──今日は卒業式。
私にとって高校生活に終わりを告げるとともに彼との別れの日だ。私と恋人の葉琉は卒業証書を片手に、互いに沈んだ顔で河川敷に座っていた。
理由は昨日、私から切り出した別れ話のせいだ。
河原を正面に見て、右に座っているのが私で左が葉瑠。私が彼の左側に座ることはない。
何故なら私の右耳は生まれつき聞こえないからだ。
そして左耳は補聴器を付けているのだが、左耳の聴力も徐々に低下している。先日の定期検診では主治医からあと一年ほどで聴力はほぼ無くなると診断された。
「……菜緒、別れるってなんで?」
葉瑠の少し高めの穏やかな声が春風に乗って左耳から心地よく聞こえてくる。
私はもう何度もシュミレーションした答えを脳裏に浮かべてからゆっくりと唇を開いた。
「うん……春から葉瑠は北海道の医学部に行くでしょう? 私は地元の短大だし遠距離って……難しいと思う」
「なるべく実家にも帰るし、毎日菜緒に連絡する。会えなくても寂しい思いはなるべくさせないから」
葉瑠がそう言うと、私のわずかに震えている左手にそっと大きな手を重ねた。
その温かい手のひらに決意はすぐに揺らぎそうになる。
葉琉にはただ真っ直ぐに夢を追いかけて欲しい。
医師になって沢山の人を救って欲しい。
そのために私のことで悩んだり悲しんだりする時間を葉琉に過ごしてほしくない。そんな私の自分勝手に決めたこの別れが彼が望んだものではなかったとしても。
「もう決めたの。それに前ほど葉琉のことが好きかわからなくなったから……」
本当は好きじゃなくなった、と突き放す方がいいとわかってはいるけど今の私にはこれが限界だ。嘘を突き続けるのは苦しい。
私は込み上げてくる涙をなんとか堪える。
「ほんとに?」
「うん……でもこれからも葉琉のこと……ずっと応援してるから」
「…………」
葉琉は唇を噛むと、桜の花びらが浮かんだ川を静かに見つめた。
恋は儚い。恋は桜とよく似ている。美しく尊い時間はあっという間で気づけば涙を湛えて散っていく。
葉琉はきっと私の耳が聞こえなくなったら酷く悲しむのだろう。
悲しむどころか、この世界から音がなくなった私を心配するがあまり、私を支えるため北海道の医大へ行くのを諦め一浪して地元の大学を受け直すかもしれない。
葉琉がいつだって向けてくれるまっすぐな愛情は嬉しい。けれど時折、心が重たくなってしまう。
だから私は別れを選んだ。
葉琉のこれからの人生を私のために、一ミリだって無駄にしてほしくない。
「俺は……別れたくない」
苦しげにそう呟いた葉琉の言葉に、私の片目から堪えきれずに涙がひと雫転がった。
(葉琉……本当は私もね……ずっと一緒にいたいよ)
そう言えたらどれほどいいだろう。
でもきっと今、別れなければ私はこれから色々な場面で後悔する。
葉琉と別れることが、私が葉琉から今までたくさん貰った愛情へのお返しだ。
(いつかまた会えたら……その時は笑えてるかな)
私は奥歯をぐっと噛み締めると、手の甲で雑に涙を拭い葉琉の目を真っ直ぐに見つめた。
「ごめんなさい。もう決めたことだから」
葉琉は何か言おうとしたが、唇を閉じると私の手のひらから大きな手を離した。
「……わかった。困らせてごめん」
「ううん」
私の胸が鋭いモノで突き刺されたように、ぎゅっと痛む。
初めて知った恋の終わりの瞬間は、きっと一生忘れることはないだろう。
同じクラスで同じ美術部の葉琉と出会ったのは一年生の春。
鉛筆の貸し借りをした時に私はその優しい笑顔に一目惚れした。ずっと好きで苦しくて、二年生のバレンタインで思いが通じ合ったときは人生で1番といってもいいくらい幸せだった。
私の初恋であり初めての恋人だった。
まさかこんな風に別れる日がくるなんて、私もそして葉琉も想像してなかっただろう。
重い沈黙が流れるなか、私と葉琉はただ目の前の川の流れを見つめていたが、私は卒業証書の筒を握り直すと立ち上がる。
「……先にいくね」
「菜緒……いつかまた会えたらさ……」
その時、びゅっと春風が吹いて葉琉の言葉の最後はうまく聞き取れなかった。
聞き返そうかとも思ったが、何となくやめた。
これ以上、葉琉と話すのは辛い。
話せば話すほど、どんな小さな思い出も交わした言葉のカケラも、葉琉とのことは桜のように心の中を淡く薄紅色に色づけたまま、決して消えることも色褪せることもないから。
「……ありがとう。葉琉」
私はそう言って葉琉に背中を向けると、振り返ることなくその場を立ち去った。
※
──そして十年の月日が流れた。
私は短大卒業後、地元の小さな工場で経理として就職した。そして工場に営業にやってきた主人と出会い結婚した。健康な一人息子にも恵まれ、私はありきたりの幸せな暮らしを営んでいる。
今日は息子の桜大が風邪気味のため、駅ビルの中にできた新しい耳鼻科に散歩兼ねていく途中なのだ。
「まま……あそ……て」
(ん? あそこ見て?)
