✳





 キキキ――ッ!! ……ドンッ!

 「青っ!青!あぉ……」

 誰かが俺を呼んでいる。空……か?
 泣いてるのか……。
 誰でもいい。誰でもいいから、あいつの涙を拭ってやってくれ――。





 ✳





 ――――ごめん、青。
 私はあなたの足を引っ張ることしか出来ない。
 私、何も出来ない。ただここで待つことしか出来ない。
 ――――私は、無力だ。




 ✳





 ――――2時間前。

 「ねぇ、青」
 「ん?」
 「私、ちょっとここで降りていい?」
 「え、いいけど……なんで?」

 青はチャリを止めた。止めた場所は学校近くのコンビニ。青が頑張ってくれたおかげで、朝練の時間までには余裕があった。

 「ちょっと買いたい物あるから先行ってて。もう学校近いし、大丈夫」

 私は、青のチャリから降りた。
 私は消しゴムがきれていたことを思い出した。

 「ああ、わかった。じゃあ、後でな!」

 そういって青はまたチャリをこぎ出そうとした。

 その瞬間だった。
 トラックが、まるで時間をねじ曲げたみたいに、スローモーションで私に迫ってきた――その瞬間、青の背中が光に包まれながら、私を突き飛ばした。

 「空!」

 「青ー!!」

 私は叫んで、叫んで……叫んだ。
 嫌だよ。行かないでよ。
 一人ぼっちはもう嫌なんだよ――――。





 ✳





 手術室の扉が開いた。

 「……っ先生!青は、青は?」

 私は先生が出てくるなり飛びついた。
 私の顔はもう涙でぐしょぐしょだった。
 だめだ。涙が止まらない。堪えられない。
 心が、張り裂けそうだった。
 おじさんとおばさんは真っ青な顔をしている。

 「命は取り留めました。しかし、頭を強く打っています。意識がいつ戻るかはわかりません。最悪、一生このままということも……」

 医者は静かにそういった。
 青の意識が……戻らないかもしれない……。
 あの無邪気な笑顔も。
 あの愛しい手の温もりも。
 青の野球をする姿も。
 もう、見られなくなるかもしれない。
 もう、感じることは出来なくなるかもしれない。

