✳
キキキ――ッ!! ……ドンッ!
「青っ!青!あぉ……」
誰かが俺を呼んでいる。空……か?
泣いてるのか……。
誰でもいい。誰でもいいから、あいつの涙を拭ってやってくれ――。
✳
――――ごめん、青。
私はあなたの足を引っ張ることしか出来ない。
私、何も出来ない。ただここで待つことしか出来ない。
――――私は、無力だ。
✳
――――2時間前。
「ねぇ、青」
「ん?」
「私、ちょっとここで降りていい?」
「え、いいけど……なんで?」
青はチャリを止めた。止めた場所は学校近くのコンビニ。青が頑張ってくれたおかげで、朝練の時間までには余裕があった。
「ちょっと買いたい物あるから先行ってて。もう学校近いし、大丈夫」
私は、青のチャリから降りた。
私は消しゴムがきれていたことを思い出した。
「ああ、わかった。じゃあ、後でな!」
そういって青はまたチャリをこぎ出そうとした。
その瞬間だった。
トラックが、まるで時間をねじ曲げたみたいに、スローモーションで私に迫ってきた――その瞬間、青の背中が光に包まれながら、私を突き飛ばした。
「空!」
「青ー!!」
私は叫んで、叫んで……叫んだ。
嫌だよ。行かないでよ。
一人ぼっちはもう嫌なんだよ――――。
✳
手術室の扉が開いた。
「……っ先生!青は、青は?」
私は先生が出てくるなり飛びついた。
私の顔はもう涙でぐしょぐしょだった。
だめだ。涙が止まらない。堪えられない。
心が、張り裂けそうだった。
おじさんとおばさんは真っ青な顔をしている。
「命は取り留めました。しかし、頭を強く打っています。意識がいつ戻るかはわかりません。最悪、一生このままということも……」
医者は静かにそういった。
青の意識が……戻らないかもしれない……。
あの無邪気な笑顔も。
あの愛しい手の温もりも。
青の野球をする姿も。
もう、見られなくなるかもしれない。
もう、感じることは出来なくなるかもしれない。
『俺、甲子園いって、スカウトされて、プロ入りする予定だから』
私が青の未来を奪った。
あのとき、そのまま学校に向かっていれば。
私が2人乗りなんてしなければ。
私があのとき動けていれば。
後悔がどんどん募っていく。
「……うぅ……ごめんなさい……私のせいだ……」
目の前が真っ暗になる。
未来が見えない。未来を見たくない。青のいない未来なんて_____。
ふと、私の頭の上に温かいものが置かれる。
私の頭をおばさんが撫でていた。
「空ちゃんは悪くないの。飲酒運転の事故ですもの。大丈夫よ、あの子石頭だから……大丈夫よ」
おばさんは必死に慰めてくれる。
だけど、おばさんの目には涙が溜まっていた。
「……うぅ……ひっ……ううぁ……ううぅ……あぉっ!」
私はその場に崩れ落ちた。
________神様。
私の大事な人から、大切なものを奪っていかないで。
野球を彼から奪わないで_______。
✳
青は真っ白なベッドの上で静かに眠っている。
今日の天気は雨だ。
私の心の中みたい。
私はそっと、青の手を握った。
決して握り返してはくれない青の手。
「目覚ましてよ……。約束……守ってくれるんじゃなかったの?」
私の頬を暖かいものが伝う。
そして、青の手に落ちた。
私と青との小さい頃からの約束。
――――あれを交わしたのは何年前だっただろうか。
確か、10年前か。
私と青はまだ幼稚園児だった。
『藤青学園高校!な、なんと8年ぶりの甲子園出場です』
私の父と青と私は並んでテレビを見ていた。
「青、お前はあそこを目指せよ!」
お父さんが青の頭をくしゃくしゃっと撫でる。
「あそこって、どこ?」
「甲子園さ!野球をしている高校生は皆甲子園を目指すんだ。夢の舞台なんだよ」
お父さんは目を輝かせてそういった。
「こうしえん?ゆめのぶたい?……俺行く!」
青はあどけない笑顔でにこっと笑う。
「おう、頑張れよ青!俺が特訓してやるからな」
「空もそこ行きたい!!」
好奇心旺盛な私は、夢の舞台という言葉に惹かれてそう言った。
「はははっ!空は女の子だからなぁ~」
「青だけずるいっ!」
そういって私は泣きじゃくった。
「そーらーっ!俺が空を連れて行くよ。もっともっと野球練習して、上手くなって、甲子園に空を連れて行く!んで、俺、てっぺん取る!」
青がそういってくれて私は嬉しかった。
甲子園に行けるんだと。青が私を連れて行ってくれるんだと。そして青がその大舞台で頂点に立ってくれるんだと。
「本当に?」
「うん。約束な?」
そういって、私は笑顔になったっけ。
幼い2人の間に出来た大きな約束。
お互いに小さな手の小指をからめ、私たちは指切りげんまんと歌った。
私はふと、病室の窓から見える空を見る。
昨日と全く変わらない空。当たり前か……。
世界は変わらず動き続けている______。