私は手を繋いでいる息子の視線の先を辿る。
河原を見れば、どこからか風に乗ってやってきた桜の花びらが川に身を任せて流れている。
「桜、きれいね」
「うんっ。さくら、さくら」
桜大が嬉しそうに指差しするのを見ながら、私は微笑む。そして桜大の小さな手を引きながら河原を横目にゆっくり歩いていく。
(今年もまた春がやってきたんだね……)
葉琉に別れを告げたこの河原は私の今、住んでいるアパートから少し離れているため、滅多に通ることはない。
久しぶりにこの河原を見れば、あの日別れた葉琉のことをやっぱり思い出す。
(なつかしいな……葉琉はいまどうしてるんだろう)
私の聴力は医師から言われていた通り、ほぼなくなってしまったが、最新の補聴器のお陰で本当に僅かだが音は聞こえる。
あとは誰かと話す際は唇の動きを読むことで、手話を使わなくとも日常生活はなんとか送ることができている。
あの日、葉琉の夢を心から応援したい気持ちと共にいずれ聴力をなくしてしまう自分は、葉琉に相応しくない、とどこか劣等感のような感情を抱いて別れを告げたことに後悔はない。
少なくとも、私と別れたことで真面目で誠実な葉琉はより勉学に邁進できたと思う。
夢を追う葉琉の姿が私にはまぶしく魅力的だった。そしてなによりも葉琉のことが本当に大好きだったから。
人生には人の縁というものが存在していると思う。
そして出会いの縁と同時に別れの縁も存在していて、色々な縁が複雑に絡み合うことで人は出会いと別れを繰り返し、人生を歩んでいく。
そうした人生の中で、別れても本当に縁がある人ならば再び出会えると信じたい。もしそんなことが起こればそれは奇跡と呼べるモノであり、素敵なことだと思う。
(もう葉琉とは出会うことはないのだろうけど……)
あの淡い青春の日々と恋の別れを思い出せば、ちょっぴり切なくなるが、それ以上に葉琉への想いがちゃんと思い出になっていることを実感して私はどこか安堵する。
(あの日、葉琉はなんて言ったんだろう)
もう答え合わせをすることはできないが、葉琉にはどこかで笑っていて欲しい。
いま、私がこうして幸せなように。
貴方にも幸せでいて欲しい。
(葉琉ならきっと大丈夫)
「まま、にこにこ……どうし…の?」
「ううん、なんでもないの」
私は桜大の頭をひと撫ですると、目的地の耳鼻科を目指した。
私は駅ビルに到着するとエレベーターに乗り込み、耳鼻科のある3階のボタンを押す。
私がこの耳鼻科を選んだのにはいくつか訳があった。ひとつは風邪気味といえ桜大は熱がある訳でもなく外に出たがったから。
もうひとつは、いつものかかりつけの病院が休診日だったこと。また今から受診する耳鼻科は初診でも予約できたためだ。
(小さい子がいると……予約できるのはありがたいな)
私は耳鼻科の扉を開けると受付を済ませる。間も無くしてすぐに診察室へと呼ばれた。
そして診察室へ入った瞬間だった──。
私は驚きのあまり思わず硬直してしまった。
10年分、歳を重ねたため、あの頃よりも随分大人の男性になっているが間違いなく葉琉だ。葉琉のトレードマークだった右目の下のホクロの位置も勿論同じだ。
(こんな偶然……)
声を発することなく固まっている私を見ながら、白衣を着た葉琉も目を見開いている。
「あ……えっと田中、桜大くんだね……どうぞ」
聞き覚えのある、少し高めの声に私は頷くと桜大を椅子に座らせた。
十年ぶりに見る葉琉は手際よく桜大を診察しながらパソコンに入力していく。
そしてその大きな手のひらの薬指には結婚指輪が光っている。
桜大の診察が終わると葉琉が私と目を合わせた。そして私が聞き取りやすいようにゆっくり唇を動かす。
「喉が少し赤いですが、10日ほど飲み薬を飲めば良くなると思います。症状が改善されなかったり熱がでたらまた受診してください」
「先生、ありがとうございました」
「えっと……はい」
葉琉は恥ずかしそうに首の後ろに手のひらを当てた。照れた時にする葉琉のクセだ。
