この世界が大嫌いだった。
学校も。
「あかりとか……名前間違えたんじゃねぇの?お前に似合わねぇっつうの」
私だって、こんな名前似合わないって思っているよ。
「マジ地味なんですけど。……隣のマミ可哀そう。あんな地味子とペア学習なんて」
私だって、こんな自分が嫌いなんだよ。
「……マジ空気。いなくてもかわんねぇ」
じゃあ、一層のこと構わないでほしい。
「……一層、不登校にでもなっちゃえば?」
……お前らがなれよ。
お前らさえいなくなってしまえば……!
家も。
「あかり……百合《ゆり》を見習いなさい。なんで、あんなバカ高校でトップとれないの?」
有名大学行った姉ちゃんと比べないでよ。
「なんで、百合とこんなにも差が出たのかしら……」
私だって、毎日勉強頑張ってるんだよ?
なんで認めてくれないの?
「あかりは可哀そうだね。私と比べられて」
姉ちゃんさえいなければ……
あんたさえいなければ私は……!
日に日に汚くなっていく。
日に日に醜い感情が生まれる。
そんな自分が何よりも、誰よりも大っ嫌いだった。
だけど、海だけが
私を慰めてくれた。
海が私の汚い、醜いこの想いを洗い流してくれるような気がした。
海だけが私の味方だった。
海だけが私の泣ける場所だった。
✳
波が押しよせて、やがてゆっくりと引いてゆく。
この町の海は灰色だ。
それでもいい。
こんな灰色の海でも、この海は私の味方でいてくれる。
私は今日も、学校帰り遠回りをして、この海を見るためだけにこの場所に来る。
自分の汚い部分を洗い流すために、靴を脱いで、足だけ、海に浸す。
「……冷たっ……」
思わず声が出る。
ぽたっと海に落ちる1粒の涙。
嗚咽は出ない。
ただ、自然と目から涙が溢れるだけ。
この時間、この場所に来て、私は涙を流す。
悲しいから、悔しいから涙が出るわけじゃない。
この醜い世界に、確かに私は生きているんだって、実感したいだけ。
だから、この涙に特に意味はない。
潮風が私の涙を乾かしてくれる。
細かい砂がが私の足を優しく包み込んでくれる。
沈みゆく夕日が、私を温かく照らしてくれる。
冷たい海が、私の落ちた涙をさらってくれる。
ここには確かに、私の味方がいた―――。
夕日が沈むのを見届けると、私はタオルで足を拭く。
面倒くさいから、靴下は履かずに、靴を履く。
薄暗い道を1人歩く。
ものの10分ほどで家に着く。
ガチャリと私は玄関の扉を開け、一応「ただいま」と小さく言って中に入る。
玄関から見えたリビングの扉から、明かりが見えた。
微かに、お父さんとお母さんの話声が聞こえる。
だけど、返事はない。
いつものこと。
今更、悲しむ必要なんてない。
私は、リビングの扉の前を素通りして、自分の部屋に続く階段へと向かう。
「……あかり」
背後から呼ばれた私の名前。
その声は、冷めきっていた。
「何」
私は足を止めて、後ろを振り返る。
お母さんが私に話しかけてくるなんて珍しい。
いつも私のことを空気のように扱うのに。
―――いつからそんな冷めた瞳で私のこと見るようになったの?
今更、こんなことで悲しいなんて思わないけどさ。
今更、寂しいなんて思わないけどさ。
「あんた、もう明日から夏休みなんでしょ?バカ校だし夏休み中補習なんてないわよね。おばあちゃんのところに行きなさい。夏休みの間ずっと。明日、空港まで送るから今日のうちに荷物まとめとくのよ」
―――あなたは家にいても邪魔だから。
私にはそうとしか聞こえなかった。
特に返事はせずに、私は再び階段を上り始めた。
そして、自分の部屋に着くなり、ため息をついて、荷物を適当に床に置いた。
机の上には、お母さんの作った夕食が置かれてある。
冷たいご飯と、冷たいハンバーグと、冷たいスープ。
おいしいとか、そんなものは分からない。
ただ、おなかが減ってるから食べるだけ。
食べ終わってから私は、大きな旅行用カバンに荷物を詰め込み始めた。
10分ほどで完了してしまうくらい、私の荷物は少ない。
ベッドへとダイブして、再び大きく息を吐く。
明日からしばらくこのベッドともおさらばになってしまう。この町を離れることになる。
夏休み、プライベートで遊ぶような友達がいるわけじゃない。しばらくここを離れることになんの悲しみも感じない。
海さえあれば、私はどこに行こうとも悲しみはしない。
確か、おばあちゃんのいるところは、小さな南の島だったような気がする。
ずっと昔、一度だけ行ったことがある。
あんまり、よく覚えてないけど。
島なんだし、海あるよね。
ここの海のように、灰色なのかな。
✳
朝早くに、私はお母さんに空港まで車で連れて行かれた。
そして、私に航空チケットと、1万円と、1枚のメモ用紙を渡してお母さんは去っていく。
あとは自分でどうにかしなさいってこと。
メモ用紙には、おばあちゃんちの住所が書いてあった。
私は高校2年生にもなった。
だから住所さえ渡してくれれば余裕で行けるって、そう思っていたんだけど―――。
小さな渡船でこの島に来た。
小さな港町に下ろされて、私は立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは海。
どこまでも、どこまでも続く海。
キラキラと太陽の光を反射して、私の目に綺麗に映る。
あの町の海とは大違いだった。
ただ、海に見とれている場合じゃない。
まずは、ばあちゃんの家探さなきゃ。
一先ず私は、近くにいた漁師さんと思われる人に、思い切って、声をかけてみる。
「あの……」
私が小さな声でそういうと、その漁師さんは作業していた手の動きを止めて、私のほうを振り返った。
「見ない顔だね。観光かい?」
そういって、漁師さんは見ず知らずの私に、にっこりと笑いかけてくる。
漁師さんの笑顔に安心して、少し緊張が和らぐ。
歳は多分60歳くらいの、笑顔が印象的な漁師さん。
「あ、あの、おばあちゃんの家探してて。この住所への行き方教えてほしいんですけど」
私はその漁師さんに一歩近づいて、おばあちゃんの家の住所が書いてあるメモ用紙を見せた。
「ああ、もしかして、海瀬《かいせ》さんちのお孫さんかい?」
漁師さんは、キラキラと光る瞳で、私を見てきた。
その瞳はまるで、太陽の光を反射する海のようだと思った。
「……あ、はぃ……」
私はぎこちなく返事をすると、漁師さんは、そうかそうかと言って再び優しく笑う。
それから猟師さんは私から何も言わずに離れ、近くにあった軽トラに向かって歩いて行った。
あたしは、どうすればいいのか分からずただ、その場に立ち尽くす。
「海瀬さん家のお孫さんなら、俺が送って行こう。俺の家は、海瀬さんの家の向かいなんだ」
漁師さんはそういって、軽トラの助手席の扉を開けてくれた。
これって乗れってこと?