今日は泣いてばかりだ。
明日から学校へ行かなければならない。
青のいない教室。青のいない部活。
これが、当たり前になるかもしれない。
そういえば、ずっと前に青が冗談半分でこんなこと言っていたっけ……。
「なぁ空」
「ん?」
「もし、俺がお前の前から急にいなくなったらどうする?……泣く?」
その時は、何言ってるのこいつ、とか思っていた。
だから、あんな返事しか出来なかった。
「何言ってんの、バカ。じゃあ、青は?」
「俺?俺は……笑うかな」
「え……」
「だって、悲しいの俺だけじゃねぇし。泣いたって、お前は戻って来ねぇし。とにかく目の前にいる人元気づけるかな。……んで、お前探しに行くかな」
そういって青は笑ってたっけ……。まさか、現実になるなんてね。青は死んだわけじゃない。私の前から消えたわけでもない。
生きている。
確かに青はここで生きている。
______青はまだ私の目の前にいる。
私と青の道は一緒だと思ってた。
だけど、現実、そんなことは許されなくて、自分の足で道を作っていかなければならない。青が作ってくれた道を、今まで私はただ歩いてた。
だけど、これからは、私が私の道を切り開いていく。
――――自分の道を私は歩いてく。
雨はいつの間にか止み、雲の間から微かに青空が見えた。
「青が目覚めるまでに、私がやれること全部やってみる。だから……ちゃんと見ててね。」
そういって、私は青の手をぎゅっと強く握った。そして無理やり笑顔を作ってみる。
さあ、歩き出そう。
前を向いて、一歩ずつ未来へ進んでいこう______。
✳
目覚まし時計が鳴る。
また今日が始まる。――青のいない一日が。
青が学校からいなくなって、もうどれくらい経ったんだろう。
そんなことを考えながら、私はベッドから体を起こす。
もうすぐ夏だ。甲子園の予選が始まる。
――あの夏が、近づいている。
✳
学校での休み時間。
私にとって一番、憂鬱な時間かもしれない。
いつもなら青が隣にいて、何かしら話しかけてくれていたのに。
今は、その声も、存在もない。
私は大抵、自分の席で教科書を眺めるか、窓の外をぼんやり見つめて時間を潰している。
だから、余計な会話が耳に入ってくる。
聞きたくもない、そんな言葉たち。
「ねぇ、水木さんって彼氏がいなくなって悲しくないのかな?」
「てか、笑ってるとこも泣いてるとこも見たことないよね」
「きっとさ、感情ないんだよ」
……ほら、聞こえてくる。
感情がないわけじゃない。
私だって……本当は……。
気を緩めると、すぐに涙が出てきそうになる。
そんなとき、頭の中で青の笑顔が浮かんでくる。
『悲しいときこそ、笑顔が一番だよな!』
――青……私、笑えてないけど、泣いてないよ。
心の中で、そう呟いてみる。
心の中では、素直になれる。
私は、今日も頑張ってるよ。
✳
「そーらちゃんっ!」
――え?
背後から声がする。
私の名前を呼んでくれる人なんて、青と野球部の一部くらいしかいなかった。
まして女の子が、私を名前で呼ぶなんて……。
恐る恐る振り向くと、そこには川島愛梨の姿があった。
クラスの女子の中心的存在。
……なんで、この子が私に?
「そんな警戒しないでよ……。前から話してみたかったんだけど、相原くんいたから遠慮しててさ」
ああ……そういえば、私と青が付き合ったのって、入学してすぐだったよね。
「うん……」
私はとりあえず頷いてみる。
女の子とこうして話すの、久しぶりだった。
「川島さんが……どうして私に?」
そう尋ねると、彼女はパッと笑顔になった。
「やっぱり!覚えてくれてた!よかった~」
「うん、覚えてるよ」
「ねぇ、私のこと“愛梨”って呼んでよ。私も“空”って呼んでいい?」
「……うん」
「ふふっ!なんかうれしいな。空!」
彼女が私の名前を呼ぶ。
それだけで、心がじんわり温かくなった。
青のときとは違う。だけど……優しい温かさだった。
目頭が熱くなる。
なんで、こんなときに……。
「ちょっと……ごめん」
私は自分でも訳がわからないまま教室を飛び出した。
もうすぐ授業が始まるというのに、足が止まらなかった。
『空!』
愛梨が呼んだ私の名前。
その響きが、青の声と重なった気がして――
気づけば、私は屋上にいた。
もう授業のチャイムは、とっくに鳴っていた。
人生で初めて、授業をサボってしまった。
私は顔を覆っていた手をそっと下ろす。
大丈夫。ここなら、誰もいない。
ようやく張り詰めていたものが切れて、涙が一気に溢れ出した。
「……うぅ……青っ……ひっく……」
溜めていた想いが、抑えきれずにこぼれていく。
どんなに「大丈夫」って言い聞かせていても、
どんなに青を信じていても――
ほんの少し気を緩めるだけで、涙は止まらなかった。
「ああ、やっぱり……」
背後から聞こえた声。
――愛梨?
