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 体が重い。目の前が真っ暗だ。

 空……ごめんな。
 お前を一人にしてしまった。
 早く戻らなきゃ。
 でも――ここは、どこだ?
 俺は、今どこにいるんだ?
 早く、あいつのところに行かないと。
 ____あいつには、俺がいないと駄目なんだ。

 ____だけどどれだけ歩いたって、何もない。
 声も、光も、何ひとつ届かない。

 俺は長い間そんな真っ暗闇をさ迷った。

 『青っ!』

 空の声?
 俺は、声のする方へと走り出す。
 早く……早く……早く、あいつのもとへ――。

 「空っ!」

 そう叫んでいるつもりなのに、声が出ない……。

 『青!ここだよっ』

 再び聞こえた空の声。
 その瞬間、手に温もりを感じた。
 俺はその声をぬくもりを頼りに走り出す。

 ――――すると……光が見えた。
 とても眩しい光が。

 「……青っ!青っ!」

 耳元で確かに俺を呼ぶ声が聞こえる。

 俺は恐る恐る瞼を開ける。
 窓から差し込む光がまぶしくて、少しだけ目を細める。
 消毒液の匂いが鼻をつく。
 そして、見えた。
 白い天井。

 ここは……どこ?

 右手に、確かな温もりが宿っていた。
 ゆっくりと首を右に傾けると、そこには――
 涙を流す空の姿があった。

 ……なんで泣いてんだよ。
 ここは……病院か。
 そうだ、俺、空をかばって――。
 よかった。
 あれだけ強く突き飛ばしたけど……無事だったんだな。

 「空……ごめんな」

 掠れた声でそう呟くと、空の瞳に溜まっていた涙が、一気にこぼれ落ちた。

 「え……ちょっ……!」

 俺はあわてて、起き上がろうとするが。

 「……っ!」

 頭に激痛が走り、俺はベッドに倒れこんでしまう。
 今の俺には空の涙も拭ってやれない……。

 そんなやるせなさを感じていると、誰かがこちらへ走ってくるのがわかった。
 そして、勢いよく、ドアを開ける音が俺の病室に響き渡る。

 「こら、空!あんたなんで逃げて……っ!」

 おばさんだ。
 俺を見るなり、目を見開いて驚いた顔をする。

 「……あ、今先生呼んでくるわねっ!」

 そういってまたおばさんは走って病室を出て行った。
 今日は_____慌ただしくなりそうだ。

 ふと窓から見えたのは、青空だった。
 こんな日は______野球がしたい_______。 




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 「うん。大丈夫だね。意識もしっかりしているしな」

 おばさんが、病室を出ていってからほんの数分後。
 慌ただしく医者が入ってきて、俺の体のあちこちを調べ始めた。
 そして、そのうち、俺の両親もやってきた。
 空は、壁に寄りかかって、涙こそ止まったものの、今にもまた泣きそうな顔をしている。

 「この調子だと、あと1週間くらいで退院できるでしょう」

 医者は、俺と俺の両親に向かい、笑顔でそういった。すると母さんが深々と頭を下げた。

 「先生。ありがとうございました」

 そして、父さんも空も頭を下げた。母さんは泣いている。

 「あ、お父さんとお母さんはちょっとお話があるのでこちらへ」

 看護師さんに両親はそう導かれ、再び俺と空だけになった。

 「空……」

 俺は久し振りにその名前を呼んでみる。
 すると、端っこにいた空は近くまで寄ってきて、ベッドの傍にあった丸椅子にストンと座った。
 俺は上半身だけ、ゆっくりと体を起こした。

 「ごめんな」

 再び謝る俺。
 女々しいって思われるかもしれない。
 だけど、謝らずにはいられなかった。

 「バカ青」

 久々に会った初めの言葉がそれかよ。
 俺は少し笑う。

 すると、空は、俺の手をぎゅっと握った。空の顔は下を向いていてよく見えない。
 付き合っているとき、俺から握ることはあったが、空から握ってくれることは一度もなかった。そんな空が俺の手を自分から握ってきた。

 自分の心臓がうるさい。
 このまま空を抱きしめたい。
 俺はそんな気持ちを必死に抑える。

 「青……。好きだバカ」
 「……っ!」

 振り絞った空の声に、俺は目を見開く。
 心臓が大きく跳ねる。
 俺の手の握る空の手が強くなる。

 空の「好き」が、俺の「好き」と同じだった。
 顔を真っ赤に染めた空を見て、その意味を理解するのに、少し時間がかかった。

 ……恋って、案外シンプルだ。
 たったそれだけで、世界がこんなにも輝いて見えるんだから。
 たとえ、ここが病院の個室でも。

 俺ははやる気持ちを抑えながら、空に握られていない方の手を空の肩にまわした。
 そして、優しく空を抱きしめる。
 長くて綺麗な空の黒髪が俺の頬にあたる。

 「空……俺も好きだから」

 俺は、空の耳元で小さくそう呟いた。

 「おかえり。青」

 空は俺の腕の中で小さくそういう。

 「ただいま。空」

 俺は腕をほどいて、空の顔を見た。
 少し濡れた空の頬。

 俺のためにお前泣いてくれたんだよな。

 俺は空の唇にそっと甘いキスを落とした――――。





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 「あ、青!それ私のなんだけどっ」
 「だってここに置いてあったし……。いいだろ別に」