漁師さんは、戸惑う私をよそに、助手席の扉を開けたまま、運転席に乗り込む。
そして、軽トラのエンジンをかけた。
このまま、立ち尽くしている訳にもいかず、私はゆっくりと軽トラに近づく。
こんな優しそうな漁師さんが、明らかに何ももっていない私をどうこうするとか考えられないし。なんの利益もないし。
信じてみても、いいよね。
私はゆっくりと、軽トラに乗り込み、シートベルトをしめた。
私が乗り込んだ途端、漁師さんは、車を発進させた。
エアコンの冷たい冷気があたしの顔にあたる。
体の汗がだんだん引いていくのが分かる。
「ところで君、名前はなんていうんだい?」
漁師さんは運転しながら、優しい声で聞いてくる。
ドクンと心臓が強くなったのを感じた。
名前は私のコンプレックス。
『あかりとか……名前間違えたんじゃねぇの?お前に似合わねぇっつうの』
クラスメイトの言葉がフラッシュバックする。
だけど、私はそれをぐっと、飲み込んだ。
そして私はゆっくりと口を開く。
「……光明……あかりです……」
自分が思っていた以上に弱々しい声だった。
情けない。
こんなことで、折れそうになる自分が情けなくてたまらない。
「あかりちゃんか。いい名前じゃないか」
にっこりと笑ってくれる漁師さん。
初めて、名前をほめられた。
だけど、少しだけ。
ほんの少しだけ、漁師さんの顔が切なく見えたのは、あたしの気のせいだろうか。
「あかりちゃんは見たところ、高校生かい?」
再び、質問してくる漁師さん。
もう、元の漁師さんの笑顔に戻っていた。
きっと沈黙で気まずい雰囲気にならないよう、気を使ってくれているのだと思う。
「はい、高校2年生です」
その漁師さんの優しさが少しずつ、私の緊張をほぐしていくのがわかる。
「そうかそうか!じゃあ、うちのヒカルと同じ年だなぁ」
そういって、さらに笑顔になる漁師さん。
目尻にシワを寄せ、すごくうれしそうな顔をしている。
「あかりちゃんは、夏休みの間、ここにいるのかい?」
「あ、はい」
「そうかそうか。そりゃ、しばらくは賑やかになるなぁ。さあ、ついたぞ」
漁師さんは、車を止めてエンジンを切った。
エアコンも止まり、むわっとした空気が車内に押し寄せる。
私は、その空気から逃げるように、シートベルトを外し、車の扉を開け、車内から降りた。
漁師さんも私と同じタイミングで、車から降りる。
「さぁ、ここが、海瀬さん家だ」
漁師さんが、目の前の家を指さしながらそう言った。
「あ、ありがとうございました」
私はそういって、小さな旅行バックを持ち直して漁師さんに礼を言う。
「海瀬さんにはうちのヒカルもお世話になってるからなぁ。またよろしく伝えといてれ。じゃ、またな」
そういって、漁師さんは笑顔で車へと戻って、足早に行ってしまった。
まだもしかしたら仕事が残っていたのかもしれない。
申し訳ないことをしたな、と思いながら、私は走り去る軽トラに一礼した。
1人残された私の目の前にある家には、『海瀬』という少し古びた標識があった。
間違いない。
ここがおばあちゃんの家。
多分、平屋で凄く大きい。
昔ながらの日本家屋で趣がある。
インターフォンとかあるはず……ないか。
私はゆっくりと玄関の扉に手をかけた。
「……っ!」
あれ、開かない?
次は両手に全体重をかけて思いっきり、ドアを横にずらす。
「……っくっ!」
重っ!
やっとの思いで、あたしは1人分入れる隙間を開ける。
そしてまず、荷物を中に入れてから、私は横になって体を滑り込ませた。
最後に、再びありったけの力を込めてあたしは扉を閉めた。
扉開け閉めしただけなのに、この疲労感。
「はぁ……っ」
私は肩で息をして、呼吸を整える。
「……おや、あかりちゃんかい?」
優しい声が私の後ろから降ってきた。
ゆっくりと後ろを振り返るあたし。
そこには優しい顔で立ってる、何年振りかのばあちゃんの姿があった。
「よう来たねぇ」
笑顔で私に声をかけてくれる、おばあちゃん。その笑顔をみて安心する私。
いつ以来だろう。
こんなに優しく出迎えられたのは。
涙腺が緩むのがわかり、ぐっとあたしはこらえた。
荷物をしっかり持見直して、私はおばあちゃんの顔を見る。
「ばあちゃん……」
何を話せばいいのか分からなくて、結局名前を呼ぶことしかできない。
おばあちゃんは何かを察したのか、笑顔で、「おあがり」と言ってくれる。
私は、広い玄関に靴を綺麗にそろえて、急いでおばあちゃんの小さな後姿を追いかけた。
薄暗く長い廊下を少し行ったところに、襖があって、おばあちゃんはその扉を横に開けた。
視界が開けた。
太陽の光が、差し込む部屋。
そこには、畳があって、縁側もある。
窓は全部開けられていて、時たま風が吹きぬける。
その風に煽られて、チリンと風鈴の音が鳴る。
縁側には、うちわを仰いで涼む、おじいちゃんの小さな背中があった。
「おじいさん。あかりちゃんが来ましたよ」
ばあちゃんが優しい声で、縁側にいるおじいちゃんに話しかけた。
すると、おじいちゃんはゆっくりと振り返る。
「おお、大きくなったな、あかり」
そう私に優しく微笑むおじいちゃん。
思わず下を向いてしまう私。
こうしてないと、泣きそうになるから。
心臓が締めつけられているのがわかる。
この場所が一瞬で居心地のいい空間へと変わった気がした。
隣でおばあちゃんが、笑顔で私の顔を見ている。
おじいちゃんが、私に微笑んでくれている。
こんな世界、私にもあった。
こんな、透き通るような透明で、キラキラしている世界が、私にもあった。
「今日はあかりちゃんが来たからご馳走にしないとねぇ。おじいさん。畑から野菜とってきてくださいな。あかりちゃんの部屋、千智のいた部屋でもいいかねぇ」
そうおばあちゃんが思い出したようにそう言い、おばあちゃんの動きが急に忙しなくなる。
お母さんの部屋。
一瞬、身体に寒気が走った。
「ああ、いいだろう。わしが、案内しようか。おいで、あかり」
そんな私に構わず、おじいちゃんは私のほうへと近づいて、きて再びあの薄暗い長い廊下へと出て行った。
私はその後ろを追いかける。
歩くたびに床板が軋み、2人の足音だけが、暗い廊下に響く。
廊下は比較的ひんやりとしていて、あの外の暑さを微塵も感じさせなかった。
角を2つほどまがったところで、目の前のおじいちゃんが、足を止めた。そして、ある部屋の扉の前に立つ。
そして、おじいちゃんはそのまま襖を片手で開け、私に入っておいでと、にこっと笑顔を向ける。
私はおじいちゃんの後に続いて、部屋へと入る。
お母さんの過去がある部屋。
それは想像通りだった。
「好きに使っていいからな」
おじいちゃんはそう笑顔でいって、部屋を出て行った。
この部屋にあるのは、シンプルな勉強机と、ベッドだけ。机にはもちろん何も置かれてないし、ベッドはきっと、ばあちゃんが最近、すのこに布団を引いたのだと思う。
ここが今日から私の部屋。
夏休みの、約一か月間の私だけの空間。
開けられていた窓から、ふわっと風が吹きこんできて、蝉の声が聞こえてくる。
この夏は何か、変わりそうな気がした。
この部屋から見えた空は、雲一つない真っ青で。あの町の空よりもきれいだった。
海に行きたい。
この島の海に。
✳
「あかりちゃーんっ!ごはんが出来ましたよ」
おばあちゃんの私を呼ぶ声が聞こえた。
私は、荷物整理をやめて、自分の部屋を出た。
長く涼しい廊下を抜けて、おばあちゃんとおじいちゃんがいるであろう居間の襖を開けた。
襖を開けた瞬間漂ってくる匂いは、温かかった。
居間はもう冷房が効いていて、火照った体が冷えていく。
畳の上にある小さめのちゃぶ台の上には、おばあちゃんの手作りのごちそうがすでに並べられていた。
おじいちゃんが1人そこに座って、私に笑いかけてくる。
「おお、あかり。きたか」
私が座るであろう座布団を、おじいちゃんは軽く叩いた。
ここにお前の居場所がある。
そういわれたような気がした。
何年振りだっけ。
人と料理を囲んで食べるのは。
こんなに温かい料理を食べるのは。
「あかりちゃん。立ち尽くしてないで。ほら、食べようかね」
おばあちゃんが、最後の料理を手に持って台所から出てきた。
私は、おじいちゃんが用意してくれた座布団の上に座った。
「おじいさん、何年振りかねぇ。あかりちゃんとこうしてごはん食べるのは」
おばあちゃんがそういいながら、料理を机の上に置いて、ゆっくりと座った。
「そうだなぁ。さて、合掌しようか」
おじいちゃんがにこやかな顔のままで、手を前に合わせた。
おばあちゃんも同じようにする。
私も同じ動きをした。
「いただきます」
「……だきます……」
おじいちゃんとおばあちゃんの声に、遅れてしまう私の弱々しい声。
「ささ、たくさんおあがり」
だけど、そんなことを二人は気にする様子なく、おばあちゃんがそう言って優しい笑顔を向けてくれる。それだけで胸がいっぱいだった。
なんでそんなに、おじいちゃんもおばあちゃんも、あたしに優しくしてくれるの?
私、お姉ちゃんに比べたらなんの取り柄もないでしょ?