振り返ると、そこにいたのは、やはり愛梨だった。
「な……なんで……」
涙も驚きも、もう隠せなかった。
「辛かったんだよね。泣いていいんだよ。誰にも言わないから」
彼女はそっと私の背中に手を添えて、優しくさすってくれた。
その瞬間、溜め込んでいた感情が、一気にあふれ出した。
「うわぁ……ううぅ……青ぉ……ひっく……」
愛梨は隣に座り、黙って私の涙を受け止めてくれた。
その手は、ずっと優しく、私の背をさすり続けていた。
なぜ、今日初めて話しかけてくれた子の前で、私はこんなに泣けたんだろう。
自分でもわからない。
だけど、涙は、止まらなかった。
不安。悲しみ。寂しさ。焦り。そして、愛しさ。
すべてが、青への想いとなって、涙になった。
「……ひっく……」
「落ち着いた?」
私はしばらく、たぶん五分くらい泣き続けた。
こんなに泣いたのは、久しぶりだった。
「うん……ありがとう」
そう言うと、愛梨はにこっと笑った。
あ……その笑い方、青に似てる。
口角がふっと上がって、子どもみたいに笑うんだ。
「空って、本当に相原くんのことが好きなんだね?」
……え? 私が、青のことを“好き”?
「なんで、そう思うの……?」
「だって、こんなに彼のことで泣いてるじゃん」
それは……幼馴染としての感情であって、
恋愛感情なんて――
「……あのさ」
私は迷ったけれど、打ち明けることにした。
青との関係を、愛梨にだけは――
「……ん、何?」
きっと大丈夫。なぜか、愛梨の傍にいると安心できた。
まるで、青の傍にいるようだった。
「私、青に告白された時……青のこと好きじゃなかった。だけど、青を離したくなかった。だから……私、青のことを好きかどうか分からないまま付き合うことにしたの。私……青に最低なことした」
愛梨は私の目を真っ直ぐに見てくる。
何もかもが見透かされているようだった。
「わかってたよ」
わかってた?
「なんで?私、このこと青にさえ言ってないのに」
「相原くんも……わかってたよ」
……え。なんで。
「私、中学の時から相原くんのこと好きだったんだ。あ、そうそう。私と空、同じ中学なんだよ?中学の時は同じクラスになったことないから、知らなくて当然か……。でさ……私卒業式に告白したんだ。相原くんに。だけどさ……。振られちゃった。ものの見事に」
「……」
言葉が出てこない。
だけど、愛梨は固まる私に構わず話を続けた。
「でさ、そのときの振られ文句が、”俺、空のこと好きなんだ。だけどあいつ、俺のこと男として見てねぇけど”っていってた。だからさ……。相原くんは気づいていたよ」
「……っ!」
青は……気づいていた……?
じゃあ私、知らない間に青を傷つけていたということ……!?
また、目頭が熱くなる。鼻がツーンとする。また涙が溢れそうになる。
だめなのに……笑顔でいなきゃいけないのに
「でもさ、空。ちゃんと相原くんのこと好きじゃん!空も恋してるじゃん!」
「え……?」
私はうつむいていた顔を上げた。
そこで気づく。
愛梨も泣いている。
なんで……?