そして葉琉は看護師にカルテを渡し看護師が別室へと移動するのを見て私は桜大の手をとり、ドアノブに手をかけた。
「待って」
その声に振り返れば、葉琉が困ったように眉を下げている。
「ごめん……最後まで他人行儀もなんだかなって……元気そうでよかった」
「私も……えっと……先生じゃなくて……葉琉が元気そうで嬉しい」
私の言葉に葉琉が目尻を下げて微笑む。
「俺も菜緒に会えて良かった。じゃあ桜大くん、お大事に」
「うん……あの……」
「なに?」
「あの日のことなんだけど……また会えたら、のあと……何て言ってくれたの……?」
葉琉は私の質問にふっと笑った。
「また会えたら、その時は笑ってくれてたらいいなって」
葉琉の言葉に胸が熱くなる。私と同じように葉琉も私を想っていてくれていたことが嬉しかったから。
「ありがとう」
「こちらこそ」
私は笑顔でお辞儀をすると診察室をあとにした。
※
帰り道、行きとはまた違う気持ちで私は桜大と河原を見ながら歩いていく。
──春は別れと出会いの季節。
これからの残りの人生も色々な出会いと別れを繰り返すのだろう。そんな人生のなかで私は今のささやかな幸せだけは守り続けたい。
それが葉琉と別れたあの日が正しかったという証にもなるから。
だから貴方もずっと幸せでいてね。
別れの先に、未来の笑顔と幸せが待っているのなら、その別れには大きな意味がある。
(大丈夫、ちゃんと笑えてるよ)
私は春風に舞う桜の花びらを見ながら、あの日の自分にそっと想いを馳せた。
2025.3.29 遊野煌
※フリー素材です。
私にとって高校生活に終わりを告げるとともに彼との別れの日だ。私と恋人の葉琉は卒業証書を片手に、互いに沈んだ顔で河川敷に座っていた。
理由は昨日、私から切り出した別れ話のせいだ。
河原を正面に見て、右に座っているのが私で左が葉瑠。私が彼の左側に座ることはない。
何故なら私の右耳は生まれつき聞こえないからだ。
そして左耳は補聴器を付けているのだが、左耳の聴力も徐々に低下している。先日の定期検診では主治医からあと一年ほどで聴力はほぼ無くなると診断された。
「……菜緒、別れるってなんで?」
葉瑠の少し高めの穏やかな声が春風に乗って左耳から心地よく聞こえてくる。
私はもう何度もシュミレーションした答えを脳裏に浮かべてからゆっくりと唇を開いた。
「うん……春から葉瑠は北海道の医学部に行くでしょう? 私は地元の短大だし遠距離って……難しいと思う」
「なるべく実家にも帰るし、毎日菜緒に連絡する。会えなくても寂しい思いはなるべくさせないから」
葉瑠がそう言うと、私のわずかに震えている左手にそっと大きな手を重ねた。
その温かい手のひらに決意はすぐに揺らぎそうになる。
葉琉にはただ真っ直ぐに夢を追いかけて欲しい。
医師になって沢山の人を救って欲しい。
そのために私のことで悩んだり悲しんだりする時間を葉琉に過ごしてほしくない。そんな私の自分勝手に決めたこの別れが彼が望んだものではなかったとしても。
「もう決めたの。それに前ほど葉琉のことが好きかわからなくなったから……」
本当は好きじゃなくなった、と突き放す方がいいとわかってはいるけど今の私にはこれが限界だ。嘘を突き続けるのは苦しい。
私は込み上げてくる涙をなんとか堪える。
「ほんとに?」
「うん……でもこれからも葉琉のこと……ずっと応援してるから」
「…………」
葉琉は唇を噛むと、桜の花びらが浮かんだ川を静かに見つめた。
恋は儚い。恋は桜とよく似ている。美しく尊い時間はあっという間で気づけば涙を湛えて散っていく。
葉琉はきっと私の耳が聞こえなくなったら酷く悲しむのだろう。
悲しむどころか、この世界から音がなくなった私を心配するがあまり、私を支えるため北海道の医大へ行くのを諦め一浪して地元の大学を受け直すかもしれない。
葉琉がいつだって向けてくれるまっすぐな愛情は嬉しい。けれど時折、心が重たくなってしまう。
だから私は別れを選んだ。
葉琉のこれからの人生を私のために、一ミリだって無駄にしてほしくない。