 『俺、甲子園いって、スカウトされて、プロ入りする予定だから』

 私が青の未来を奪った。

 あのとき、そのまま学校に向かっていれば。
 私が2人乗りなんてしなければ。
 私があのとき動けていれば。
 後悔がどんどん募っていく。

 「……うぅ……ごめんなさい……私のせいだ……」

 目の前が真っ暗になる。
 未来が見えない。未来を見たくない。青のいない未来なんて_____。

 ふと、私の頭の上に温かいものが置かれる。
 私の頭をおばさんが撫でていた。

 「空ちゃんは悪くないの。飲酒運転の事故ですもの。大丈夫よ、あの子石頭だから……大丈夫よ」

 おばさんは必死に慰めてくれる。
 だけど、おばさんの目には涙が溜まっていた。

 「……うぅ……ひっ……ううぁ……ううぅ……あぉっ!」

 私はその場に崩れ落ちた。

 ________神様。
 私の大事な人から、大切なものを奪っていかないで。
 野球を彼から奪わないで_______。





 ✳





 青は真っ白なベッドの上で静かに眠っている。
 今日の天気は雨だ。
 私の心の中みたい。

 私はそっと、青の手を握った。
 決して握り返してはくれない青の手。

 「目覚ましてよ……。約束……守ってくれるんじゃなかったの?」

 私の頬を暖かいものが伝う。
 そして、青の手に落ちた。
 私と青との小さい頃からの約束。

 ――――あれを交わしたのは何年前だっただろうか。
 確か、10年前か。
 私と青はまだ幼稚園児だった。

 『藤青学園高校!な、なんと8年ぶりの甲子園出場です』

 私の父と青と私は並んでテレビを見ていた。

 「青、お前はあそこを目指せよ!」

 お父さんが青の頭をくしゃくしゃっと撫でる。

 「あそこって、どこ?」
 「甲子園さ!野球をしている高校生は皆甲子園を目指すんだ。夢の舞台なんだよ」

 お父さんは目を輝かせてそういった。

 「こうしえん?ゆめのぶたい?……俺行く!」

 青はあどけない笑顔でにこっと笑う。

 「おう、頑張れよ青!俺が特訓してやるからな」
 「空もそこ行きたい!!」

 好奇心旺盛な私は、夢の舞台という言葉に惹かれてそう言った。

 「はははっ!空は女の子だからなぁ~」
 「青だけずるいっ!」

 そういって私は泣きじゃくった。

 「そーらーっ!俺が空を連れて行くよ。もっともっと野球練習して、上手くなって、甲子園に空を連れて行く!んで、俺、てっぺん取る!」

 青がそういってくれて私は嬉しかった。
 甲子園に行けるんだと。青が私を連れて行ってくれるんだと。そして青がその大舞台で頂点に立ってくれるんだと。

 「本当に?」
 「うん。約束な?」

 そういって、私は笑顔になったっけ。

 幼い2人の間に出来た大きな約束。
 お互いに小さな手の小指をからめ、私たちは指切りげんまんと歌った。

 私はふと、病室の窓から見える空を見る。
 昨日と全く変わらない空。当たり前か……。
 世界は変わらず動き続けている______。

 今日は泣いてばかりだ。
 明日から学校へ行かなければならない。

 青のいない教室。青のいない部活。
 これが、当たり前になるかもしれない。
 そういえば、ずっと前に青が冗談半分でこんなこと言っていたっけ……。

 「なぁ空」
 「ん?」
 「もし、俺がお前の前から急にいなくなったらどうする?……泣く?」

 その時は、何言ってるのこいつ、とか思っていた。
 だから、あんな返事しか出来なかった。

 「何言ってんの、バカ。じゃあ、青は?」
 「俺?俺は……笑うかな」
 「え……」
 「だって、悲しいの俺だけじゃねぇし。泣いたって、お前は戻って来ねぇし。とにかく目の前にいる人元気づけるかな。……んで、お前探しに行くかな」

 そういって青は笑ってたっけ……。まさか、現実になるなんてね。青は死んだわけじゃない。私の前から消えたわけでもない。
 生きている。
 確かに青はここで生きている。
 ______青はまだ私の目の前にいる。

 私と青の道は一緒だと思ってた。
 だけど、現実、そんなことは許されなくて、自分の足で道を作っていかなければならない。青が作ってくれた道を、今まで私はただ歩いてた。
 だけど、これからは、私が私の道を切り開いていく。
 ――――自分の道を私は歩いてく。

 雨はいつの間にか止み、雲の間から微かに青空が見えた。

 「青が目覚めるまでに、私がやれること全部やってみる。だから……ちゃんと見ててね。」

 そういって、私は青の手をぎゅっと強く握った。そして無理やり笑顔を作ってみる。

 さあ、歩き出そう。
 前を向いて、一歩ずつ未来へ進んでいこう______。





 ✳




 目覚まし時計が鳴る。
 また今日が始まる。――青のいない一日が。
 
 青が学校からいなくなって、もうどれくらい経ったんだろう。
 そんなことを考えながら、私はベッドから体を起こす。

 もうすぐ夏だ。甲子園の予選が始まる。
 ――あの夏が、近づいている。





 ✳





 学校での休み時間。
 私にとって一番、憂鬱な時間かもしれない。
 いつもなら青が隣にいて、何かしら話しかけてくれていたのに。
 今は、その声も、存在もない。

 私は大抵、自分の席で教科書を眺めるか、窓の外をぼんやり見つめて時間を潰している。

 だから、余計な会話が耳に入ってくる。
 聞きたくもない、そんな言葉たち。

 「ねぇ、水木さんって彼氏がいなくなって悲しくないのかな?」
 「てか、笑ってるとこも泣いてるとこも見たことないよね」
 「きっとさ、感情ないんだよ」

 ……ほら、聞こえてくる。

 感情がないわけじゃない。
 私だって……本当は……。

 気を緩めると、すぐに涙が出てきそうになる。
 そんなとき、頭の中で青の笑顔が浮かんでくる。

 『悲しいときこそ、笑顔が一番だよな!』

 ――青……私、笑えてないけど、泣いてないよ。

 心の中で、そう呟いてみる。
 心の中では、素直になれる。
 私は、今日も頑張ってるよ。





 ✳
 




 「そーらちゃんっ!」

 ――え?
 背後から声がする。

 私の名前を呼んでくれる人なんて、青と野球部の一部くらいしかいなかった。
 まして女の子が、私を名前で呼ぶなんて……。

 恐る恐る振り向くと、そこには川島愛梨(かわしま あいり)の姿があった。
 クラスの女子の中心的存在。

 ……なんで、この子が私に?