私クラスで陰口言われるほど、地味だしつまんない奴なんだよ。
なんで、そんな優しい目であたしを見てくれるの。
「……あかりちゃん?」
おばあちゃんの声が、さっきと違うのが分かる。
私のことを心配してくれているような……そんな声。
私は、少し溢れ出てしまった涙を誤魔化すように拭って無理やり顔をあげた。
そして、目の前にあるおいしそうな料理を適当に口に入れて頬張る。
おいしかった。
また涙が溢れ出そうになるくらいに、おいしかった。
久しぶりだった。
こんなに温かい料理を食べたのは。
いつもお母さんが用意してくれるのは冷蔵庫で冷やされた、冷たい料理だったから。
涙が溢れそうになるのを、私は必死にこらえた。
だって、おじいちゃんもおばあちゃんも幸せそうに私を見てくるから。
しわしわのつぶらな優しい瞳で私を見てくるから。
悲しませちゃいけない。
心配なんかけちゃいけない。
そう自分に言い聞かせて、その日、私はただただ、目の前にある幸せの塊たちを口の中に詰め込み続けた。
✳
翌日。カーテンから少し漏れる朝日と、鳥の声で目を覚ます。
なんて健康的な目覚め方。
ベッドから、体を起こして体を伸ばしてみる。
少し寝癖の付いた髪を手ぐしで適当にとかしながら、ベッドから降りる。
部屋を出て、おじいちゃんとおばあちゃんがいるであろう、居間に向かう。
「あら、あかりちゃん。おはよう」
「おお、あかり早起きじゃないか」
おばあちゃんは朝食の準備中。
おじいちゃんは、ちゃぶ台に座りながら、新聞を広げている。
2人とも、優しく私に笑いかけてくれる。
私は、おばあちゃんのいる台所に向かい、一緒に朝食の準備をした。
おばあちゃんは笑顔で、ありがとうねって言ってくれる。お礼を言いたいのは私のほうなんだけど、まだその言葉は恥ずかしくて言えない。
暫くして、ちゃぶ台には典型的な和食朝食が並び、私とおばあちゃんも座った。
そして、合掌して温かい朝食を食べる。
時々、窓から風がふわっと入ってきて、チリンと風鈴の音がきれいに響いていた。
「あ、そういえば、さっき一ノ瀬《いちのせ》さんと出会ってな。今夜、一緒にどうだと言われたよ」
朝食を食べ始めたところで、おじいちゃんが思い出したように、そんなことを口に出した。
「一ノ瀬さんが……。あ、あそこにはヒカル君もいるから、およばれしようかねぇ。あかりは大丈夫かい?」
おばあちゃんが優しい笑顔を私に向けてくる。
ヒカルって、どこかで聞いたことがあるような。
「一ノ瀬さんっていうのは、あかりを、ここまで送ってくれたあの漁師さんのことだよ」
おじいちゃんが何かを察したのか、そう言葉を付け足す。
あ、あの漁師さんか。
そういえば、ヒカルってその漁師さんが言ってたんだ。
あの、漁師さんなら、大丈夫かな。いい人そうだったし。
「うん。いく」
私は笑顔でそう返事をした。
すると、じいちゃんは、じゃあ、言っておかないとなと言って、優しく笑った。
「あ、そういえば、あかりちゃん、海は好きかい?」
おばあちゃんが再び私に話しかけてくる。
暫く見てない。
暫く涙を流してない。
暫くあの温度に触れていない。
この島の海を、感じてみたい。
「うん」
「そうかそうか。ヒカル君も好きでねぇ。この家を出て、右にまっすぐ行ったところに、砂浜があるから、あとで行っておいで。この島の海はきれいだから」
おばあちゃんが、私に笑顔でそう話した。
綺麗な海。近くにある。
あたしの味方。近くにいる。
この島にもいる。
私は、その後急ぎめで朝食を食べ、食器を片づける。
そして、いってきますといって、あの重い玄関から私は外に出た。
真夏だからか、まだ朝の7時だというのに、もうすでに日の下は暑い。
私は出来るだけ日陰を見つけて海へと急いだ。
最初は速足で歩いていたけど、我慢できなくなって駆け出す。
頬を伝う汗が気持ちよく感じた。
髪を乱す風が爽やかで気持ちよかった。
地面を押す自分の足が軽かった。
早くあの場所へ。
早く、早く、早く。
速く、速く速く。
あ、聞こえた。
あたしを包み込む、あの音が。
私は砂浜で立ち止まる。
目の前には、つい先ほど上ったばかりの朝日。
その光に照らされるのは綺麗すぎる青い世界。
私は靴を脱いで、少しずつ、少しずつ海へと近づいてくる。
引いて……それから私のほうへと波がやってくる。チャプンと少しだけ音を立てて、私の足に水がつかる。
「……っ!」
冷たい。
だけど、この海は温かい。
優しく私を包み込んでくれる。
キラキラと輝く水面は1つも濁ることなく私の目に綺麗に映る。
私の足がはっきりと見える。
透明な海。嘘のない。
透明な透き通る海。
すると急に大きな波が押し寄せてきて、私の膝まで水につかった。
その冷たさに、思わず私は顔をあげる。
―――あたし1人だけじゃなかったんだ。
どうやら、先客がいたようだ。
私の、左に少し行ったところにある大きな岩。
その岩の影にいた、1人の青年。
朝日に照らされて、キラキラと光る、日に焼けた茶髪。
気まぐれに吹く海風に髪がさらさらと揺れていた。顔は下を向いていてよく見えない。
なんとなく目が離せなかった。
その瞬間ポタッと落ちた水滴。
私のじゃない。彼の。
彼のうつむいた顔から……滴が一滴零れ落ちた。
もしかして、泣いてるのかな。
その瞬間、強く風がふき、近くにあった木々が揺れて、私たちの髪を乱した。
彼は顔をあげて、私のほうを見てくる。
彼と目が合う。
目が離せなかった。
時が止まったかのように感じた。
彼の切なげな瞳に私は囚われた。
そして、私にはわかった。
やっぱり、彼は泣いてたんだって。
だけど、彼は何事もなかったかのように私を見て笑った。
さっきまで、泣いていたのは思えないくらいの笑顔で。
急に鼓動が早くなる私の心臓。そんな私に構わず彼はゆっくりと私に近づいてきた。
いつもの私なら、きっと逃げるんだろうけど、この海のせいだろうか。足が全く動かなかった。
「君、この島の子じゃないね」
そう大声でこちらに話しかけてきた彼。
無邪気な顔で笑った彼は、キラキラと輝いていていて、私しの目には少し眩しすぎた。
日に焼けた小麦色の肌と真っ黒な瞳。
にかっと笑うと白い歯がきれいに見える。
水音を立てながら彼が無遠慮でこちらに近づいてきた。
「……っ!」
思わず身を引いてしまう私。
こんなに近くに来ないでよ。
私のこと、何も知らないからって……。
「そんなに怯えんなよ。……俺、ヒカル。輝くって書いて輝。あんたは?」
私の目の前まで来ると、彼はそう私の顔を覗き込むようにして、そうい聞いてきた。
ヒカル……?
あの、輝……?
そういえば、そのキラキラした瞳は、あの漁師さんにそっくりだ。
「……光明……あかり。ひらがなであかり」
気がつけば、自分の名前を言ってしまっていた。
「ふーん。あかりね。……なに、あかりは観光で来たわけ?」
無神経なのだろうか。
普通、初対面の女の子のこと下の名前で呼ぶ!?
と、思いながらも平静を何とか装う。
完全に相手ペースになっているのが分かった。
「ちがう、おばあちゃん家に来ただけ」
「いつ帰るの?」
「夏休み終わったら」
「じゃあ、しばらくはいるんだなっ!海好きなんだ?」
「……まぁ」
だけど、彼が細かく質問をかけてくるからこちらとしては非常に答えやすかった。
私は人見知りだから、自分から話しかけることとか、質問とかすることできない。
「俺も……」
そういって、水平線を眺める輝はキラキラと輝いていた。
だけど、どこか切なげで……悲しい目をしてた。
――――なんで、あそこで泣いてたの?
それを、今聞くのなんだか違う気がして、そのまま言葉を飲み込んだ。
「ちょっと潜ってみるか?」
すると彼が急に、私のほうを向いて、にかっと笑う。
その笑顔は、あの海を照らす朝日みたいだと思った。
ただ、ちょっと待ってほしい。
潜る?
