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 「ピ、ピ……」という機械音が、遠くから徐々に近づいてくる。
 聞き覚えのあるその音に、私は重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。

 白い天井。
 あ、ここは病院か。

 どうやら私はベッドの上にいるよう。
 右を見れば点滴。
 何本かの細い紐で私は繋がれている。

 なんで私がこんな状態に。
 ……まるで、あのときの青みたい。

 「空っ!」

 あ……お母さん。
 
 声に出したつもりだったけど、声にならない。のどが何かにつっかえて声が出ない。

 そんな私をお母さんは今にも泣きそうな顔で覗き込んでくる。

 あれ、そういえば私さっきまで青のところにいたはずなのに。なんで今こんな状況に……?

 「空……。お前今まで体に異常はなかったか?」

 お父さんは私の様子を見ながら優しく聞いてくる。

 そう問われて初めて自分の体調を振り返る。
 今考えてみればあった。
 生理がこなくなった。立ちくらみが毎日のようにした。ダイエットもしていないのにがくんと体重がおちた。食欲があまりなかった。
 でもこれらはすべて、ストレスだって思ってあまり気にしていなかった。青がいなくなってきっと疲れてるんだって思っていた。
 でも……。そうでしょ?

 私にはまだしなければいけないことがある。青との約束を私が守らなくちゃいけないから。

 「私……大丈夫なんだよね?」

 私はやっとのことで出した声は、思っていたよりもか細かった。2人は一瞬、何か言うのを躊躇うのがわかった。

 しかし、お父さんがゆっくりと覚悟を決めたように口を開く。

 「空……お前は……。癌なんだ」

 「癌」——そのたった一文字が、脳内を真っ白に塗りつぶす。
 胸の奥で何かが崩れ落ち、心臓の鼓動が一気に早まる。口元が震え、息が詰まる。

 「はは」

 こんな状況で、そう声に出して私は笑っていた。
 何これ。何の冗談?
 何も面白くない。何も笑えない。
 だけど_____そう、声に出さないと、どうにかなってしまいそうだった。

 「空」

 お父さんの声が、病室に優しく響く。

 「聞け」

 そうはっきりと私をまっすぐ見てそういう。

 「絶対に、大丈夫だ」

 そして、お父さんは私から目をそらさないで、そう断言する。
 何が大丈夫かなんて、そんなのわからないし、きっと私を安心させるための言葉なんだろうってわかった。
 わかったけど、きっと私はその言葉が欲しくて______気づけば頬を涙が伝っていた。

 それから、お父さんは、私が落ち着くのを待ってから、順を追って私のことを説明してくれた________。

 『水木空さんのお宅でしょうか。今すぐ病院に来て頂けますでしょうか。娘さんがうちの病院で倒れました』

 偶然にも仕事が早く終わり、家で寛いでいた両親は急いで病院へ来たという。そして、すぐに私のところへと通され、私が倒れた原因を聞いたとか。

 私の癌は『大腸癌』。
 10代での発症は非常に珍しいらしい。
 今の状態は、癌はリンパ節の転移こそしていないものの、もう大腸の壁への浸潤が見られており、手術をしなければいけない。そのため転移の恐れがあるリンパ節を切除するとか言ってた。
 そして、癌にはステージがあって、私はステージⅡ。治療方法もステージによって違うらしい。ちなみに……5年生存率は約80%なんだって。

 お父さんは包み隠さない様子で、そう私に話しきった後、両親2人は、先生に呼ばれて私はまた1人病室に残る。

 ふと、病室の窓から外を眺める。

 今日の降水確率は確か、20%とか言っていたっけ。
 そんな事を、思い出しながらしとしとと、窓ガラスを濡らす雨を私はただ一人ぼんやりと眺めていた_______。




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 私の病気が分かって1か月が過ぎた。
 私は無事手術を終え、今まで通り学校へ行っている。

 初めは部活のメンバーに心配されたが、今はもう大丈夫。
 癌のことは誰にも言っていない。学校には”ストレスによる疲労”と言ってある。別に同情とかしてほしくないし。無事癌を切除したから、言うまでもないと思った。

 「空!今日部活ないんでしょ?」

 私が帰ろうとしていた矢先、玄関で愛梨に引き留められた。

 「あ、うん」

 私は小さく頷く。
 今日は青のところに行こうと思ってたんだけど……。

 「ちょっと付き合って!合コンっ!」

 ……え。

 「合コン??」

 待って、私男子苦手なんだけど……。

 野球部と青は別。でも、初めは野球部ともうまく馴染めなかった。だけど、あの時は青がいたから……。

 「空、相原くん以外の男子と絡んでみないと!そしたら、何かわかるかもよっ。ほら、相原君が目覚ますまでに、その相原君に抱いている気持ちの正体突き止めるんでしょ?」

 それはそうだけど……。合コンはさすがに……。

 「ほら!いくよ!」
 「えっ……!?」

 私は愛梨に手を引かれるまま学校を後にした。 
 今日の空は、すこしどんよりと曇っていた。

 「よしっ!着いた!」

 愛梨が止まった先は、カラオケボックス。

 「愛梨……私やっぱり……」
 「空!ここまで来て、それはないでしょ!ほら、勇気だして!笑顔、笑顔っ」

 そういって、愛梨は私を無理やり、カラオケボックスへと引っ張っていく。そして、店内をずんずん進んで行き、ある個室の前で足を止めた。

 「こんにちは……」

 愛梨がそっとその扉を開けた。

 そこには3人の男たち。
 彼らは大きな声で騒いでいて、机の上には飲みかけのジュースが乱雑に置かれてあった。
 私は愛梨の後ろに隠れるようにしていた。
 この空気、なんだか嫌い。