 「そんな警戒しないでよ……。前から話してみたかったんだけど、相原くんいたから遠慮しててさ」

 ああ……そういえば、私と青が付き合ったのって、入学してすぐだったよね。

 「うん……」

 私はとりあえず頷いてみる。
 女の子とこうして話すの、久しぶりだった。

 「川島さんが……どうして私に?」

 そう尋ねると、彼女はパッと笑顔になった。

 「やっぱり!覚えてくれてた!よかった~」
 「うん、覚えてるよ」
 「ねぇ、私のこと“愛梨”って呼んでよ。私も“空”って呼んでいい?」
 「……うん」
 「ふふっ!なんかうれしいな。空!」

 彼女が私の名前を呼ぶ。
 それだけで、心がじんわり温かくなった。

 青のときとは違う。だけど……優しい温かさだった。

 目頭が熱くなる。
 なんで、こんなときに……。

 「ちょっと……ごめん」

 私は自分でも訳がわからないまま教室を飛び出した。
 もうすぐ授業が始まるというのに、足が止まらなかった。

 『空!』

 愛梨が呼んだ私の名前。
 その響きが、青の声と重なった気がして――

 気づけば、私は屋上にいた。

 もう授業のチャイムは、とっくに鳴っていた。

 人生で初めて、授業をサボってしまった。
 私は顔を覆っていた手をそっと下ろす。

 大丈夫。ここなら、誰もいない。
 ようやく張り詰めていたものが切れて、涙が一気に溢れ出した。

 「……うぅ……青っ……ひっく……」

 溜めていた想いが、抑えきれずにこぼれていく。
 どんなに「大丈夫」って言い聞かせていても、
 どんなに青を信じていても――

 ほんの少し気を緩めるだけで、涙は止まらなかった。

 「ああ、やっぱり……」

 背後から聞こえた声。

 ――愛梨?

 振り返ると、そこにいたのは、やはり愛梨だった。

 「な……なんで……」

 涙も驚きも、もう隠せなかった。

 「辛かったんだよね。泣いていいんだよ。誰にも言わないから」

 彼女はそっと私の背中に手を添えて、優しくさすってくれた。

 その瞬間、溜め込んでいた感情が、一気にあふれ出した。

 「うわぁ……ううぅ……青ぉ……ひっく……」

 愛梨は隣に座り、黙って私の涙を受け止めてくれた。
 その手は、ずっと優しく、私の背をさすり続けていた。

 なぜ、今日初めて話しかけてくれた子の前で、私はこんなに泣けたんだろう。
 自分でもわからない。

 だけど、涙は、止まらなかった。
 不安。悲しみ。寂しさ。焦り。そして、愛しさ。
 すべてが、青への想いとなって、涙になった。

 「……ひっく……」
 「落ち着いた?」

 私はしばらく、たぶん五分くらい泣き続けた。
 こんなに泣いたのは、久しぶりだった。

 「うん……ありがとう」

 そう言うと、愛梨はにこっと笑った。

 あ……その笑い方、青に似てる。
 口角がふっと上がって、子どもみたいに笑うんだ。

 「空って、本当に相原くんのことが好きなんだね?」

 ……え? 私が、青のことを“好き”?

