っていた空き教室でキラキラと派手な漫才の衣装を脱いでいると、静かに扉の開く音がして心配そうな表情をした黒瀬が入ってきた。
「白石、お前大丈夫か?」
「あ、ごめん。びっくりさせたよね。全然大丈夫だよ。柄にもなくちょっと緊張しただけだから」
 先ほどはステージ上での緊張や羞恥心、新しい扉を開いてしまったことによる衝撃など、様々な要因が関与してキャパを超えた感情が目から溢れ出してしまったが、今は幾分落ち着いた心で黒瀬と向き合うことができた。
「だからやめとけって言ったのに……」
「いいだろ、もう終わったことなんだし。それより黒瀬君こそどうしてここに? 文化祭には参加しないって言ってたのに」
「お前のことが心配で見に来たんだろ?」
 全く、こういう所だよ。普段無愛想で誰に対しても無関心な雰囲気出してるくせに、こういう俺だけは特別? みたいなギャップを見せられると誰だってキュンとしちゃうだろ?
「そっか、ありがとう。漫才面白かった?」
「全然」
 嘘つけ! 肩が震えるほど笑ってたじゃないか!
「漫才は破綻してたけど、ボケッと突っ立ってる感じがなんかシュールで笑えた」
「そりゃ良かった。一人でも笑ってくれる観客がいて」
 俺は衣装を床にポイッと投げ捨てると、黒瀬の腕を引っ張って空き教室の出口へと誘った。
「せっかく来たんだから、文化祭一緒に回ろうよ」
「漫才見たら帰るつもりだったんだけど。あんまり無駄な金使いたくないし」
「だったら俺が奢るから」
「いや……」
 まだ何か言おうとする黒瀬の言葉を遮るように、俺はガラッと空き教室の扉を開いた。セリフも知らない漫才舞台にいきなり立たされて、俺は今日かなり頑張ったと思う。少し強引かもしれないけど、これくらいのご褒美があったってバチは当たらないんじゃないだろうか?

 俺が奢るから、と威勢良く言ったものの、俺の財布が活躍する機会などこのような場では決して訪れないということを、長身イケメンを連れて歩いてみて俺は初めて思い知ることとなった。
「あ、あの、良かったらこれどうぞ」
「あ、じゃあ俺がお金……」
「いいんです! 作り過ぎて困ってたんで!」
 焼きそば一パックゲット。
「こっちの肉まんもどうぞ!」
「あ、いくらですか?」
「お金はいらないんで、SNS用の写真撮らせてもらっていいですか?」
 肉まん二つゲット。
「フランクフルト好きですか?」
「あ、じゃあ……」
「ちょっと咥えてみてもらってもいいですか? キャー!」
 ちょっと、黒瀬になんてことさせるんだ!
「……文化祭ってこんなにタダ食いできるイベントだったんだな。去年も参加すればよかった」
「いや、タダ食いできるのは君みたいな一部の特別な人間だけだから……」
 黒瀬の両手だけでは持ちきれない食べ物の山を運ぶのを手伝いながら、俺は満更でもない様子の黒瀬をジトッとした目で振り返った。食べ物をもらう時の黒瀬はいつもよりなんだか表情が和らいでいるような気がして、それに気づいた店番中の女子生徒たちが、我先にと俺たちに必死で声をかけてきたのだ。
(何だよ、簡単に餌付けされちゃってさ)
「はぁ、早く部屋に戻って食べようか。これ何日分くらいあるのかな?」
「えっ?」
 焼きそばと肉まんをそれぞれ両手に持った黒瀬は、驚いたような表情で俺を見た。
「文化祭って食べ物を買うだけのイベントなのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
 お前は俺がさっきまで何をしていたのか、もう忘れたっていうのか?
「お前が文化祭を回りたいって言ってたのに、もう帰ってもいいのか?」
「え……」
 もっと俺に付き合ってくれるってこと?
(どうしよう。俺も一緒に回りたいとは言ったけど、具体的にカップルがどうやって文化祭を楽しむものなのか正直よく知らないんだった。あっ、勝手にカップルってことにしちゃった)
 一緒にステージを見たり、クラスの出し物を回ったり?
(う〜ん、どれもしっくりこないな。ていうか正直荷物も多いし、ちょっと疲れてきたんだよな……)
 黒瀬と一緒にいたいだけなら、むしろ三〇一号室の自分たちの部屋の方が都合が良かった。
(でもなんか文化祭らしいこともしたいな。あんな悲惨な漫才じゃなくて……)
「写真部で〜す! 文化祭の思い出にベストショットはいかがですか〜?」
 これだ!
「黒瀬君、一緒に写真撮ろう!」
「えっ、あれ?」
 ピンクと白の風船で作られたハート型のフォトスポットを見て、黒瀬が怪訝そうな表情をした。
「あんなファンシーな枠でいいのか?」
「いいよ、あれしかないし」
 明らかにカップル専用のフォトスポットだったが、黒瀬は俺がいいと言うのを聞くと、快くハートの枠の中に入ってくれた。
「同室の記念に!」