「俺は……別れたくない」
苦しげにそう呟いた葉琉の言葉に、私の片目から堪えきれずに涙がひと雫転がった。
(葉琉……本当は私もね……ずっと一緒にいたいよ)
そう言えたらどれほどいいだろう。
でもきっと今、別れなければ私はこれから色々な場面で後悔する。
葉琉と別れることが、私が葉琉から今までたくさん貰った愛情へのお返しだ。
(いつかまた会えたら……その時は笑えてるかな)
私は奥歯をぐっと噛み締めると、手の甲で雑に涙を拭い葉琉の目を真っ直ぐに見つめた。
「ごめんなさい。もう決めたことだから」
葉琉は何か言おうとしたが、唇を閉じると私の手のひらから大きな手を離した。
「……わかった。困らせてごめん」
「ううん」
私の胸が鋭いモノで突き刺されたように、ぎゅっと痛む。
初めて知った恋の終わりの瞬間は、きっと一生忘れることはないだろう。
同じクラスで同じ美術部の葉琉と出会ったのは一年生の春。
鉛筆の貸し借りをした時に私はその優しい笑顔に一目惚れした。ずっと好きで苦しくて、二年生のバレンタインで思いが通じ合ったときは人生で1番といってもいいくらい幸せだった。
私の初恋であり初めての恋人だった。
まさかこんな風に別れる日がくるなんて、私もそして葉琉も想像してなかっただろう。
重い沈黙が流れるなか、私と葉琉はただ目の前の川の流れを見つめていたが、私は卒業証書の筒を握り直すと立ち上がる。
「……先にいくね」
「菜緒……いつかまた会えたらさ……」
その時、びゅっと春風が吹いて葉琉の言葉の最後はうまく聞き取れなかった。
聞き返そうかとも思ったが、何となくやめた。
これ以上、葉琉と話すのは辛い。
話せば話すほど、どんな小さな思い出も交わした言葉のカケラも、葉琉とのことは桜のように心の中を淡く薄紅色に色づけたまま、決して消えることも色褪せることもないから。
「……ありがとう。葉琉」
私はそう言って葉琉に背中を向けると、振り返ることなくその場を立ち去った。
※
──そして十年の月日が流れた。
私は短大卒業後、地元の小さな工場で経理として就職した。そして工場に営業にやってきた主人と出会い結婚した。健康な一人息子にも恵まれ、私はありきたりの幸せな暮らしを営んでいる。
今日は息子の桜大が風邪気味のため、駅ビルの中にできた新しい耳鼻科に散歩兼ねていく途中なのだ。
「まま……あそ……て」
(ん? あそこ見て?)
私は手を繋いでいる息子の視線の先を辿る。
河原を見れば、どこからか風に乗ってやってきた桜の花びらが川に身を任せて流れている。
「桜、きれいね」
「うんっ。さくら、さくら」
桜大が嬉しそうに指差しするのを見ながら、私は微笑む。そして桜大の小さな手を引きながら河原を横目にゆっくり歩いていく。
(今年もまた春がやってきたんだね……)
葉琉に別れを告げたこの河原は私の今、住んでいるアパートから少し離れているため、滅多に通ることはない。
久しぶりにこの河原を見れば、あの日別れた葉琉のことをやっぱり思い出す。
(なつかしいな……葉琉はいまどうしてるんだろう)
私の聴力は医師から言われていた通り、ほぼなくなってしまったが、最新の補聴器のお陰で本当に僅かだが音は聞こえる。
あとは誰かと話す際は唇の動きを読むことで、手話を使わなくとも日常生活はなんとか送ることができている。
あの日、葉琉の夢を心から応援したい気持ちと共にいずれ聴力をなくしてしまう自分は、葉琉に相応しくない、とどこか劣等感のような感情を抱いて別れを告げたことに後悔はない。
少なくとも、私と別れたことで真面目で誠実な葉琉はより勉学に邁進できたと思う。
夢を追う葉琉の姿が私にはまぶしく魅力的だった。そしてなによりも葉琉のことが本当に大好きだったから。
人生には人の縁というものが存在していると思う。
そして出会いの縁と同時に別れの縁も存在していて、色々な縁が複雑に絡み合うことで人は出会いと別れを繰り返し、人生を歩んでいく。