 「なんで、そう思うの……?」
 「だって、こんなに彼のことで泣いてるじゃん」

 それは……幼馴染としての感情であって、
 恋愛感情なんて――

 「……あのさ」

 私は迷ったけれど、打ち明けることにした。
 青との関係を、愛梨にだけは――

 「……ん、何?」

 きっと大丈夫。なぜか、愛梨の傍にいると安心できた。
 まるで、青の傍にいるようだった。

 「私、青に告白された時……青のこと好きじゃなかった。だけど、青を離したくなかった。だから……私、青のことを好きかどうか分からないまま付き合うことにしたの。私……青に最低なことした」

 愛梨は私の目を真っ直ぐに見てくる。
 何もかもが見透かされているようだった。

 「わかってたよ」

 わかってた?

 「なんで?私、このこと青にさえ言ってないのに」
 「相原くんも……わかってたよ」

 ……え。なんで。

 「私、中学の時から相原くんのこと好きだったんだ。あ、そうそう。私と空、同じ中学なんだよ?中学の時は同じクラスになったことないから、知らなくて当然か……。でさ……私卒業式に告白したんだ。相原くんに。だけどさ……。振られちゃった。ものの見事に」
 「……」

 言葉が出てこない。
 だけど、愛梨は固まる私に構わず話を続けた。

 「でさ、そのときの振られ文句が、”俺、空のこと好きなんだ。だけどあいつ、俺のこと男として見てねぇけど”っていってた。だからさ……。相原くんは気づいていたよ」
 「……っ!」

 青は……気づいていた……?
 じゃあ私、知らない間に青を傷つけていたということ……!?

 また、目頭が熱くなる。鼻がツーンとする。また涙が溢れそうになる。

 だめなのに……笑顔でいなきゃいけないのに

 「でもさ、空。ちゃんと相原くんのこと好きじゃん!空も恋してるじゃん!」
 「え……?」

 私はうつむいていた顔を上げた。
 そこで気づく。
 愛梨も泣いている。

 なんで……?

 「私さ……羨ましかったんだ。2人が。正直、空、美人だし、何でも出来るから他の女子みたいに、妬んだ時も、悪口とか言ってた時期もあったよ。でもさ、相原くんが入学式終わったなりの時に、”俺、お前みたいにちゃんと思いぶつける”って言ってくれたの。あり得ないよね、普通。なんで、振った相手に、そんなこと報告するかなって思ったよ。だけど今考えたら、私、相原くんに信頼されてたんだと思う。だって、もしかしたら、私が相原くんの告白邪魔することも出来たわけでしょ。だけど、相原くんは、私がそんなことしないって信じてたから言ってくれたんだって、暫くして分かった。んでね、相原くんが事故にあったって聞いたとき、本当に信じられなかった。あの相原くんが……?って思った。私さ、今相原くんは困っていると思うんだ。”空に心配かけたー”とか、”空、一人になってねぇかなー”とか、目覚まさないだけで、思ってると思うんだよね。だから、次は私が相原くんに恩返しようと思って。空には私がいるから、相原くんはもう少しゆっくりしてていいよって」

 愛梨は一生懸命今までのこと語ってくれた。

 青、こんないい子振るとか頭どうかしてるよ。
 本当に青はバカなんだね。

 「早く目覚まさないと、空、私じゃ満足しないかっ! あははっ!」

 続けてそう言って笑う愛梨の瞳は、涙で滲んでいた。

 「……でも、ありがと。空が泣いてくれて、ちょっと安心した」
 「え?」
 「だってさ、ずっと強がってるように見えたんだもん。誰にも弱音吐かないし、泣きもしないし……私だったら、壊れちゃうよ」
 「……壊れそうだったよ」

 私は小さく呟いた。

 「でも……今日、愛梨が声をかけてくれて、ここに来てくれて……本当に救われた」
 「えへへ、なんか照れるな」

 愛梨は照れ隠しのように笑ってから、私をじっと見つめた。

 「これからもさ、私、空のそばにいてもいい?」
 「……うん」

 素直に、そう答えられた。誰かに、こんなふうに心を開けたのは、青以外では初めてかもしれない。

 ――青。

 あなたがいなくなってから、私の世界は止まってた。
 だけど今、ほんの少しだけ、前に進めそうな気がするよ。

 屋上に吹く風が、夏の匂いを運んでくる。
 もうすぐ、あの夏がやってくる。
 私たちが、甲子園を夢見ていた、あの夏が______。

 



