涙の先にある光












「あかりっ!遅れるわよーっ!」

「もう、出る!……いってきまーす!」


7時前、お母さんの声に送り出される毎日。

お母さんはもう、うつ病は寛解し、今ではこの島で小さな美容院を開き始めた。
お母さんが上京した理由は美容師になるためだったらしい。
これは、後からお母さんから聞いた話。
お店は金ちゃんの知り合いに大工がいて、限界まで値切った末に建ててもらった。

そして、今日は私の終業式。
秋はあっという間に終わり、次は冬というものがやってきた。
明日からは冬休みが始まる。

セーラーの上からカーディガンを羽織り、私は寒い冬の道を駆け出す。


「おう、あかり!お前、髪型なんか気合い入ってね?」


船の乗り場まで行く途中、後ろから輝が駆けてきて、私の隣に並んだ。


「お母さんがしたいっていうから……」

「それ、ぜってぇ、七海が羨ましがるぞ?いいないいな!その髪型っ!私もしたいー!とかいって」


そういって、輝は笑う。
私は、輝に思わず声に出して笑ってしまう。

サイドの髪をとって、後ろまで編み込んだ私の今の髪型。
後ろはどうやってまとめたか分からないけれど、綺麗にみつあみのようなものでクルクルとまとめてあった。

そんな話をしているうちに、船着き場に、到着。


「あ、なにその、あかりの髪型っ!いいないいな!その髪型っ!私もしたいー!」


七海が私を見るなりそう言って騒ぎ出した。
輝の予想の正確さに、私と輝は顔を見合わせて、お腹を抱えて笑う。

このときまであたしは、知らなかった。
いいや、忘れてた。

あの初めて会ったときに見た輝の涙意味。
あの真っ赤なチューリップの花束の意味。
七海と奏が輝を特別扱いする意味。

この島の、彼らの、隠された"悲しみ"に私は気づいてはいなかった。
まだ、知らなかった――――。









「ほらー、海人!お前の番だぞー!」

「おう!じゃー行くぞっ!おっりゃあーっ!」


もうあたりが暗くなってきたとき、私は勉強の気晴らしに、外に出る。
すると、海の方から聞こえてきた、子どもたちの声。

こんな時間に……なんで?

私が言うのもなんだけど、夜の海は危ない。
しかも、こんな冬の海なんかは特に。

私は急ぎ足で、海へと向かった。


『これから夜の海行きたきゃ、俺つれてけ』


一瞬、輝のそんな声が脳裏をかすめたが、呼びに行くほどでもないと思った。
今は、子どもたちの身のほうが心配だった。


「あーあ、もうっ、マキっ!お前ちゃんと取れよ!」

「海人の球が優しくないんでしょ?無理だよ!あんな速いの!」

いた。
砂浜に海人くんと、あとほかの子供たちが5,6人。
海の家の子であることは間違いないと思う。
でも、なんでこんな夜に?
しかも、海でなんて……。


「海人、俺の球受けてみろよ!」

「おう、こいよ!リョウ!」


1人の男の子が、群青色のボールを海人くんめがけて思いっきり投げた。
だけど、そのボールは海人くんより、少し、右に行ってしまって、とることは出来ない。
そして、ボールは、海人くんの後ろにあった海にチャプンと音を立てて落ちた。
岸から4、5mほど離れた海に浮かぶ群青色のボール。
取りに行こうと思えば取りに行ける。
 
でも、たかがボール。
きっと輝から、夜の海は危ないからと言いつけられているに違いない。
彼らも、危ないことは分かっているだろう。
だからきっと、諦めて帰ってくれるだろう。
そう思った――――。


だけど、海人くんはなんの躊躇いもなく、海に入ろうとしだした。


「海人くんっ!」


黙って見ているつもりだったけれど、私はそう思わず声をあげた。
そして、急いで、彼らのもとへと駆け寄る。


「あかり……ねぇちゃん」


海人くんは足首が海に浸かったまま、私の方を振り向いた。


「なんで、こんなところにいるの?輝は?なんで一緒じゃないの?」


私は、しゃがみ込んで、海人くんの肩を掴み、軽くゆすった。


「今日、輝とカオルさんのお父さんとお母さんの命日なんだ。だから俺ら輝に家に一緒に連れてこられたけど、今日はあの家にいたら邪魔だろうって思って七海お姉ちゃんのところにいるからって嘘ついて、ここで遊んでた」