 俺はそういって、空が剥いてくれたリンゴの最後の一切れを口の中に放り込む。

 「あー!このバカ青っ!」

 バシンっ

 「……いって!おい、俺ケガ人なんだけど!」

 空は、さっきまで使っていた教科書を丸めて、遠慮なく俺の頭を叩いてきた。

 「だって、先生に”青の頭、教科書でたたいても大丈夫ですか?”って聞いたら、”全然大丈夫ですよ”って言ってたし!」
 「げっ!まじかよ。これで当分はゆっくり寝れると思ってたのに……」

 空は毎日部活終わりに、俺のところに来てくれる。
 今日は土曜日のまだ2時。一日はまだ長い。
 空は毎日、学校の話や、部活の話をしてくれる。
 俺が事故にあう前よりも明るくなったと思う。
 親友も出来たとか。
 俺もあと2日もすれば退院を控えていた。久々の学校、久々の部活。早く野球がしたいくてうずうずしていた。

 そんな中、誰かが勢いよく病室のドアを開ける。

 「よぉ、青!」

 懐かしい声とともに入ってきたのは、川原先輩。

 「え、先輩!?」

 そう驚くのも束の間。
 その後から続々と野球部全員が入ってこようとする。
 そんな中、奥の方から騒がしい声が聞こえてくる。
 知ってる。その感じ。きっとこの騒ぎ声の原因は_____。

 「青!マジで会いたかったぁー。待たせてごめんなぁ。本当、忙しくてなぁー」
 「ちょ、先輩、俺けが人!」

 2年生の町先輩が病室に勢いよく入ってきて、そのまま俺に抱きついてきた。俺はガッツリとホールドされ逃げようがない。

 倒れる前、町先輩とはバッテリーを組んでいた。
 いつもこんな感じで俺にダル絡みしてくる人懐っこい先輩。俺はギブという意味を込めて、町先輩の背中を何度かたたくと、先輩は「悪い悪い」と言いながら、そっと俺から離れた。

 そして、そっと改めて周りを見渡すと、川原先輩と目が合う。

 「青……。きっと空から聞いているだろうが、俺らは夏の試合で負けたんだ。ごめんな」

 そして、そうやって川原先輩が少し、悲しそうな顔で謝ってくる。

 「なんで謝るんですか」

 空から結果や内容はすべて聞いていた。
 悔しいけど、それは先輩たちが謝ることなんかじゃない。

 「青。俺のせいなんだ」

 川原先輩の後ろの方から、巧が泣きそうな顔をして前に出てきた。

 「巧……。あそこでお前が抑えてたら、俺のポジション、取られてたかもな」

 俺は少し冗談交じりで言う。
 すると、巧は一瞬だが笑顔になって、そのまま口を閉じる。
 きっと、俺が何を言ったってここから俺は巧をどうこうすることなんかできない。その悔しさをどうにかするのは、巧のこの後の行動にかかってくるから。自分でどうにかしなきゃいけないことだから。
 野球での悔しさは野球でしか取り返せない。

 _____ああ、野球したいな。

 「青」

 空の声と共に俺のグローブが飛んできた。

 「え……?」

 野球部の皆も唖然としている。

 「そこの公園で少しやってくれば?」

 こいつは、超能力でも使えるのか。

 「よしっ!奥さんの了解ももらったし!いくぞ青!」

 町先輩が否応なしに俺の手を引く。

 「えっ、っちょ……っ!」

 俺は町先輩に引かれるまま病室を飛び出した。
 そして、残りの野球部も皆ついてくる。

 今日も空は_____青空だ______。

 「いくぞっ!青っ」
 「おうっ、こい!」

 目の前には俺の球をとってくれる巧。
 俺の好きな音が公園に響き渡る。
 やっぱり気持ちいい。頬を伝う風。じわりと滲む汗。グローブにボールが入る感覚。見慣れたチームメイト。何もかもが懐かしい。
 俺の顔は自然と笑顔になる。

 「あーおっ!そろそろ検査の時間っ!」

 遠くから空が俺を呼ぶ声が聞こえる。
 もう行かないとか。

 「じゃあ、俺もう時間なんでっ!」

 俺は軽くチームメイトにお辞儀をして、公園を後にした。
 公園の出口には空が立っている。

 「さんきゅうな、空」

 俺はそういってグローブを空に渡す。

 「別に」

 空は、少し照れたのか顔をそらして歩き出す。

 少し強い風が吹いた。
 その瞬間大きく揺れる俺の好きな空の長い髪。
 綺麗で透き通るような黒。
 俺は、そっと空の手を握った。すると、空も俺の手を握り返す。その瞬間ふと溢れる笑み。

 「何笑ってんの?」

 空が俺の顔を覗き込んでくる。

 「別に」

 そういって俺らは歩き出す。
 さあ、2人で未来へ歩き出そうか。
 2人ならもう大丈夫なはずだから――――。