私は今、水着とか着てないし、持ってもいない。
だけど彼は、私の返事を待つ様子はなく、着ていたTシャツを脱いで、近くの岩場に濡れないように置く。
Tシャツの下に隠していたきれいな筋肉があらわになる。
無駄な肉なんて1つもなくて、腹筋も綺麗に割れていた。
「……何?変態」
彼は少し前髪をかきあげて、意地悪な顔を向けてくる。
そんな、姿さえ様になる。
「……ちがっ!」
私は、少し火照った顔を手で覆いながら、顔をそらした。
思わず見惚れてしまってた。
「おばあちゃんの家ここから近い?」
だけど、彼はそんな私の反応に構わず、私の家の場所を確認してくる。
おばあちゃんの家は海から歩いて5分ほどのところにある。だから…。
「近いけど」
遠くはない。
遠くはないけど……。
「じゃ、濡れてもいいか。よし、いくか」
彼は私の手を引いて、海へと引っ張っていく。
そういうことを彼ならば言い出しかねないなと思っていたら、案の定彼ペースで事が進んでいくこの状況。
「え、ちょっとまって、私……」
海潜るのなんて初めてなんですけど……。
「ほらよ」
急に彼から私へシュノーケルが投げられる。
だがしかし。私は、こんなもの使ったことはない。
戸惑う私をよそに、彼は立ち止まって、シュノーケルを器用に自分の頭にセットしている。
そして私たちはすでに腰まで海につかっている。
「つけろよ。大丈夫浮いているだけだから。見せてやるよ。この島の海」
そういって、屈託のない笑顔を向けられたら、逆らう気力なんて起きない。
もう、身を任せよう。そう思った。
私は、見よう見まねでシュノーケルを自分の頭にセットした。
再び握ってくる彼の大きな手。
その手は何故か安心した。
そして、彼に連れられて、ゆっくりとゆっくりと私は海の中へと沈んでいった。
――――あの、灰色の海とは大違いだった。
この温度も、この色も、何もかも。
この海は私に優しかった。
「ここくわえるんだ。しっかり歯でくわえろよ。水入ってくるからな」
そういってマウスピースを口にくわえた彼。
私も見よう見まねで、彼と同じようなことをした。
彼がマスク越しに笑ったのが分かった。
そして、私の手を引いて、彼は更に海の中へと進んでゆく。
もう水は胸のあたりまできていた。
もうこれ以上進んだら足がつかなくなる。
大きな波が来たら確実に私たちは沈んでしまう。
「……足浮かせろ。手ぜってえ離すなよ」
ふと隣から聞こえた彼の声。そして彼は私の隣で水面に浮いた。
私も足を地面から離して、彼と同じように水面に浮いた。
チャプンと小さく音を立てて、私は海の世界へと入って行った。
そこは透明だった。
海底約1mほどの浅瀬だけど、そこはすでに海の世界だった。
透明な世界。
嘘や偽りなどない綺麗な透明な世界。
こんな世界が、あったんだ。
時々小魚が目の前を通り過ぎてゆく。
色とりどりの綺麗な魚が、私の目の前を悠々と泳いでゆく。
自由なんだ。
彼らは、この海で自由なんだ。
自分の息をする音と海の波の音だけが耳に聞こえる。
くいっと私の手を、輝が引っ張った。
そして、前のほうを指さす。
もっと奥に行くってこと?
私は一応こくんと頷く。
彼はそれに答えるように、更に泳いで沖へと私を引っ張って行ってくれた。
どんどん海底が深くなっていくのが分かる。
恐怖などは全く感じなかった。
それは今、隣に安心できる存在がいるからかもしれない。
初対面で、こんなにも心を許していしまう私もどうかしていると思う。
だけど、今はそんなことどうだってよかった。
今はこの目の前に広がる透明な世界に、少しでも浸っていたかった。
海から上がると、体に重力がのしかかってうまく歩けない。
それプラス、服が塩水を吸ってべっとりと体に張り付いて少し気持ちが悪い。
――――まるで、あの時のよう。
「綺麗だっただろ?」
だけど、今は1人じゃない。
「綺麗だった」
私は、服の水を絞りながらそう答える。
「ちょっと休憩ーっ!海ん中ってやっぱり疲れる」
そういって、彼は砂浜に寝そべる。
私はそんな彼を無視して、服の水分を絞り続ける。
「お前、疲れねえの?」
彼は浜辺で寝転がったまま、こちらに顔だけ向けてそう聞いてくる。
いやいや、私は彼に引っ張られてただけで、それほど体力使ってないし。
ただ、海に浮いていただけだから。
「別に」
無愛想な返事になってしまった。
もう少しましな返し方があるだろうと思うけれど、長い間、まともに人とコミュニケーションをとってこなかった私には、こう返すことが精一杯で。
きっと、彼もこんな私をつまらなく思うだろう。
「まぁ、座れよ」
彼は軽く背伸びをして上半身だけおこし、隣を叩いてあたしにここに座れって言ってくる。
私は、ゆっくりと彼のほうへ近づいて腰を下ろした。
目の前に広がるのは、さっきまで私たちが潜っていた海
「あかりはさ、どっからきたの?」
彼は決して、私のほうを見ない。
ただ海を見ながら、私に質問を投げかけてくる。
「東京」
私も彼のほうを決して見ない。
こっちのほうが私にとっても話しやすかった。
「ええ!すっげぇな。人とかいっぱいいんだろ?ビルとかいっぱい立っててなんでもあんだろうなー」
「……なにもすごくないよ」
あの世界はあたしに冷たい。
「そっか。嫌いなのか?東京」
「私は嫌い」
「ふーん。そっか。向こうでいじめにでもあってたとか?」
私の隣で輝がにやりと笑ったのが分かった。
その瞬間私の頭に血が上った。
もしかして、こいつもあいつらみたいにしてあたしのことを笑うの?
地味だとか言って。
そうならば、一瞬でも信頼した私がバカだった。
「……あんたも、あいつらと同じなの?」
私は彼を鋭くにらみつけて、勢いよく立ち上がった。
そして、靴をもって帰り道を全力疾走した。
後ろで、彼が何か言っていたようだけど、そんなの私は聞き入れなかった。
ああ、あたしはバカだ。
正真正銘のバカだ。
なんで、あんな奴信頼しちゃったのか。
それは――――あの、切なげな瞳にとらわれたから。
そうだ。あんな顔されたからだ。
彼が、あんなところで涙をこぼしていたから……。
――――私と、同じかもしれない。
そう思った私は、バカだ。
✳
「あかりちゃん……あら、具合でも悪いのかい?」
おばあちゃんが、私の部屋の襖を開けて立っているのが背中越しでもわかった。
私は今自分のベッドに俯せ状態。
海から帰ってきてからずっとこの状態。
「ごめん……頭痛くて」
頭なんて痛くない。
ただ、彼に会いたくない。
「そうかい……。じゃあ、一ノ瀬さん家は無理そうだねぇ……。おばあちゃんたち、早めに帰ってくるから、ゆっくり寝てなさいね。なんかあったら向かいの家に来るんだよ」
おばあちゃんの優しい声があたしの背中に響く。
そして、襖が閉められた音がした。
あの優しいおばあちゃんに嘘をついてしまったという、少しの罪悪感が私の胸を締め付けた。
だけど、そんな罪悪感よりも、あいつに会いたくないという気持ちのほうが勝った。
とはいえ、この状態でずっといるのは、いらないことをぐるぐる考えそうで、より気分が落ちていきそう。
考え事をしたって、何も変わらない。
そのためとりあえず、机に向かって課題を広げてみたけど、やる気が全く無い。
頭は働かないし、今そんな数学とかに頭を使う気力は残っていなかった。
「……はぁー……」
ため息が漏れる。
椅子の背もたれに大きく寄りかかって、背伸びをしてみる。
いつもなら、机に向かったとたん、やる気……出るんだけどな。
私のこれまでの人生の、4分の1は机に向かっていたといっても、過言ではない。
お母さんの口癖は「あんたはバカなんだから勉強しなさい」だった。
天才肌で、1度聞いたことは覚えられるお姉ちゃんと比べて、私は凡人。
がむしゃらに頑張って頑張って、偏差値65の進学校に入り、順位は200人中5位。
毎日勉強しないと、一気に成績は落ちてしまう。
だけど、お母さんはやっぱり認めてはくれない。
だって、お姉ちゃんは偏差値70の高校で成績はずば抜けていたから。
そんなお姉ちゃんと比べられたら、やっぱりお母さんにとって私は、バカなんだろう。
仕方ない。
私とお姉ちゃんじゃ、いる世界が違う。
脳裏にふとよみがえるあの音。
よみがえるあの透明な世界。
何もかもを、許してしまうあの世界。
魚たちが悠々と泳ぐあの自由な世界。
海に行きたい。
あの温度に触れたい。
そう考え始めたら居ても立ってもいられなくなって、気づけば部屋を飛び出していた。
おばあちゃんとおじいちゃんはきっと、今頃隣の家の一ノ瀬さんの家で楽しく談笑しているころだろう。
きっとそこには彼もいるに違いない。
今なら海に行っても、彼と出会うことはないはず。
私は、誰のかわからない下駄をはいて、家を飛び出す。
コツンコツンと、コンクリートと下駄のぶつかる音が夜道に響いた。
学校も。
「あかりとか……名前間違えたんじゃねぇの?お前に似合わねぇっつうの」
私だって、こんな名前似合わないって思っているよ。
「マジ地味なんですけど。……隣のマミ可哀そう。あんな地味子とペア学習なんて」
私だって、こんな自分が嫌いなんだよ。
「……マジ空気。いなくてもかわんねぇ」
じゃあ、一層のこと構わないでほしい。
「……一層、不登校にでもなっちゃえば?」
……お前らがなれよ。
お前らさえいなくなってしまえば……!
