文化祭の当日。
「……おはよう」
「あ、おはよう」
 今日はどこの部活も強制的にお休みで、朝練や自主練も禁止されていたため、珍しく黒瀬がベッドから出てくる所に遭遇することができた。
「黒瀬君、本当に文化祭参加しないの?」
「しない」
 清々しいほどの即答だ。
「でも、せっかく部活も休みだし、年に一回しかないイベントなんだよ」
「興味ない。去年も行かなかったし」
 そうだったのか。まあ黒瀬の境遇なら仕方のないことかもしれない。
(残念だな。せっかくちょっと一緒に回ってみたいな〜なんて思ってたのに……って何考えてんだ、俺!)
 一緒に看板作りの作業をしたせいか、何だか相良の思考に影響されてきている気がする。
 朝の点呼を終え、黒瀬と並んで朝食を取りに食堂へ向かっている途中、足早にこちらに向かって歩いて来る友野とばったり鉢合わせした。
「あっ、友野、おはよ……」
「おい白石、確か三木ってお前のクラスだったよな?」
「え? そうだけど」
「良かった。ちょっとこっち来い」
 いつになく切羽詰まった様子の友野に驚いて、俺は思わず黒瀬と顔を見合わせた。
「三木がどうかしたの?」
「なんか調子悪いらしくて。斉藤に頼まれて、ちょうどお前を呼びに行こうと思ってたんだ」
 友野と三木は同室だ。せっかく下りてきた階段を再び上って、俺は友野に引っ張られるように彼らの部屋へと案内された。
「ほら、白石連れてきたぞ」
「あ、白石君……」
 友野の部屋には、同居人の三木の他に斉藤の姿もあった。
「どうしたんだ? 三木……」
「ごめん、白石君! 今日の漫才代わってくれない?」
 ーーえ? 何だって?
「三木のやつ、昨日緊張しすぎて一睡もできなかったらしくて。気分悪くて一歩も動けないんだって」
 なんでそんな豆腐メンタルのくせして、自ら漫才をやりたいだなんて立候補したんだ?
「ご、ごめん白石君。頭がクラクラして、もうセリフが一文字も思い出せないんだ」
 それは俺も一緒だよ! だってセリフ一文字も知らないんだからな!
「白石は舞台に立っててくれるだけでいいから。あとは俺が何とかする」
 斉藤も青い顔をしながら謎のフォローを入れてきた。セリフを一言も喋れない人間と漫才の舞台に立って、一体何をどう収拾つけるつもりなのだろうか?
「流石に無茶振りが過ぎるだろ」
 突如として部屋に響き渡った冷たい声に、その場にいた全員が一瞬寒気を覚えて押し黙った。いつの間について来ていたのか、黒瀬が俺の背後に立ってベッドに座り込んでいる三木を見下ろしていた。
「漫才は中止にして、喫茶だけにするしかないだろ」
「いやでも、俺が言い出しっぺなのに漫才を中止になんてできないよ」
「なら自分で責任持って舞台に立つしかないんじゃないか? それが……」
 尚も追い討ちをかけようとする黒瀬を遮るように、俺はずいっと前に出て三木の肩をポンと叩いた。
「分かった。俺が出るよ」
「白石君!」
「おい!」
 黒瀬が咎めるように鋭く言葉を発したが、俺は「大丈夫だから」と目で合図してから斉藤に向き直った。
「言っとくけど、本当に突っ立ってることしかできないからな」
「ありがとう!」
 涙を流さんばかりの二人に見送られながら、俺は黒瀬と一緒に友野の部屋を出た。
「あいつらお前なら絶対断らないって分かってたから、直前になってこんなとんでもない役を押し付けてきたんだぞ」
 黒瀬はまだ怒っているように刺々しい口調で俺にそう指摘した。
「分かってるよ」
「今はありがたがってる雰囲気出してるけど、お前が困った時に助けてくれる保証なんてないんだぞ」
「そんなの別にいいんだって」
「そんなのって……」
 俺はくるりと振り返って、黒瀬と真正面から向き合った。
「心配してくれてありがとう。でもいいんだ。俺が助けてやれることなんだから、俺はやってやりたい」
「見物人から笑い物にされるぞ」
「今から初めて原稿見るんだから、できなくて当然だろ? 斉藤もそれでいいって言ってたし。俺は開き直っていくよ」
 あんなに緊張して調子悪そうにしている三木を舞台に立たせるわけにはいかないだろう。
「……それもお前の幼稚なヒーロー精神か何かなのか?」
 うっ! そういう言い方をされるとなんだか無性に恥ずかしい気分になってくるぞ。
「そうだよ、悪いか? 黒瀬君と違って、俺はこんな方法でしかヒーローにはなれないんだ」
「はぁ?」
 そう、圧倒的な力で悪を倒せる資質を持つ君と違って、俺はこうやってご近所のなんでも屋さんみたいに些細なことでしかみんなをホッとさせることはできない。ならばそれを極めるまでだろう?