「私さ……羨ましかったんだ。2人が。正直、空、美人だし、何でも出来るから他の女子みたいに、妬んだ時も、悪口とか言ってた時期もあったよ。でもさ、相原くんが入学式終わったなりの時に、”俺、お前みたいにちゃんと思いぶつける”って言ってくれたの。あり得ないよね、普通。なんで、振った相手に、そんなこと報告するかなって思ったよ。だけど今考えたら、私、相原くんに信頼されてたんだと思う。だって、もしかしたら、私が相原くんの告白邪魔することも出来たわけでしょ。だけど、相原くんは、私がそんなことしないって信じてたから言ってくれたんだって、暫くして分かった。んでね、相原くんが事故にあったって聞いたとき、本当に信じられなかった。あの相原くんが……?って思った。私さ、今相原くんは困っていると思うんだ。”空に心配かけたー”とか、”空、一人になってねぇかなー”とか、目覚まさないだけで、思ってると思うんだよね。だから、次は私が相原くんに恩返しようと思って。空には私がいるから、相原くんはもう少しゆっくりしてていいよって」
愛梨は一生懸命今までのこと語ってくれた。
青、こんないい子振るとか頭どうかしてるよ。
本当に青はバカなんだね。
「早く目覚まさないと、空、私じゃ満足しないかっ! あははっ!」
続けてそう言って笑う愛梨の瞳は、涙で滲んでいた。
「……でも、ありがと。空が泣いてくれて、ちょっと安心した」
「え?」
「だってさ、ずっと強がってるように見えたんだもん。誰にも弱音吐かないし、泣きもしないし……私だったら、壊れちゃうよ」
「……壊れそうだったよ」
私は小さく呟いた。
「でも……今日、愛梨が声をかけてくれて、ここに来てくれて……本当に救われた」
「えへへ、なんか照れるな」
愛梨は照れ隠しのように笑ってから、私をじっと見つめた。
「これからもさ、私、空のそばにいてもいい?」
「……うん」
素直に、そう答えられた。誰かに、こんなふうに心を開けたのは、青以外では初めてかもしれない。
――青。
あなたがいなくなってから、私の世界は止まってた。
だけど今、ほんの少しだけ、前に進めそうな気がするよ。
屋上に吹く風が、夏の匂いを運んでくる。
もうすぐ、あの夏がやってくる。
私たちが、甲子園を夢見ていた、あの夏が______。
✳
「空! 明日の試合の日程なんだが……」
「はいっ」
私は相変わらず、マネージャーの仕事を淡々とこなしていた。
というか、この方がいい。体を動かしていれば、青のことを考えずに済むから。
でも、ほんの少し気を緩めた瞬間、あのマウンドに立つ誇らしげな青の姿が脳裏に浮かんでしまう。
今そこに、青はいないのに。
それでも私は、前に進むって決めたから。
次の試合は、甲子園に繋がる大切な予選。
私、青のいないこの野球部で、甲子園を目指すよ。
この、青空の下で――。
「空、青の調子はどうだ?」
部活の帰り道。たまたま帰る方向が同じ舟橋先輩と一緒になった。
青と仲が良かった、同じポジションのピッチャー。
2年生で、気配りのできる優しい先輩。
「んー……相変わらずです」
「そうか……寂しいな」
――寂しい。
その言葉が胸に響く。
確かに私も寂しいけど、それはきっと、私だけじゃない。
舟橋先輩も、きっと同じ気持ちなんだ。
「先輩。……試合、頑張りましょう」
無理やり、だけど私は笑顔を作った。
この野球部で笑った回数なんて、きっと片手で足りる。
だから、そんな私の笑顔に、先輩は少し驚いた顔をして、そして静かに笑ってくれた。
――これでいい。
『空、お前は笑えよ』
青の口癖。
私が笑っていれば、それでいいんでしょ?
青は、いないけれど。
それでもいつだって、私に道を示してくれる。
違う道を歩いていても、その先の光を見せてくれる。
今も、これからも、ずっと。
さあ、試合は一週間後。
今年も、あの熱い夏がやってくる。
青。あなたは今、どこにいるの?
空から、私のことを見てるのかな。
……そんな暇があるなら、さっさと自分の体に戻ってきてよ。
でもね、私、案外うまくやれてるよ。
親友ができたの。
今は、あなたの隣にいたはずのポジションに、愛梨がいてくれる。
だから――そろそろ目を覚ましてよ。
「バカ青……」
私は、病室のベッドのそばにある丸椅子に腰を下ろす。
ベッドの上では、静かに眠る青が、まるでただの昼寝をしているみたいに呼吸を繰り返していた。
「……やっぱり、起きてくれないか」
ぽつりとつぶやく声は、どこまでも空虚だった。
教科書で頭を叩いたって、もうびくともしない。
だけど、それでも私は来てしまう。あなたに会いたくて。
青の髪が少し伸びていた。
坊主頭だったから、ほんの少し伸びただけでもすぐわかる。
頭皮なんて、もう全然見えない。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
青がいなくなって、もう……1か月。
慣れるわけがない。
青のいない毎日に、私はきっと一生慣れない。
私はそっと、青の手を握った。
何の反応もない手。もう握り返してはくれない。
でも、私は思い出していた。あの頃の温かい記憶。
帰り道、私がぎゅっと手を握れば、青もぎゅっと握り返してくれたっけ。
――あのとき、私は幸せだったんだね。
心臓が、トクン、トクンと鳴る。
私の中に広がる、この感情は何?
前に、愛梨が言っていた。
『恋ってさ、不思議なものだよ。いつの間にか誰かを好きになってて……自分が恋してるって気づかない時もある。もしかしたら、認めたくないだけなのかもしれないけど』
私にとって、“恋”はまだよくわからないものだった。
“好き”って感情も、まだちゃんと理解できない。
ただ、どうして心臓が鳴るのか、それだけがわからない。
――ねえ、青。
あなたが目を覚ますまでに、私、この気持ちの正体を突き止めるから。
今日は、あなたに勇気をもらいに来たんだ。
明後日、試合があるから。
あなたが目覚めたとき、いい報告ができるように。
「青……待っててね」
私はそう言って、青の手をそっと離し、静かに病室を後にした。
夜の道を、一人歩く。
空には、星がたくさん輝いていた。
その儚くきらめく光が、私の肩に、そっと降り注いでいた。
キキキ――ッ!! ……ドンッ!