海人くんが、強くと唇を結んでそう答えた。
今思えばそうだ。
なんで、今まで気が付かなかったのだろう。

輝には、両親がいないということに……。


「輝の家の両親は……なんで亡くなったの?」


私は出来るだけ優しい口調でそう質問した。


「事故だって。輝ん家の両親、漁師だったんだって。それで夜に漁に出ていたら突然の嵐に巻き込まれて、船が沈んじゃったんだって俺は聞いた」


夜の海……。
輝があれほど夜の海を警戒する訳が分かった気がした。

私はゆっくりと、立ち上がり、海人くんの手を握った。


「時間になるまで、私の家においで。……いこうか」


そういって、私は海人くんの手を引っ張るけれど、海人くんはびくとも動かなかった。


「海人くん……?」


そういって、海人くんの顔を見て見るけれど、海人くんの目線は海に向いたままで、ちっとも私の方を見ようとはしてくれない。


「海人なら、あのボールとるまで、そこから動かないよ」


1人の男の子が、私に向かってそういってくる。

ボール?

私は目線を海に向け、さっき、海に浮かんでいたあの群青色のボールを探した。
もうボールは20mほど流されている。
さすがに、あのボールを取りに行くのは……無理だよ。


「新しいボール、おねえちゃん、買ってあげるから、いこう?」


そういって、再度あたしは海人くんの手を引くけれど、やはり海人くんは動いてくれないかった。


「……あれ、母ちゃんからもらった、宝物なんだ」


海人くんの、今にも消えそうな声が私には聞こえた。

大きな波がそのとき押し寄せた。
膝まで濡れた海人くんのズボン。


『お前には母ちゃんと父ちゃんいるもんな。だけどな、海人。お前の親はもうこの世界にはいねえよ』


輝の言葉がよみがえる。


『きっといつか父ちゃんと母ちゃんは俺を迎えにくる!』


海人くんの切ない想いが私の胸を締め付けた。


「海人くん。お姉ちゃん、今からあのボールとってきてあげる。だからね、この服預かっていてほしいの」


そういって、私は上に羽織っていた厚手のコートを脱ぎ、海人くんに渡した。


そして、私は海の中へ足を進めていく。

そういえば、自殺未遂した時も、冬の海だったな。
海の冷たさが、じわじわと私の体力を奪っていこうとしているのが分かった。

ボールまでは30mの距離。
頑張れば、無理なこともないはず。
私は意を決して、海に中へと体を沈めた。

まるで、氷水の中を泳いでいる気分だった。
海がこれまでに、どす黒く見えたのは、あの東京の夜の海以来だと思う。


『海の人と書いて、海人。お前はさ、この海みてえに強くなんなきゃいけねえ。母ちゃんと父ちゃんの分もお前は必死に生きなきゃいけねえ』


これからの海人くんの未来には、きっとあのボールが必要なんだ。
強くこの海のように生きていくために。

思ったよりも順調だった。
あと、もう手を伸ばせばボールに手が届く。
そんな距離にもう来ていた。

そんな気の緩みからだろうか。
いきなり左足に激痛が走る。
どうやら、左足をつってしまったらしい。
私は体のバランスを崩して、どんどん自分の体が海の中へ沈んでいくのがわかった。

ああ、もうだめだ。
そう思った。

もう、もがく体力もなかった。
自分の体がどんどん沈んでいくのがわかる。

諦めかけたその時、右手が何かに握られ、私の体が水面に向かって浮き始めた。

誰……?


「……お前まで、お前まで……いなくなろうとしてんじゃねぇよ!」


水面に上がった途端、輝のそんな鋭い声が海の上に響いた。


「輝……なんで……」


「理由は後。ちょっとボールとって来るからそこで待ってろっ!」


そういって、輝は私に浮き輪を渡す。
その間、輝はさらに数メートル流されたボールを取りに私から離れていく。

輝はあっという間に戻ってきて、私のつかまっていた浮き輪を岸へと引っ張っていった。
ある程度岸に近づくと、私は、自分の足で歩くことはできず、輝に支えられる始末。
岸につくと輝は私をゆっくりと砂浜におろし、群青色のあのボールをもって、海人くんに輝はゆっくりと近づいた。