そうした人生の中で、別れても本当に縁がある人ならば再び出会えると信じたい。もしそんなことが起こればそれは奇跡と呼べるモノであり、素敵なことだと思う。
(もう葉琉とは出会うことはないのだろうけど……)
あの淡い青春の日々と恋の別れを思い出せば、ちょっぴり切なくなるが、それ以上に葉琉への想いがちゃんと思い出になっていることを実感して私はどこか安堵する。
(あの日、葉琉はなんて言ったんだろう)
もう答え合わせをすることはできないが、葉琉にはどこかで笑っていて欲しい。
いま、私がこうして幸せなように。
貴方にも幸せでいて欲しい。
(葉琉ならきっと大丈夫)
「まま、にこにこ……どうし…の?」
「ううん、なんでもないの」
私は桜大の頭をひと撫ですると、目的地の耳鼻科を目指した。
私は駅ビルに到着するとエレベーターに乗り込み、耳鼻科のある3階のボタンを押す。
私がこの耳鼻科を選んだのにはいくつか訳があった。ひとつは風邪気味といえ桜大は熱がある訳でもなく外に出たがったから。
もうひとつは、いつものかかりつけの病院が休診日だったこと。また今から受診する耳鼻科は初診でも予約できたためだ。
(小さい子がいると……予約できるのはありがたいな)
私は耳鼻科の扉を開けると受付を済ませる。間も無くしてすぐに診察室へと呼ばれた。
そして診察室へ入った瞬間だった──。
私は驚きのあまり思わず硬直してしまった。
10年分、歳を重ねたため、あの頃よりも随分大人の男性になっているが間違いなく葉琉だ。葉琉のトレードマークだった右目の下のホクロの位置も勿論同じだ。
(こんな偶然……)
声を発することなく固まっている私を見ながら、白衣を着た葉琉も目を見開いている。
「あ……えっと田中、桜大くんだね……どうぞ」
聞き覚えのある、少し高めの声に私は頷くと桜大を椅子に座らせた。
十年ぶりに見る葉琉は手際よく桜大を診察しながらパソコンに入力していく。
そしてその大きな手のひらの薬指には結婚指輪が光っている。
桜大の診察が終わると葉琉が私と目を合わせた。そして私が聞き取りやすいようにゆっくり唇を動かす。
「喉が少し赤いですが、10日ほど飲み薬を飲めば良くなると思います。症状が改善されなかったり熱がでたらまた受診してください」
「先生、ありがとうございました」
「えっと……はい」
葉琉は恥ずかしそうに首の後ろに手のひらを当てた。照れた時にする葉琉のクセだ。
そして葉琉は看護師にカルテを渡し看護師が別室へと移動するのを見て私は桜大の手をとり、ドアノブに手をかけた。
「待って」
その声に振り返れば、葉琉が困ったように眉を下げている。
「ごめん……最後まで他人行儀もなんだかなって……元気そうでよかった」
「私も……えっと……先生じゃなくて……葉琉が元気そうで嬉しい」
私の言葉に葉琉が目尻を下げて微笑む。
「俺も菜緒に会えて良かった。じゃあ桜大くん、お大事に」
「うん……あの……」
「なに?」
「あの日のことなんだけど……また会えたら、のあと……何て言ってくれたの……?」
葉琉は私の質問にふっと笑った。
「また会えたら、その時は笑ってくれてたらいいなって」
葉琉の言葉に胸が熱くなる。私と同じように葉琉も私を想っていてくれていたことが嬉しかったから。
「ありがとう」
「こちらこそ」
私は笑顔でお辞儀をすると診察室をあとにした。
※
帰り道、行きとはまた違う気持ちで私は桜大と河原を見ながら歩いていく。
──春は別れと出会いの季節。
これからの残りの人生も色々な出会いと別れを繰り返すのだろう。そんな人生のなかで私は今のささやかな幸せだけは守り続けたい。
それが葉琉と別れたあの日が正しかったという証にもなるから。
だから貴方もずっと幸せでいてね。
別れの先に、未来の笑顔と幸せが待っているのなら、その別れには大きな意味がある。
(大丈夫、ちゃんと笑えてるよ)
私は春風に舞う桜の花びらを見ながら、あの日の自分にそっと想いを馳せた。
2025.3.29 遊野煌
※フリー素材です。