家も。
「あかり……百合《ゆり》を見習いなさい。なんで、あんなバカ高校でトップとれないの?」
有名大学行った姉ちゃんと比べないでよ。
「なんで、百合とこんなにも差が出たのかしら……」
私だって、毎日勉強頑張ってるんだよ?
なんで認めてくれないの?
「あかりは可哀そうだね。私と比べられて」
姉ちゃんさえいなければ……
あんたさえいなければ私は……!
日に日に汚くなっていく。
日に日に醜い感情が生まれる。
そんな自分が何よりも、誰よりも大っ嫌いだった。
だけど、海だけが
私を慰めてくれた。
海が私の汚い、醜いこの想いを洗い流してくれるような気がした。
海だけが私の味方だった。
海だけが私の泣ける場所だった。
✳
波が押しよせて、やがてゆっくりと引いてゆく。
この町の海は灰色だ。
それでもいい。
こんな灰色の海でも、この海は私の味方でいてくれる。
私は今日も、学校帰り遠回りをして、この海を見るためだけにこの場所に来る。
自分の汚い部分を洗い流すために、靴を脱いで、足だけ、海に浸す。
「……冷たっ……」
思わず声が出る。
ぽたっと海に落ちる1粒の涙。
嗚咽は出ない。
ただ、自然と目から涙が溢れるだけ。
この時間、この場所に来て、私は涙を流す。
悲しいから、悔しいから涙が出るわけじゃない。
この醜い世界に、確かに私は生きているんだって、実感したいだけ。
だから、この涙に特に意味はない。
潮風が私の涙を乾かしてくれる。
細かい砂がが私の足を優しく包み込んでくれる。
沈みゆく夕日が、私を温かく照らしてくれる。
冷たい海が、私の落ちた涙をさらってくれる。
ここには確かに、私の味方がいた―――。
夕日が沈むのを見届けると、私はタオルで足を拭く。
面倒くさいから、靴下は履かずに、靴を履く。
薄暗い道を1人歩く。
ものの10分ほどで家に着く。
ガチャリと私は玄関の扉を開け、一応「ただいま」と小さく言って中に入る。
玄関から見えたリビングの扉から、明かりが見えた。
微かに、お父さんとお母さんの話声が聞こえる。
だけど、返事はない。
いつものこと。
今更、悲しむ必要なんてない。
私は、リビングの扉の前を素通りして、自分の部屋に続く階段へと向かう。
「……あかり」
背後から呼ばれた私の名前。
その声は、冷めきっていた。
「何」
私は足を止めて、後ろを振り返る。
お母さんが私に話しかけてくるなんて珍しい。
いつも私のことを空気のように扱うのに。
―――いつからそんな冷めた瞳で私のこと見るようになったの?
今更、こんなことで悲しいなんて思わないけどさ。
今更、寂しいなんて思わないけどさ。
「あんた、もう明日から夏休みなんでしょ?バカ校だし夏休み中補習なんてないわよね。おばあちゃんのところに行きなさい。夏休みの間ずっと。明日、空港まで送るから今日のうちに荷物まとめとくのよ」
―――あなたは家にいても邪魔だから。
私にはそうとしか聞こえなかった。
特に返事はせずに、私は再び階段を上り始めた。
そして、自分の部屋に着くなり、ため息をついて、荷物を適当に床に置いた。
机の上には、お母さんの作った夕食が置かれてある。
冷たいご飯と、冷たいハンバーグと、冷たいスープ。
おいしいとか、そんなものは分からない。
ただ、おなかが減ってるから食べるだけ。
食べ終わってから私は、大きな旅行用カバンに荷物を詰め込み始めた。
10分ほどで完了してしまうくらい、私の荷物は少ない。
ベッドへとダイブして、再び大きく息を吐く。
明日からしばらくこのベッドともおさらばになってしまう。この町を離れることになる。
夏休み、プライベートで遊ぶような友達がいるわけじゃない。しばらくここを離れることになんの悲しみも感じない。
海さえあれば、私はどこに行こうとも悲しみはしない。
確か、おばあちゃんのいるところは、小さな南の島だったような気がする。
ずっと昔、一度だけ行ったことがある。
あんまり、よく覚えてないけど。
島なんだし、海あるよね。
ここの海のように、灰色なのかな。
✳
朝早くに、私はお母さんに空港まで車で連れて行かれた。
そして、私に航空チケットと、1万円と、1枚のメモ用紙を渡してお母さんは去っていく。
あとは自分でどうにかしなさいってこと。
メモ用紙には、おばあちゃんちの住所が書いてあった。
私は高校2年生にもなった。
だから住所さえ渡してくれれば余裕で行けるって、そう思っていたんだけど―――。
小さな渡船でこの島に来た。
小さな港町に下ろされて、私は立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは海。
どこまでも、どこまでも続く海。
キラキラと太陽の光を反射して、私の目に綺麗に映る。
あの町の海とは大違いだった。
ただ、海に見とれている場合じゃない。
まずは、ばあちゃんの家探さなきゃ。
一先ず私は、近くにいた漁師さんと思われる人に、思い切って、声をかけてみる。
「あの……」
私が小さな声でそういうと、その漁師さんは作業していた手の動きを止めて、私のほうを振り返った。
「見ない顔だね。観光かい?」
そういって、漁師さんは見ず知らずの私に、にっこりと笑いかけてくる。
漁師さんの笑顔に安心して、少し緊張が和らぐ。
歳は多分60歳くらいの、笑顔が印象的な漁師さん。
「あ、あの、おばあちゃんの家探してて。この住所への行き方教えてほしいんですけど」
私はその漁師さんに一歩近づいて、おばあちゃんの家の住所が書いてあるメモ用紙を見せた。
「ああ、もしかして、海瀬《かいせ》さんちのお孫さんかい?」
漁師さんは、キラキラと光る瞳で、私を見てきた。
その瞳はまるで、太陽の光を反射する海のようだと思った。
「……あ、はぃ……」
私はぎこちなく返事をすると、漁師さんは、そうかそうかと言って再び優しく笑う。
それから猟師さんは私から何も言わずに離れ、近くにあった軽トラに向かって歩いて行った。
あたしは、どうすればいいのか分からずただ、その場に立ち尽くす。
「海瀬さん家のお孫さんなら、俺が送って行こう。俺の家は、海瀬さんの家の向かいなんだ」
漁師さんはそういって、軽トラの助手席の扉を開けてくれた。
これって乗れってこと?