「どうせ君は文化祭には来ないんだから、俺のことは心配しないで」
「別に。ただアホだなって思っただけだよ」
 黒瀬はそう言うと、スタスタと俺を追い越して先に食堂へと入って行ってしまった。残された俺は一瞬ポカンと遠くなっていく広い背中を眺めていたが、すぐに気を取り直して後を追うように食堂へ足を踏み入れた。
 そう、とにかくまずは腹ごしらえからだ。どこまでできるか分からないが、時間までとにかく原稿を覚える努力はしてみよう。今日の脳の消費カロリーはどれくらいになるだろうか。

 漫才の見られる漫才喫茶。俺たちのクラスの出し物である。メイド服や着物など、喫茶スタッフになった生徒たちは各々好きなコスチュームを身につけて、ドリンクの提供は交代で一日中行なっている。営業時間中は教室の前方のスクリーンで、事前に撮影された三木と斉藤の漫才がエンドレスに放映されているが、生の漫才公演はお昼の一回のみ。パンフレットにもデカデカと宣伝してあり、その時間帯が喫茶も一番混雑することが予想された。
「……お客さん、どんどん入ってくるね」
「わざわざ他のクラスの出し物の時間を調べ上げて完璧にずらしたからな」
 最悪である。
「それじゃ、白石君頼んだよ」
「うん、斉藤君こそ」
 俺たちは拳と拳をガシッと突き合わせると、今はなにも映っていない真っ白なスクリーンの前に設置されたスタンドマイクの前に小走りで登場した。
「はい、どうもどうも〜!」
 おお〜! という歓声と共に、期待のこもった拍手が俺たちを迎え入れた。ヤバいぞ、なんか思ってたより俺たちの漫才楽しみにされてないか?
「どうも〜、一組の斉藤です!」
「三木です!」
「あれ、三木ってこんな普通の顔だったっけ?」
 どうして急遽考えたアドリブネタでも凡人扱いされなきゃならないんだ?
「俺たち二人とも実は同じ屋根の下に住んでましてね」
「寮に住んでるだけだろ! なんか含みのある言い方するなよ」
「身体中隅から隅まで晒した仲でして」
「共同風呂なだけだから!」
「同じ釜の飯を食った仲でもあります」
「確かにそれは間違ってない」
「それで、こないだちょっとした恐怖体験をしたのですが……」
 はい終了! 今朝原稿を渡されて、ただでさえ緊張する人前でここまでできたことを、この教室にいる全員に褒めてもらいたいくらいだ。もうこれ以上セリフが出てくることは無かった。きっと脳みそのどこかに格納されてはいるんだろうけど、それを引き出す手段を俺は持ち合わせていなかった。黙って突っ立っている俺と、必死で何か言っている斉藤。異様なステージの様子に観客席が次第にざわつき始め、しばらくして一人二人と席を立つ人々が出てきた。
「金返せよ、ど素人が」
 すみません! でも本当に、練習すらしていないど素人中のど素人なんです。コーヒー代の五十円くらい勘弁してください。物価高騰中なんで、一杯五十円でコーヒー飲めるとか、破格だと思うんですけど。
 途方に暮れながら次々と出ていく観客をぼんやり見ていた俺は、今まさに教室を出て行こうとしているカップルが移動したことにより、その後ろの壁際に立っていた人物とバチリと目が合うことになった。
(あっ!)