「青っ!青!あぉ……」
誰かが俺を呼んでいる。空……か?
泣いてるのか……。
誰でもいい。誰でもいいから、あいつの涙を拭ってやってくれ――。
✳
――――ごめん、青。
私はあなたの足を引っ張ることしか出来ない。
私、何も出来ない。ただここで待つことしか出来ない。
――――私は、無力だ。
✳
――――2時間前。
「ねぇ、青」
「ん?」
「私、ちょっとここで降りていい?」
「え、いいけど……なんで?」
青はチャリを止めた。止めた場所は学校近くのコンビニ。青が頑張ってくれたおかげで、朝練の時間までには余裕があった。
「ちょっと買いたい物あるから先行ってて。もう学校近いし、大丈夫」
私は、青のチャリから降りた。
私は消しゴムがきれていたことを思い出した。
「ああ、わかった。じゃあ、後でな!」
そういって青はまたチャリをこぎ出そうとした。
その瞬間だった。
トラックが、まるで時間をねじ曲げたみたいに、スローモーションで私に迫ってきた――その瞬間、青の背中が光に包まれながら、私を突き飛ばした。
「空!」
「青ー!!」
私は叫んで、叫んで……叫んだ。
嫌だよ。行かないでよ。
一人ぼっちはもう嫌なんだよ――――。
✳
手術室の扉が開いた。
「……っ先生!青は、青は?」
私は先生が出てくるなり飛びついた。
私の顔はもう涙でぐしょぐしょだった。
だめだ。涙が止まらない。堪えられない。
心が、張り裂けそうだった。
おじさんとおばさんは真っ青な顔をしている。
「命は取り留めました。しかし、頭を強く打っています。意識がいつ戻るかはわかりません。最悪、一生このままということも……」
医者は静かにそういった。
青の意識が……戻らないかもしれない……。
あの無邪気な笑顔も。
あの愛しい手の温もりも。
青の野球をする姿も。
もう、見られなくなるかもしれない。
もう、感じることは出来なくなるかもしれない。
『俺、甲子園いって、スカウトされて、プロ入りする予定だから』
私が青の未来を奪った。
あのとき、そのまま学校に向かっていれば。
私が2人乗りなんてしなければ。
私があのとき動けていれば。
後悔がどんどん募っていく。
「……うぅ……ごめんなさい……私のせいだ……」
目の前が真っ暗になる。
未来が見えない。未来を見たくない。青のいない未来なんて_____。
ふと、私の頭の上に温かいものが置かれる。
私の頭をおばさんが撫でていた。
「空ちゃんは悪くないの。飲酒運転の事故ですもの。大丈夫よ、あの子石頭だから……大丈夫よ」
おばさんは必死に慰めてくれる。
だけど、おばさんの目には涙が溜まっていた。
「……うぅ……ひっ……ううぁ……ううぅ……あぉっ!」
私はその場に崩れ落ちた。
________神様。
私の大事な人から、大切なものを奪っていかないで。
野球を彼から奪わないで_______。
✳
青は真っ白なベッドの上で静かに眠っている。
今日の天気は雨だ。
私の心の中みたい。
私はそっと、青の手を握った。
決して握り返してはくれない青の手。
「目覚ましてよ……。約束……守ってくれるんじゃなかったの?」
私の頬を暖かいものが伝う。
そして、青の手に落ちた。
私と青との小さい頃からの約束。
――――あれを交わしたのは何年前だっただろうか。
確か、10年前か。
私と青はまだ幼稚園児だった。
『藤青学園高校!な、なんと8年ぶりの甲子園出場です』
私の父と青と私は並んでテレビを見ていた。
「青、お前はあそこを目指せよ!」
お父さんが青の頭をくしゃくしゃっと撫でる。
「あそこって、どこ?」
「甲子園さ!野球をしている高校生は皆甲子園を目指すんだ。夢の舞台なんだよ」
お父さんは目を輝かせてそういった。
「こうしえん?ゆめのぶたい?……俺行く!」
青はあどけない笑顔でにこっと笑う。
「おう、頑張れよ青!俺が特訓してやるからな」
「空もそこ行きたい!!」
好奇心旺盛な私は、夢の舞台という言葉に惹かれてそう言った。
「はははっ!空は女の子だからなぁ~」
「青だけずるいっ!」
そういって私は泣きじゃくった。
「そーらーっ!俺が空を連れて行くよ。もっともっと野球練習して、上手くなって、甲子園に空を連れて行く!んで、俺、てっぺん取る!」
青がそういってくれて私は嬉しかった。
甲子園に行けるんだと。青が私を連れて行ってくれるんだと。そして青がその大舞台で頂点に立ってくれるんだと。
「本当に?」
「うん。約束な?」
そういって、私は笑顔になったっけ。
幼い2人の間に出来た大きな約束。
お互いに小さな手の小指をからめ、私たちは指切りげんまんと歌った。
私はふと、病室の窓から見える空を見る。
昨日と全く変わらない空。当たり前か……。
世界は変わらず動き続けている______。
今日は泣いてばかりだ。