漁師さんは、戸惑う私をよそに、助手席の扉を開けたまま、運転席に乗り込む。
そして、軽トラのエンジンをかけた。
このまま、立ち尽くしている訳にもいかず、私はゆっくりと軽トラに近づく。
こんな優しそうな漁師さんが、明らかに何ももっていない私をどうこうするとか考えられないし。なんの利益もないし。
信じてみても、いいよね。
私はゆっくりと、軽トラに乗り込み、シートベルトをしめた。
私が乗り込んだ途端、漁師さんは、車を発進させた。
エアコンの冷たい冷気があたしの顔にあたる。
体の汗がだんだん引いていくのが分かる。
「ところで君、名前はなんていうんだい?」
漁師さんは運転しながら、優しい声で聞いてくる。
ドクンと心臓が強くなったのを感じた。
名前は私のコンプレックス。
『あかりとか……名前間違えたんじゃねぇの?お前に似合わねぇっつうの』
クラスメイトの言葉がフラッシュバックする。
だけど、私はそれをぐっと、飲み込んだ。
そして私はゆっくりと口を開く。
「……光明……あかりです……」
自分が思っていた以上に弱々しい声だった。
情けない。
こんなことで、折れそうになる自分が情けなくてたまらない。
「あかりちゃんか。いい名前じゃないか」
にっこりと笑ってくれる漁師さん。
初めて、名前をほめられた。
だけど、少しだけ。
ほんの少しだけ、漁師さんの顔が切なく見えたのは、あたしの気のせいだろうか。
「あかりちゃんは見たところ、高校生かい?」
再び、質問してくる漁師さん。
もう、元の漁師さんの笑顔に戻っていた。
きっと沈黙で気まずい雰囲気にならないよう、気を使ってくれているのだと思う。
「はい、高校2年生です」
その漁師さんの優しさが少しずつ、私の緊張をほぐしていくのがわかる。
「そうかそうか!じゃあ、うちのヒカルと同じ年だなぁ」
そういって、さらに笑顔になる漁師さん。
目尻にシワを寄せ、すごくうれしそうな顔をしている。
「あかりちゃんは、夏休みの間、ここにいるのかい?」
「あ、はい」
「そうかそうか。そりゃ、しばらくは賑やかになるなぁ。さあ、ついたぞ」
漁師さんは、車を止めてエンジンを切った。
エアコンも止まり、むわっとした空気が車内に押し寄せる。
私は、その空気から逃げるように、シートベルトを外し、車の扉を開け、車内から降りた。
漁師さんも私と同じタイミングで、車から降りる。
「さぁ、ここが、海瀬さん家だ」
漁師さんが、目の前の家を指さしながらそう言った。
「あ、ありがとうございました」
私はそういって、小さな旅行バックを持ち直して漁師さんに礼を言う。
「海瀬さんにはうちのヒカルもお世話になってるからなぁ。またよろしく伝えといてれ。じゃ、またな」
そういって、漁師さんは笑顔で車へと戻って、足早に行ってしまった。
まだもしかしたら仕事が残っていたのかもしれない。
申し訳ないことをしたな、と思いながら、私は走り去る軽トラに一礼した。
1人残された私の目の前にある家には、『海瀬』という少し古びた標識があった。
間違いない。
ここがおばあちゃんの家。
多分、平屋で凄く大きい。
昔ながらの日本家屋で趣がある。
インターフォンとかあるはず……ないか。
私はゆっくりと玄関の扉に手をかけた。
「……っ!」
あれ、開かない?
次は両手に全体重をかけて思いっきり、ドアを横にずらす。
「……っくっ!」
重っ!
やっとの思いで、あたしは1人分入れる隙間を開ける。
そしてまず、荷物を中に入れてから、私は横になって体を滑り込ませた。
最後に、再びありったけの力を込めてあたしは扉を閉めた。
扉開け閉めしただけなのに、この疲労感。
「はぁ……っ」
私は肩で息をして、呼吸を整える。
「……おや、あかりちゃんかい?」
優しい声が私の後ろから降ってきた。
ゆっくりと後ろを振り返るあたし。
そこには優しい顔で立ってる、何年振りかのばあちゃんの姿があった。
「よう来たねぇ」
笑顔で私に声をかけてくれる、おばあちゃん。その笑顔をみて安心する私。
いつ以来だろう。
こんなに優しく出迎えられたのは。
涙腺が緩むのがわかり、ぐっとあたしはこらえた。
荷物をしっかり持見直して、私はおばあちゃんの顔を見る。
「ばあちゃん……」
何を話せばいいのか分からなくて、結局名前を呼ぶことしかできない。
おばあちゃんは何かを察したのか、笑顔で、「おあがり」と言ってくれる。
私は、広い玄関に靴を綺麗にそろえて、急いでおばあちゃんの小さな後姿を追いかけた。
薄暗く長い廊下を少し行ったところに、襖があって、おばあちゃんはその扉を横に開けた。
視界が開けた。
太陽の光が、差し込む部屋。
そこには、畳があって、縁側もある。
窓は全部開けられていて、時たま風が吹きぬける。
その風に煽られて、チリンと風鈴の音が鳴る。
縁側には、うちわを仰いで涼む、おじいちゃんの小さな背中があった。
「おじいさん。あかりちゃんが来ましたよ」
ばあちゃんが優しい声で、縁側にいるおじいちゃんに話しかけた。
すると、おじいちゃんはゆっくりと振り返る。
「おお、大きくなったな、あかり」
そう私に優しく微笑むおじいちゃん。
思わず下を向いてしまう私。
こうしてないと、泣きそうになるから。
心臓が締めつけられているのがわかる。
この場所が一瞬で居心地のいい空間へと変わった気がした。
隣でおばあちゃんが、笑顔で私の顔を見ている。
おじいちゃんが、私に微笑んでくれている。
こんな世界、私にもあった。
こんな、透き通るような透明で、キラキラしている世界が、私にもあった。
「今日はあかりちゃんが来たからご馳走にしないとねぇ。おじいさん。畑から野菜とってきてくださいな。あかりちゃんの部屋、千智のいた部屋でもいいかねぇ」
そうおばあちゃんが思い出したようにそう言い、おばあちゃんの動きが急に忙しなくなる。
お母さんの部屋。
一瞬、身体に寒気が走った。
「ああ、いいだろう。わしが、案内しようか。おいで、あかり」
そんな私に構わず、おじいちゃんは私のほうへと近づいて、きて再びあの薄暗い長い廊下へと出て行った。
私はその後ろを追いかける。
歩くたびに床板が軋み、2人の足音だけが、暗い廊下に響く。
廊下は比較的ひんやりとしていて、あの外の暑さを微塵も感じさせなかった。
角を2つほどまがったところで、目の前のおじいちゃんが、足を止めた。そして、ある部屋の扉の前に立つ。
そして、おじいちゃんはそのまま襖を片手で開け、私に入っておいでと、にこっと笑顔を向ける。
私はおじいちゃんの後に続いて、部屋へと入る。
お母さんの過去がある部屋。
それは想像通りだった。
「好きに使っていいからな」
おじいちゃんはそう笑顔でいって、部屋を出て行った。
この部屋にあるのは、シンプルな勉強机と、ベッドだけ。机にはもちろん何も置かれてないし、ベッドはきっと、ばあちゃんが最近、すのこに布団を引いたのだと思う。
ここが今日から私の部屋。
夏休みの、約一か月間の私だけの空間。
開けられていた窓から、ふわっと風が吹きこんできて、蝉の声が聞こえてくる。
この夏は何か、変わりそうな気がした。
この部屋から見えた空は、雲一つない真っ青で。あの町の空よりもきれいだった。
海に行きたい。
この島の海に。
✳
「あかりちゃーんっ!ごはんが出来ましたよ」
おばあちゃんの私を呼ぶ声が聞こえた。
私は、荷物整理をやめて、自分の部屋を出た。
長く涼しい廊下を抜けて、おばあちゃんとおじいちゃんがいるであろう居間の襖を開けた。
襖を開けた瞬間漂ってくる匂いは、温かかった。
居間はもう冷房が効いていて、火照った体が冷えていく。
畳の上にある小さめのちゃぶ台の上には、おばあちゃんの手作りのごちそうがすでに並べられていた。
おじいちゃんが1人そこに座って、私に笑いかけてくる。
「おお、あかり。きたか」
私が座るであろう座布団を、おじいちゃんは軽く叩いた。
ここにお前の居場所がある。
そういわれたような気がした。
何年振りだっけ。
人と料理を囲んで食べるのは。
こんなに温かい料理を食べるのは。
「あかりちゃん。立ち尽くしてないで。ほら、食べようかね」
おばあちゃんが、最後の料理を手に持って台所から出てきた。
私は、おじいちゃんが用意してくれた座布団の上に座った。
「おじいさん、何年振りかねぇ。あかりちゃんとこうしてごはん食べるのは」
おばあちゃんがそういいながら、料理を机の上に置いて、ゆっくりと座った。
「そうだなぁ。さて、合掌しようか」
おじいちゃんがにこやかな顔のままで、手を前に合わせた。
おばあちゃんも同じようにする。
私も同じ動きをした。
「いただきます」
「……だきます……」
おじいちゃんとおばあちゃんの声に、遅れてしまう私の弱々しい声。
「ささ、たくさんおあがり」
だけど、そんなことを二人は気にする様子なく、おばあちゃんがそう言って優しい笑顔を向けてくれる。それだけで胸がいっぱいだった。
なんでそんなに、おじいちゃんもおばあちゃんも、あたしに優しくしてくれるの?
私、お姉ちゃんに比べたらなんの取り柄もないでしょ?