 ✳




 「空! 明日の試合の日程なんだが……」
 「はいっ」

 私は相変わらず、マネージャーの仕事を淡々とこなしていた。
 というか、この方がいい。体を動かしていれば、青のことを考えずに済むから。
 でも、ほんの少し気を緩めた瞬間、あのマウンドに立つ誇らしげな青の姿が脳裏に浮かんでしまう。

 今そこに、青はいないのに。
 それでも私は、前に進むって決めたから。
 次の試合は、甲子園に繋がる大切な予選。
 私、青のいないこの野球部で、甲子園を目指すよ。
 この、青空の下で――。

 「空、青の調子はどうだ?」

 部活の帰り道。たまたま帰る方向が同じ舟橋(ふなはし)先輩と一緒になった。
 青と仲が良かった、同じポジションのピッチャー。
 2年生で、気配りのできる優しい先輩。

 「んー……相変わらずです」
 「そうか……寂しいな」

 ――寂しい。
 その言葉が胸に響く。
 確かに私も寂しいけど、それはきっと、私だけじゃない。
 舟橋先輩も、きっと同じ気持ちなんだ。

 「先輩。……試合、頑張りましょう」

 無理やり、だけど私は笑顔を作った。
 この野球部で笑った回数なんて、きっと片手で足りる。
 だから、そんな私の笑顔に、先輩は少し驚いた顔をして、そして静かに笑ってくれた。

 ――これでいい。

 『空、お前は笑えよ』

 青の口癖。
 私が笑っていれば、それでいいんでしょ?

 青は、いないけれど。
 それでもいつだって、私に道を示してくれる。
 違う道を歩いていても、その先の光を見せてくれる。
 今も、これからも、ずっと。

 さあ、試合は一週間後。
 今年も、あの熱い夏がやってくる。

 青。あなたは今、どこにいるの?

 空から、私のことを見てるのかな。
 ……そんな暇があるなら、さっさと自分の体に戻ってきてよ。

 でもね、私、案外うまくやれてるよ。
 親友ができたの。
 今は、あなたの隣にいたはずのポジションに、愛梨がいてくれる。
 だから――そろそろ目を覚ましてよ。

 「バカ青……」

 私は、病室のベッドのそばにある丸椅子に腰を下ろす。
 ベッドの上では、静かに眠る青が、まるでただの昼寝をしているみたいに呼吸を繰り返していた。

 「……やっぱり、起きてくれないか」

 ぽつりとつぶやく声は、どこまでも空虚だった。
 教科書で頭を叩いたって、もうびくともしない。
 だけど、それでも私は来てしまう。あなたに会いたくて。

 青の髪が少し伸びていた。
 坊主頭だったから、ほんの少し伸びただけでもすぐわかる。
 頭皮なんて、もう全然見えない。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 青がいなくなって、もう……1か月。
 慣れるわけがない。
 青のいない毎日に、私はきっと一生慣れない。

 私はそっと、青の手を握った。
 何の反応もない手。もう握り返してはくれない。
 でも、私は思い出していた。あの頃の温かい記憶。

 帰り道、私がぎゅっと手を握れば、青もぎゅっと握り返してくれたっけ。

 ――あのとき、私は幸せだったんだね。

 心臓が、トクン、トクンと鳴る。
 私の中に広がる、この感情は何?

 前に、愛梨が言っていた。

 『恋ってさ、不思議なものだよ。いつの間にか誰かを好きになってて……自分が恋してるって気づかない時もある。もしかしたら、認めたくないだけなのかもしれないけど』

 私にとって、“恋”はまだよくわからないものだった。
 “好き”って感情も、まだちゃんと理解できない。
 ただ、どうして心臓が鳴るのか、それだけがわからない。

 ――ねえ、青。
 あなたが目を覚ますまでに、私、この気持ちの正体を突き止めるから。

 今日は、あなたに勇気をもらいに来たんだ。
 明後日、試合があるから。
 あなたが目覚めたとき、いい報告ができるように。

 「青……待っててね」

 私はそう言って、青の手をそっと離し、静かに病室を後にした。

 夜の道を、一人歩く。
 空には、星がたくさん輝いていた。
 その儚くきらめく光が、私の肩に、そっと降り注いでいた。