明日から学校へ行かなければならない。
青のいない教室。青のいない部活。
これが、当たり前になるかもしれない。
そういえば、ずっと前に青が冗談半分でこんなこと言っていたっけ……。
「なぁ空」
「ん?」
「もし、俺がお前の前から急にいなくなったらどうする?……泣く?」
その時は、何言ってるのこいつ、とか思っていた。
だから、あんな返事しか出来なかった。
「何言ってんの、バカ。じゃあ、青は?」
「俺?俺は……笑うかな」
「え……」
「だって、悲しいの俺だけじゃねぇし。泣いたって、お前は戻って来ねぇし。とにかく目の前にいる人元気づけるかな。……んで、お前探しに行くかな」
そういって青は笑ってたっけ……。まさか、現実になるなんてね。青は死んだわけじゃない。私の前から消えたわけでもない。
生きている。
確かに青はここで生きている。
______青はまだ私の目の前にいる。
私と青の道は一緒だと思ってた。
だけど、現実、そんなことは許されなくて、自分の足で道を作っていかなければならない。青が作ってくれた道を、今まで私はただ歩いてた。
だけど、これからは、私が私の道を切り開いていく。
――――自分の道を私は歩いてく。
雨はいつの間にか止み、雲の間から微かに青空が見えた。
「青が目覚めるまでに、私がやれること全部やってみる。だから……ちゃんと見ててね。」
そういって、私は青の手をぎゅっと強く握った。そして無理やり笑顔を作ってみる。
さあ、歩き出そう。
前を向いて、一歩ずつ未来へ進んでいこう______。
✳
目覚まし時計が鳴る。
また今日が始まる。――青のいない一日が。
青が学校からいなくなって、もうどれくらい経ったんだろう。
そんなことを考えながら、私はベッドから体を起こす。
もうすぐ夏だ。甲子園の予選が始まる。
――あの夏が、近づいている。
✳
学校での休み時間。
私にとって一番、憂鬱な時間かもしれない。
いつもなら青が隣にいて、何かしら話しかけてくれていたのに。
今は、その声も、存在もない。
私は大抵、自分の席で教科書を眺めるか、窓の外をぼんやり見つめて時間を潰している。
だから、余計な会話が耳に入ってくる。
聞きたくもない、そんな言葉たち。
「ねぇ、水木さんって彼氏がいなくなって悲しくないのかな?」
「てか、笑ってるとこも泣いてるとこも見たことないよね」
「きっとさ、感情ないんだよ」
……ほら、聞こえてくる。
感情がないわけじゃない。
私だって……本当は……。
気を緩めると、すぐに涙が出てきそうになる。
そんなとき、頭の中で青の笑顔が浮かんでくる。
『悲しいときこそ、笑顔が一番だよな!』
――青……私、笑えてないけど、泣いてないよ。
心の中で、そう呟いてみる。
心の中では、素直になれる。
私は、今日も頑張ってるよ。
✳
「そーらちゃんっ!」
――え?
背後から声がする。
私の名前を呼んでくれる人なんて、青と野球部の一部くらいしかいなかった。
まして女の子が、私を名前で呼ぶなんて……。
恐る恐る振り向くと、そこには川島愛梨の姿があった。
クラスの女子の中心的存在。
……なんで、この子が私に?
「そんな警戒しないでよ……。前から話してみたかったんだけど、相原くんいたから遠慮しててさ」
ああ……そういえば、私と青が付き合ったのって、入学してすぐだったよね。
「うん……」
私はとりあえず頷いてみる。
女の子とこうして話すの、久しぶりだった。
「川島さんが……どうして私に?」
そう尋ねると、彼女はパッと笑顔になった。
「やっぱり!覚えてくれてた!よかった~」
「うん、覚えてるよ」
「ねぇ、私のこと“愛梨”って呼んでよ。私も“空”って呼んでいい?」
「……うん」
「ふふっ!なんかうれしいな。空!」
彼女が私の名前を呼ぶ。
それだけで、心がじんわり温かくなった。
青のときとは違う。だけど……優しい温かさだった。
目頭が熱くなる。
なんで、こんなときに……。
「ちょっと……ごめん」
私は自分でも訳がわからないまま教室を飛び出した。
もうすぐ授業が始まるというのに、足が止まらなかった。
『空!』
愛梨が呼んだ私の名前。
その響きが、青の声と重なった気がして――
気づけば、私は屋上にいた。
もう授業のチャイムは、とっくに鳴っていた。
人生で初めて、授業をサボってしまった。
私は顔を覆っていた手をそっと下ろす。
大丈夫。ここなら、誰もいない。
ようやく張り詰めていたものが切れて、涙が一気に溢れ出した。
「……うぅ……青っ……ひっく……」
溜めていた想いが、抑えきれずにこぼれていく。
どんなに「大丈夫」って言い聞かせていても、
どんなに青を信じていても――
ほんの少し気を緩めるだけで、涙は止まらなかった。
「ああ、やっぱり……」
背後から聞こえた声。
――愛梨?