私クラスで陰口言われるほど、地味だしつまんない奴なんだよ。
なんで、そんな優しい目であたしを見てくれるの。
「……あかりちゃん?」
おばあちゃんの声が、さっきと違うのが分かる。
私のことを心配してくれているような……そんな声。
私は、少し溢れ出てしまった涙を誤魔化すように拭って無理やり顔をあげた。
そして、目の前にあるおいしそうな料理を適当に口に入れて頬張る。
おいしかった。
また涙が溢れ出そうになるくらいに、おいしかった。
久しぶりだった。
こんなに温かい料理を食べたのは。
いつもお母さんが用意してくれるのは冷蔵庫で冷やされた、冷たい料理だったから。
涙が溢れそうになるのを、私は必死にこらえた。
だって、おじいちゃんもおばあちゃんも幸せそうに私を見てくるから。
しわしわのつぶらな優しい瞳で私を見てくるから。
悲しませちゃいけない。
心配なんかけちゃいけない。
そう自分に言い聞かせて、その日、私はただただ、目の前にある幸せの塊たちを口の中に詰め込み続けた。
✳
翌日。カーテンから少し漏れる朝日と、鳥の声で目を覚ます。
なんて健康的な目覚め方。
ベッドから、体を起こして体を伸ばしてみる。
少し寝癖の付いた髪を手ぐしで適当にとかしながら、ベッドから降りる。
部屋を出て、おじいちゃんとおばあちゃんがいるであろう、居間に向かう。
「あら、あかりちゃん。おはよう」
「おお、あかり早起きじゃないか」
おばあちゃんは朝食の準備中。
おじいちゃんは、ちゃぶ台に座りながら、新聞を広げている。
2人とも、優しく私に笑いかけてくれる。
私は、おばあちゃんのいる台所に向かい、一緒に朝食の準備をした。
おばあちゃんは笑顔で、ありがとうねって言ってくれる。お礼を言いたいのは私のほうなんだけど、まだその言葉は恥ずかしくて言えない。
暫くして、ちゃぶ台には典型的な和食朝食が並び、私とおばあちゃんも座った。
そして、合掌して温かい朝食を食べる。
時々、窓から風がふわっと入ってきて、チリンと風鈴の音がきれいに響いていた。
「あ、そういえば、さっき一ノ瀬《いちのせ》さんと出会ってな。今夜、一緒にどうだと言われたよ」
朝食を食べ始めたところで、おじいちゃんが思い出したように、そんなことを口に出した。
「一ノ瀬さんが……。あ、あそこにはヒカル君もいるから、およばれしようかねぇ。あかりは大丈夫かい?」
おばあちゃんが優しい笑顔を私に向けてくる。
ヒカルって、どこかで聞いたことがあるような。
「一ノ瀬さんっていうのは、あかりを、ここまで送ってくれたあの漁師さんのことだよ」
おじいちゃんが何かを察したのか、そう言葉を付け足す。
あ、あの漁師さんか。
そういえば、ヒカルってその漁師さんが言ってたんだ。
あの、漁師さんなら、大丈夫かな。いい人そうだったし。
「うん。いく」
私は笑顔でそう返事をした。
すると、じいちゃんは、じゃあ、言っておかないとなと言って、優しく笑った。
「あ、そういえば、あかりちゃん、海は好きかい?」
おばあちゃんが再び私に話しかけてくる。
暫く見てない。
暫く涙を流してない。
暫くあの温度に触れていない。
この島の海を、感じてみたい。
「うん」
「そうかそうか。ヒカル君も好きでねぇ。この家を出て、右にまっすぐ行ったところに、砂浜があるから、あとで行っておいで。この島の海はきれいだから」
おばあちゃんが、私に笑顔でそう話した。
綺麗な海。近くにある。
あたしの味方。近くにいる。
この島にもいる。
私は、その後急ぎめで朝食を食べ、食器を片づける。
そして、いってきますといって、あの重い玄関から私は外に出た。
真夏だからか、まだ朝の7時だというのに、もうすでに日の下は暑い。
私は出来るだけ日陰を見つけて海へと急いだ。
最初は速足で歩いていたけど、我慢できなくなって駆け出す。
頬を伝う汗が気持ちよく感じた。
髪を乱す風が爽やかで気持ちよかった。
地面を押す自分の足が軽かった。
早くあの場所へ。
早く、早く、早く。
速く、速く速く。
あ、聞こえた。
あたしを包み込む、あの音が。
私は砂浜で立ち止まる。
目の前には、つい先ほど上ったばかりの朝日。
その光に照らされるのは綺麗すぎる青い世界。
私は靴を脱いで、少しずつ、少しずつ海へと近づいてくる。
引いて……それから私のほうへと波がやってくる。チャプンと少しだけ音を立てて、私の足に水がつかる。
「……っ!」
冷たい。
だけど、この海は温かい。
優しく私を包み込んでくれる。
キラキラと輝く水面は1つも濁ることなく私の目に綺麗に映る。
私の足がはっきりと見える。
透明な海。嘘のない。
透明な透き通る海。
すると急に大きな波が押し寄せてきて、私の膝まで水につかった。
その冷たさに、思わず私は顔をあげる。
―――あたし1人だけじゃなかったんだ。
どうやら、先客がいたようだ。
私の、左に少し行ったところにある大きな岩。
その岩の影にいた、1人の青年。
朝日に照らされて、キラキラと光る、日に焼けた茶髪。
気まぐれに吹く海風に髪がさらさらと揺れていた。顔は下を向いていてよく見えない。
なんとなく目が離せなかった。
その瞬間ポタッと落ちた水滴。
私のじゃない。彼の。
彼のうつむいた顔から……滴が一滴零れ落ちた。
もしかして、泣いてるのかな。
その瞬間、強く風がふき、近くにあった木々が揺れて、私たちの髪を乱した。
彼は顔をあげて、私のほうを見てくる。
彼と目が合う。
目が離せなかった。
時が止まったかのように感じた。
彼の切なげな瞳に私は囚われた。
そして、私にはわかった。
やっぱり、彼は泣いてたんだって。
だけど、彼は何事もなかったかのように私を見て笑った。
さっきまで、泣いていたのは思えないくらいの笑顔で。
急に鼓動が早くなる私の心臓。そんな私に構わず彼はゆっくりと私に近づいてきた。
いつもの私なら、きっと逃げるんだろうけど、この海のせいだろうか。足が全く動かなかった。
「君、この島の子じゃないね」
そう大声でこちらに話しかけてきた彼。
無邪気な顔で笑った彼は、キラキラと輝いていていて、私しの目には少し眩しすぎた。
日に焼けた小麦色の肌と真っ黒な瞳。
にかっと笑うと白い歯がきれいに見える。
水音を立てながら彼が無遠慮でこちらに近づいてきた。
「……っ!」
思わず身を引いてしまう私。
こんなに近くに来ないでよ。
私のこと、何も知らないからって……。
「そんなに怯えんなよ。……俺、ヒカル。輝くって書いて輝。あんたは?」
私の目の前まで来ると、彼はそう私の顔を覗き込むようにして、そうい聞いてきた。
ヒカル……?
あの、輝……?
そういえば、そのキラキラした瞳は、あの漁師さんにそっくりだ。
「……光明……あかり。ひらがなであかり」
気がつけば、自分の名前を言ってしまっていた。
「ふーん。あかりね。……なに、あかりは観光で来たわけ?」
無神経なのだろうか。
普通、初対面の女の子のこと下の名前で呼ぶ!?
と、思いながらも平静を何とか装う。
完全に相手ペースになっているのが分かった。
「ちがう、おばあちゃん家に来ただけ」
「いつ帰るの?」
「夏休み終わったら」
「じゃあ、しばらくはいるんだなっ!海好きなんだ?」
「……まぁ」
だけど、彼が細かく質問をかけてくるからこちらとしては非常に答えやすかった。
私は人見知りだから、自分から話しかけることとか、質問とかすることできない。
「俺も……」
そういって、水平線を眺める輝はキラキラと輝いていた。
だけど、どこか切なげで……悲しい目をしてた。
――――なんで、あそこで泣いてたの?
それを、今聞くのなんだか違う気がして、そのまま言葉を飲み込んだ。
「ちょっと潜ってみるか?」
すると彼が急に、私のほうを向いて、にかっと笑う。
その笑顔は、あの海を照らす朝日みたいだと思った。
ただ、ちょっと待ってほしい。
潜る?