そして、ゆっくりと輝は海人くんの前でしゃがみこむ。


「海人、なんか言うことねぇか?」


輝の声は怒っているようだった。


「ごめんなさい」


海人くんは素直に謝る。
すると、輝は海人くんの頭をなでながらボールを海人くんに差し出した。


「ねえちゃんに後で遊びようのボール買ってやるようお願いしとくから、もうこのボールで遊ぶんじゃねえぞ。このボールはお前が大切にとっておけ」


輝のその声は優しかった。
海人くんは再度、泣きながらごめんなさいとつぶやく。
輝はゆっくりと立ち上がって、海人くんの周りにいた子どもたちを見渡した。


「ったく……。夜の海はあぶねえから、ぜってえ子どもだけで近づくなって言っただろうが。今回は、ねえちゃんに黙っといてやるから、お前らもう家に戻れ」


輝がそういうと、子どもたちは、はーいと素直に返事をして、駆け足で輝の家の方へ向かった。
それを見届けた輝は私の方へゆっくりやってくる。

そして、海人くんに私が預けていたコートを輝は私にそっとかけた。


「お前も。夜の海行くときは俺呼べって言っただろうが」


輝はそういいながら、私の額にパチンと軽くたたく。
私は一瞬顔をゆがめて、額をさすった。


「……ごめん、さない」

「ったく……。七海ん家電話かけて、子どもたちいないって言ったときはマジ焦ったし。海人が、海にボール取りに行ってたら真面目に危なかった。ありがとな。海人のために、取りに行ってくれて。だけどな?俺を呼べよ。俺来なかったら、お前やばかったんだぞ?」


輝は私の隣に座りこんで、私の顔をじっと見てきた。

何も答えられない。
きっと、その向こうには”死”というものがあったのだと思う。


「とりあえず、お前ん家帰るぞ。立てるか?」


そういいながら、輝はゆっくりと立ち上がった。
私は足に力を入れたけれど、うまくはいらず、立つことはできそうになかった。
そんな様子を見た輝は、私に背中を向けてしゃがみこんだ。


「ほら、のれよ」

「え……?」

「立てないんだろ?」

「私、重いよ?」

「知ってる」

「そこは、否定してよっ!」


そういって私は、軽く輝の頭を叩いた。
輝は「いてっ」とか言いながらも笑ってるのがわかった。
そして、私は輝の体に自分の体重を預ける。


「よいっしょっとー……。軽い軽いっ!」


そういって、輝は私をおぶったまま、跳ねだした。


「え、ちょっと、輝!怖い怖い!やめてってばっ」


私はそういって、叫ぶけれど、輝はそのまま、駆け出して私の家へと向かう。
夜道に、私たちの笑い声が響いた。
輝は時折、くるっと一回転してみたり、ジャンプしてみたりと、背中の私に容赦なく動き回る。

こうやって、輝は私の不安な心を紛らわそうとしてくれているんでしょ?
わかってる。
分かるから、つい甘えてしまう。
輝の優しさに私いつも支えられている。
七海も、奏も、私も、輝の笑顔があるからまた歩き出せる。

だから、だから。
もうそろそろ、聞いてみてもいいかな?


「輝はさ、なんで私と初めて出会ったとき、泣いていたの?」


――――なんであなたは、涙を隠すの?


輝はゆっくりと足を止めた。
沈黙ができた。
儚い星の光だけが、私たちを見下ろしていた。


「さぁ、なんでだろうな」


そういって、輝が無理矢理笑顔を作ったのが、背負われながらもわかった。
そして、気づけばもう私たちは、私の家の前に来ていた。

――――それ以上聞くな。

輝が口に出して私に言ったわけではないけれど、私にはそう聞こえた。


「お前、もう大丈夫か?」

「うん、大丈夫。ありがと」


私が、そういうと輝はゆっくりと私を地面に下ろした。
そして、去っていく後ろ姿は、なんだかいつもの輝の背中より小さく見えた。

私、本当は輝の全部が知りたい。
だけど、私が聞き出そうとすればするほど、輝は無理矢理笑顔を作ろうとする。
それは嫌だ。
私は、こうやって輝の幸せを願うことしかできない。
でも、それももう嫌だ。
私は、輝の力になりたい。

――――ただ、それだけなのに。