振り返ると、そこにいたのは、やはり愛梨だった。
「な……なんで……」
涙も驚きも、もう隠せなかった。
「辛かったんだよね。泣いていいんだよ。誰にも言わないから」
彼女はそっと私の背中に手を添えて、優しくさすってくれた。
その瞬間、溜め込んでいた感情が、一気にあふれ出した。
「うわぁ……ううぅ……青ぉ……ひっく……」
愛梨は隣に座り、黙って私の涙を受け止めてくれた。
その手は、ずっと優しく、私の背をさすり続けていた。
なぜ、今日初めて話しかけてくれた子の前で、私はこんなに泣けたんだろう。
自分でもわからない。
だけど、涙は、止まらなかった。
不安。悲しみ。寂しさ。焦り。そして、愛しさ。
すべてが、青への想いとなって、涙になった。
「……ひっく……」
「落ち着いた?」
私はしばらく、たぶん五分くらい泣き続けた。
こんなに泣いたのは、久しぶりだった。
「うん……ありがとう」
そう言うと、愛梨はにこっと笑った。
あ……その笑い方、青に似てる。
口角がふっと上がって、子どもみたいに笑うんだ。
「空って、本当に相原くんのことが好きなんだね?」
……え? 私が、青のことを“好き”?
「なんで、そう思うの……?」
「だって、こんなに彼のことで泣いてるじゃん」
それは……幼馴染としての感情であって、
恋愛感情なんて――
「……あのさ」
私は迷ったけれど、打ち明けることにした。
青との関係を、愛梨にだけは――
「……ん、何?」
きっと大丈夫。なぜか、愛梨の傍にいると安心できた。
まるで、青の傍にいるようだった。
「私、青に告白された時……青のこと好きじゃなかった。だけど、青を離したくなかった。だから……私、青のことを好きかどうか分からないまま付き合うことにしたの。私……青に最低なことした」
愛梨は私の目を真っ直ぐに見てくる。
何もかもが見透かされているようだった。
「わかってたよ」
わかってた?
「なんで?私、このこと青にさえ言ってないのに」
「相原くんも……わかってたよ」
……え。なんで。
「私、中学の時から相原くんのこと好きだったんだ。あ、そうそう。私と空、同じ中学なんだよ?中学の時は同じクラスになったことないから、知らなくて当然か……。でさ……私卒業式に告白したんだ。相原くんに。だけどさ……。振られちゃった。ものの見事に」
「……」
言葉が出てこない。
だけど、愛梨は固まる私に構わず話を続けた。
「でさ、そのときの振られ文句が、”俺、空のこと好きなんだ。だけどあいつ、俺のこと男として見てねぇけど”っていってた。だからさ……。相原くんは気づいていたよ」
「……っ!」
青は……気づいていた……?
じゃあ私、知らない間に青を傷つけていたということ……!?
また、目頭が熱くなる。鼻がツーンとする。また涙が溢れそうになる。
だめなのに……笑顔でいなきゃいけないのに
「でもさ、空。ちゃんと相原くんのこと好きじゃん!空も恋してるじゃん!」
「え……?」
私はうつむいていた顔を上げた。
そこで気づく。
愛梨も泣いている。
なんで……?