私は今、水着とか着てないし、持ってもいない。
だけど彼は、私の返事を待つ様子はなく、着ていたTシャツを脱いで、近くの岩場に濡れないように置く。
Tシャツの下に隠していたきれいな筋肉があらわになる。
無駄な肉なんて1つもなくて、腹筋も綺麗に割れていた。
「……何?変態」
彼は少し前髪をかきあげて、意地悪な顔を向けてくる。
そんな、姿さえ様になる。
「……ちがっ!」
私は、少し火照った顔を手で覆いながら、顔をそらした。
思わず見惚れてしまってた。
「おばあちゃんの家ここから近い?」
だけど、彼はそんな私の反応に構わず、私の家の場所を確認してくる。
おばあちゃんの家は海から歩いて5分ほどのところにある。だから…。
「近いけど」
遠くはない。
遠くはないけど……。
「じゃ、濡れてもいいか。よし、いくか」
彼は私の手を引いて、海へと引っ張っていく。
そういうことを彼ならば言い出しかねないなと思っていたら、案の定彼ペースで事が進んでいくこの状況。
「え、ちょっとまって、私……」
海潜るのなんて初めてなんですけど……。
「ほらよ」
急に彼から私へシュノーケルが投げられる。
だがしかし。私は、こんなもの使ったことはない。
戸惑う私をよそに、彼は立ち止まって、シュノーケルを器用に自分の頭にセットしている。
そして私たちはすでに腰まで海につかっている。
「つけろよ。大丈夫浮いているだけだから。見せてやるよ。この島の海」
そういって、屈託のない笑顔を向けられたら、逆らう気力なんて起きない。
もう、身を任せよう。そう思った。
私は、見よう見まねでシュノーケルを自分の頭にセットした。
再び握ってくる彼の大きな手。
その手は何故か安心した。
そして、彼に連れられて、ゆっくりとゆっくりと私は海の中へと沈んでいった。
――――あの、灰色の海とは大違いだった。
この温度も、この色も、何もかも。
この海は私に優しかった。
「ここくわえるんだ。しっかり歯でくわえろよ。水入ってくるからな」
そういってマウスピースを口にくわえた彼。
私も見よう見まねで、彼と同じようなことをした。
彼がマスク越しに笑ったのが分かった。
そして、私の手を引いて、彼は更に海の中へと進んでゆく。
もう水は胸のあたりまできていた。
もうこれ以上進んだら足がつかなくなる。
大きな波が来たら確実に私たちは沈んでしまう。
「……足浮かせろ。手ぜってえ離すなよ」
ふと隣から聞こえた彼の声。そして彼は私の隣で水面に浮いた。
私も足を地面から離して、彼と同じように水面に浮いた。
チャプンと小さく音を立てて、私は海の世界へと入って行った。
そこは透明だった。
海底約1mほどの浅瀬だけど、そこはすでに海の世界だった。
透明な世界。
嘘や偽りなどない綺麗な透明な世界。
こんな世界が、あったんだ。
時々小魚が目の前を通り過ぎてゆく。
色とりどりの綺麗な魚が、私の目の前を悠々と泳いでゆく。
自由なんだ。
彼らは、この海で自由なんだ。
自分の息をする音と海の波の音だけが耳に聞こえる。
くいっと私の手を、輝が引っ張った。
そして、前のほうを指さす。
もっと奥に行くってこと?
私は一応こくんと頷く。
彼はそれに答えるように、更に泳いで沖へと私を引っ張って行ってくれた。
どんどん海底が深くなっていくのが分かる。
恐怖などは全く感じなかった。
それは今、隣に安心できる存在がいるからかもしれない。
初対面で、こんなにも心を許していしまう私もどうかしていると思う。
だけど、今はそんなことどうだってよかった。
今はこの目の前に広がる透明な世界に、少しでも浸っていたかった。
海から上がると、体に重力がのしかかってうまく歩けない。
それプラス、服が塩水を吸ってべっとりと体に張り付いて少し気持ちが悪い。
――――まるで、あの時のよう。
「綺麗だっただろ?」
だけど、今は1人じゃない。
「綺麗だった」
私は、服の水を絞りながらそう答える。
「ちょっと休憩ーっ!海ん中ってやっぱり疲れる」
そういって、彼は砂浜に寝そべる。
私はそんな彼を無視して、服の水分を絞り続ける。
「お前、疲れねえの?」
彼は浜辺で寝転がったまま、こちらに顔だけ向けてそう聞いてくる。
いやいや、私は彼に引っ張られてただけで、それほど体力使ってないし。
ただ、海に浮いていただけだから。
「別に」
無愛想な返事になってしまった。
もう少しましな返し方があるだろうと思うけれど、長い間、まともに人とコミュニケーションをとってこなかった私には、こう返すことが精一杯で。
きっと、彼もこんな私をつまらなく思うだろう。
「まぁ、座れよ」
彼は軽く背伸びをして上半身だけおこし、隣を叩いてあたしにここに座れって言ってくる。
私は、ゆっくりと彼のほうへ近づいて腰を下ろした。
目の前に広がるのは、さっきまで私たちが潜っていた海
「あかりはさ、どっからきたの?」
彼は決して、私のほうを見ない。
ただ海を見ながら、私に質問を投げかけてくる。
「東京」
私も彼のほうを決して見ない。
こっちのほうが私にとっても話しやすかった。
「ええ!すっげぇな。人とかいっぱいいんだろ?ビルとかいっぱい立っててなんでもあんだろうなー」
「……なにもすごくないよ」
あの世界はあたしに冷たい。
「そっか。嫌いなのか?東京」
「私は嫌い」
「ふーん。そっか。向こうでいじめにでもあってたとか?」
私の隣で輝がにやりと笑ったのが分かった。
その瞬間私の頭に血が上った。
もしかして、こいつもあいつらみたいにしてあたしのことを笑うの?
地味だとか言って。
そうならば、一瞬でも信頼した私がバカだった。
「……あんたも、あいつらと同じなの?」
私は彼を鋭くにらみつけて、勢いよく立ち上がった。
そして、靴をもって帰り道を全力疾走した。
後ろで、彼が何か言っていたようだけど、そんなの私は聞き入れなかった。
ああ、あたしはバカだ。
正真正銘のバカだ。
なんで、あんな奴信頼しちゃったのか。
それは――――あの、切なげな瞳にとらわれたから。
そうだ。あんな顔されたからだ。
彼が、あんなところで涙をこぼしていたから……。
――――私と、同じかもしれない。
そう思った私は、バカだ。
✳
「あかりちゃん……あら、具合でも悪いのかい?」
おばあちゃんが、私の部屋の襖を開けて立っているのが背中越しでもわかった。
私は今自分のベッドに俯せ状態。
海から帰ってきてからずっとこの状態。
「ごめん……頭痛くて」
頭なんて痛くない。
ただ、彼に会いたくない。
「そうかい……。じゃあ、一ノ瀬さん家は無理そうだねぇ……。おばあちゃんたち、早めに帰ってくるから、ゆっくり寝てなさいね。なんかあったら向かいの家に来るんだよ」
おばあちゃんの優しい声があたしの背中に響く。
そして、襖が閉められた音がした。
あの優しいおばあちゃんに嘘をついてしまったという、少しの罪悪感が私の胸を締め付けた。
だけど、そんな罪悪感よりも、あいつに会いたくないという気持ちのほうが勝った。
とはいえ、この状態でずっといるのは、いらないことをぐるぐる考えそうで、より気分が落ちていきそう。
考え事をしたって、何も変わらない。
そのためとりあえず、机に向かって課題を広げてみたけど、やる気が全く無い。
頭は働かないし、今そんな数学とかに頭を使う気力は残っていなかった。
「……はぁー……」
ため息が漏れる。
椅子の背もたれに大きく寄りかかって、背伸びをしてみる。
いつもなら、机に向かったとたん、やる気……出るんだけどな。
私のこれまでの人生の、4分の1は机に向かっていたといっても、過言ではない。
お母さんの口癖は「あんたはバカなんだから勉強しなさい」だった。
天才肌で、1度聞いたことは覚えられるお姉ちゃんと比べて、私は凡人。
がむしゃらに頑張って頑張って、偏差値65の進学校に入り、順位は200人中5位。
毎日勉強しないと、一気に成績は落ちてしまう。
だけど、お母さんはやっぱり認めてはくれない。
だって、お姉ちゃんは偏差値70の高校で成績はずば抜けていたから。
そんなお姉ちゃんと比べられたら、やっぱりお母さんにとって私は、バカなんだろう。
仕方ない。
私とお姉ちゃんじゃ、いる世界が違う。
脳裏にふとよみがえるあの音。
よみがえるあの透明な世界。
何もかもを、許してしまうあの世界。
魚たちが悠々と泳ぐあの自由な世界。
海に行きたい。
あの温度に触れたい。
そう考え始めたら居ても立ってもいられなくなって、気づけば部屋を飛び出していた。
おばあちゃんとおじいちゃんはきっと、今頃隣の家の一ノ瀬さんの家で楽しく談笑しているころだろう。
きっとそこには彼もいるに違いない。
今なら海に行っても、彼と出会うことはないはず。
私は、誰のかわからない下駄をはいて、家を飛び出す。
コツンコツンと、コンクリートと下駄のぶつかる音が夜道に響いた。