 「うぉー、可愛い!愛梨ちゃんと空ちゃんだっけ?よろしくな」

 一番奥に座っていた黒い革ジャンを着た男が口を開いた。

 「あ、はい……。こちらこそ」

 愛梨はそういって、愛想笑いを浮かべる。

 愛梨はこういうのに慣れているの?という疑問がよぎった時、一番手前に座っていた男が立ち上がり私の手を握った。

 その瞬間、一瞬にしてサーッと私の体に鳥肌がったった。

 この手……いやだ。
 青みたいな手じゃない。
 あの、温かい手じゃない。私に触らないで。

 だけど、男は私の手を強く引いて自分の隣に座らせた。

 「空ちゃん……。大丈夫?俺のことそんなに嫌?」

 その男は私の手をしっかり握り続けながら、私の顔を覗き込んで来る。

 私は何も答えなかった。
 俯くことしか出来なかった。

 「あ、その子、男の子苦手なの。私が無理やり連れて来ちゃったんだ」

 愛梨が恐らくフォローのつもりか、そう言って私の向かいの席に腰掛けた。

 「あ、そうなんだ。じゃあ、今日で苦手を克服出来るといいね」

 男がにやりと笑う。

 怖い、気持ち悪い……。顔なんて、上げられるわけない。

 すると、急に男が私の手を離した。
 驚くのも束の間。男はその腕を何のためらいもなく、私の肩に回してきた。

 「……っ!」

 再度鳥肌が全身に立つ。

 嫌だ……っ!触らないで。
 これ以上私に……触らないでっ!

 私は男の腕を即座に振り払った。

 「え……?」

 男は唖然として、私のほうに視線を向け続ける。
 私はもう何も考えられず、椅子を蹴るようにして立ち上がると、そのままカラオケボックスを飛び出した。

 ……向かう先は、やっぱり彼しかいなかった。







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 「はぁ…はぁ…はぁ……」

 私は勢いよく、青のいる病室のドアを開ける。

 「……っ!」

 青の顔を見るとなぜか涙が出てきた。
 前に愛梨に聞いたことがある。

 『ねぇ、愛梨……恋って、どんな気持ちになるの?』
 『んー。なんだろうね。何故か、その人の隣にいると安心して、訳も分からず泣きなくなるし、訳も分からず笑いたくもなる。何よりも、その人の笑顔を見れば何もかもが許せちゃうような気持ちになる……かな?』

 青、私分かったよ。
 私、青が好きなんだとおもう。
 だって、あなたを見るとこんなにドキドキするんだから。 
 こんなに、安心するんだから。

 だから_______

 「ねぇ、お願いだから。目、覚ましてよー」

 そして、また私の隣で笑ってよ。
 また、甲子園行くんだって言ってよ。

 幼馴染みの境界線。
 私はとっくの間に越えていた。
 早く気づけばよかった。
 早く伝えればよかった。

 「青……っ」

 いろんな感情が混ざり合って、涙がとめどなく溢れ出てくる。

 ごめん青。

 「うう…っ……。ぅうわぁあ……っく……」

 私はそれから気のすむまで、青の隣で泣き続けた。

 青が目を覚ましたら伝えよう。
 私はあなたに恋をしていますと――――。





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 季節はもう、秋になろうとしていた。
 青が目を覚まさなくなってもう5か月が過ぎようとしている。
 時間は_____私と青を待ってはくれない。

 今日は月1回の定期検診の日。 
 癌が何処かに転移していないか検査する日。

 「はい。大丈夫ですね。どこにも転移の様子は見られないですし……」

 私の主治医の五十嵐(いがらし)先生が紙をペラペラとめくっている。
 一緒に来ていたお母さんは安堵したのか、胸をさすっている。

 私は表情一つ変えずにその話を座って聞いていた。
 今は大丈夫なだけ。 
 いつまた再発するか分からない。そんな不安を胸に抱いていた。

 『空……』

 私は後ろを振り向く。

 五十嵐先生とお母さんは、私の行動の意味が分からず、頭の上に?マークが浮かんでいる。

 青の声がいました気がするが。
 青がいるはずない。だって青は今病室で_____。

 「……っ!」

 これを勘以外の言葉で表現することは難しい。
 
 今、青の病室にいかなきゃいけない。
 
 そんな衝動性に駆られるがまま私は勢いよく、診察室を飛び出した。

 「ちょっと……空っ!」

 後ろでお母さんが私を呼ぶ声が聞こえる。
 だけど、今の私にはそんな言葉を聞き入れる余裕はなかった。