「私さ……羨ましかったんだ。2人が。正直、空、美人だし、何でも出来るから他の女子みたいに、妬んだ時も、悪口とか言ってた時期もあったよ。でもさ、相原くんが入学式終わったなりの時に、”俺、お前みたいにちゃんと思いぶつける”って言ってくれたの。あり得ないよね、普通。なんで、振った相手に、そんなこと報告するかなって思ったよ。だけど今考えたら、私、相原くんに信頼されてたんだと思う。だって、もしかしたら、私が相原くんの告白邪魔することも出来たわけでしょ。だけど、相原くんは、私がそんなことしないって信じてたから言ってくれたんだって、暫くして分かった。んでね、相原くんが事故にあったって聞いたとき、本当に信じられなかった。あの相原くんが……?って思った。私さ、今相原くんは困っていると思うんだ。”空に心配かけたー”とか、”空、一人になってねぇかなー”とか、目覚まさないだけで、思ってると思うんだよね。だから、次は私が相原くんに恩返しようと思って。空には私がいるから、相原くんはもう少しゆっくりしてていいよって」
愛梨は一生懸命今までのこと語ってくれた。
青、こんないい子振るとか頭どうかしてるよ。
本当に青はバカなんだね。
「早く目覚まさないと、空、私じゃ満足しないかっ! あははっ!」
続けてそう言って笑う愛梨の瞳は、涙で滲んでいた。
「……でも、ありがと。空が泣いてくれて、ちょっと安心した」
「え?」
「だってさ、ずっと強がってるように見えたんだもん。誰にも弱音吐かないし、泣きもしないし……私だったら、壊れちゃうよ」
「……壊れそうだったよ」
私は小さく呟いた。
「でも……今日、愛梨が声をかけてくれて、ここに来てくれて……本当に救われた」
「えへへ、なんか照れるな」
愛梨は照れ隠しのように笑ってから、私をじっと見つめた。
「これからもさ、私、空のそばにいてもいい?」
「……うん」
素直に、そう答えられた。誰かに、こんなふうに心を開けたのは、青以外では初めてかもしれない。
――青。
あなたがいなくなってから、私の世界は止まってた。
だけど今、ほんの少しだけ、前に進めそうな気がするよ。
屋上に吹く風が、夏の匂いを運んでくる。
もうすぐ、あの夏がやってくる。
私たちが、甲子園を夢見ていた、あの夏が______。
✳
「空! 明日の試合の日程なんだが……」
「はいっ」
私は相変わらず、マネージャーの仕事を淡々とこなしていた。
というか、この方がいい。体を動かしていれば、青のことを考えずに済むから。
でも、ほんの少し気を緩めた瞬間、あのマウンドに立つ誇らしげな青の姿が脳裏に浮かんでしまう。
今そこに、青はいないのに。
それでも私は、前に進むって決めたから。
次の試合は、甲子園に繋がる大切な予選。
私、青のいないこの野球部で、甲子園を目指すよ。
この、青空の下で――。
「空、青の調子はどうだ?」
部活の帰り道。たまたま帰る方向が同じ舟橋先輩と一緒になった。
青と仲が良かった、同じポジションのピッチャー。
2年生で、気配りのできる優しい先輩。
「んー……相変わらずです」
「そうか……寂しいな」
――寂しい。
その言葉が胸に響く。
確かに私も寂しいけど、それはきっと、私だけじゃない。
舟橋先輩も、きっと同じ気持ちなんだ。
「先輩。……試合、頑張りましょう」
無理やり、だけど私は笑顔を作った。
この野球部で笑った回数なんて、きっと片手で足りる。
だから、そんな私の笑顔に、先輩は少し驚いた顔をして、そして静かに笑ってくれた。
――これでいい。
『空、お前は笑えよ』
青の口癖。
私が笑っていれば、それでいいんでしょ?
青は、いないけれど。
それでもいつだって、私に道を示してくれる。
違う道を歩いていても、その先の光を見せてくれる。
今も、これからも、ずっと。
さあ、試合は一週間後。
今年も、あの熱い夏がやってくる。
青。あなたは今、どこにいるの?
空から、私のことを見てるのかな。
……そんな暇があるなら、さっさと自分の体に戻ってきてよ。
でもね、私、案外うまくやれてるよ。
親友ができたの。
今は、あなたの隣にいたはずのポジションに、愛梨がいてくれる。
だから――そろそろ目を覚ましてよ。
「バカ青……」
私は、病室のベッドのそばにある丸椅子に腰を下ろす。
ベッドの上では、静かに眠る青が、まるでただの昼寝をしているみたいに呼吸を繰り返していた。
「……やっぱり、起きてくれないか」
ぽつりとつぶやく声は、どこまでも空虚だった。
教科書で頭を叩いたって、もうびくともしない。
だけど、それでも私は来てしまう。あなたに会いたくて。
青の髪が少し伸びていた。
坊主頭だったから、ほんの少し伸びただけでもすぐわかる。
頭皮なんて、もう全然見えない。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
青がいなくなって、もう……1か月。
慣れるわけがない。
青のいない毎日に、私はきっと一生慣れない。
私はそっと、青の手を握った。
何の反応もない手。もう握り返してはくれない。
でも、私は思い出していた。あの頃の温かい記憶。
帰り道、私がぎゅっと手を握れば、青もぎゅっと握り返してくれたっけ。
――あのとき、私は幸せだったんだね。
心臓が、トクン、トクンと鳴る。
私の中に広がる、この感情は何?
前に、愛梨が言っていた。
『恋ってさ、不思議なものだよ。いつの間にか誰かを好きになってて……自分が恋してるって気づかない時もある。もしかしたら、認めたくないだけなのかもしれないけど』
私にとって、“恋”はまだよくわからないものだった。
“好き”って感情も、まだちゃんと理解できない。
ただ、どうして心臓が鳴るのか、それだけがわからない。
――ねえ、青。
あなたが目を覚ますまでに、私、この気持ちの正体を突き止めるから。
今日は、あなたに勇気をもらいに来たんだ。
明後日、試合があるから。
あなたが目覚めたとき、いい報告ができるように。
「青……待っててね」
私はそう言って、青の手をそっと離し、静かに病室を後にした。
夜の道を、一人歩く。
空には、星がたくさん輝いていた。
その儚くきらめく光が、私の肩に、そっと降り注いでいた。



