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 9回表。4対3、2アウト2、3塁。
 南聖としては、ここで逆転して、得点を稼ぎたいところ。

 「……はぁ、はぁ……きっつ!」

 肩で息をする。
 ついさっき、3番を三振に抑えたばかりだ。
 やっとのことで、ここまで来た。

 でも次は、4番バッター。
 あーあ……よりにもよって、一番きつい相手か。
 夏樹が、マスク越しにかすかに笑っているのがわかる。

 『4番、ピッチャー、岩崎くん』

 場内アナウンスとともに、南聖アルプスから、割れるような歓声が飛ぶ。
 ずいぶん期待されているようじゃねぇか____岩崎直樹。

 岩崎は、ネクストサークルから、ゆっくりと打席へと歩いてくる。
 逆転はさせない。成長したのは、俺も一緒。
 お前に影響されて____球のスピードだけじゃなくて、コントロールも、あの夏の日から俺は磨いてきた。

 岩崎が、ゆっくりと、バットを構えて俺を睨んでくるのがわかる。
 真剣な鋭い目で。俺を見透かそうとしている。
 でも、お前には見透かせない。たとえ見透かせても打てるのか。打てるもんなら打ってみな。
 甲子園で初めて投げる、高速の急カーブ。お前に御見舞いしてやるよ。

 「プレイ!」

 審判の声が聞こえた瞬間、いつもよりゆっくりめに、大きく振りかぶる。
 最大限まで、振りかぶった瞬間、全身の力をこの白球に込める。

 いけ。夏樹のミットまで。

 「……っく!」

 投げた瞬間、少し声が漏れたのがわかる。
 バシーン!

 この音が、俺の闘志をかき立てる。一番聞きたかった、ミットの快音だ。

 岩崎は、まったく動かなかった。

 「ボールっ!」

 審判から聞こえた声。

 ちょっと手元が狂ったか。
 俺は、夏樹からの柔らかいボールを受け取り、もう一度マウンドに立つ。
 落ち着け、落ち着け。大丈夫、大丈夫。
 そう、自分に言い聞かせて。
 夏樹がかすかにうなずいたのがわかった。
 それはまるで俺に”大丈夫だ”と言ってくれているようで、少しだけ心が軽くなる。

 俺は、息を整えて投球フォームに入った。
 パシーン!

 球場に響く、ミットに俺のボールが入る音。
 岩崎はさっきと同様、1つも身動きしなかった。

 「ストライクっ!」

 今度は、ちゃんとしっかり投げられていたよう。
 電光掲示板には、135㎞/hと表示された。

 並大抵の高校生は、ストレートでもこの速さを出すことは難しい。それを俺はカーブでやってのけた。

 どれだけ練習したと思って。
 どれだけ手に豆を作ったと思って。

 なぁ岩崎。
 投げ続けてやるから、打てるもんなら打ってみろ。
 打てなかったら、俺らが勝つんだ。

 岩崎の口元がかすかに緩む。
 そして、肩を軽く回し、バッドを再び構える。

 岩崎が俺をにらんでくる。
 さっきの目とは違う。まるで、俺に"もっと本気でこい!"って言っているようなそんな目だった。

 夏樹がストレートのサインを出す。
 にやりと笑ったようにも見えた。
 ……だけど、俺は首を振った。

 違う。
 もう一回。
 もう一回、あのカーブを俺に投げさせろ。
 夏樹は、俺の考えていることが、分かったのか、次にカーブの指示を出す。

 俺はそれに、笑って頷いた。
 俺が笑ったのを見て、夏樹もマスク越しに笑顔を向けてくる。
 夏樹まで、この瞬間を楽しんでいやがる。
 藤青にとっても、南聖にとっても、この場面は勝敗を決める瞬間になるかもしれない。
 そんな、瞬間を俺らは楽しんでいる。
 それが、正しいかどうかは、俺にはわからない。
 だけど、俺はその瞬間を楽しんでいたい。

 「打たせてけ、打たせてけーっ!」
 「2アウト2アウトっ!」

 俺の後ろからは仲間の声がする。
 ほら、俺のバックには力強い仲間がいる。
 だから……俺は今この場で思いっきり野球を楽しむことができる。


 俺は息を整えて、さっきよりも大きく振りかぶる。
 そして、素早くボールを夏樹のミットに向かって放つ。

 カコーン!

  俺の放った白球は、岩崎のバットの先にかすり、バックネットに跳ね返った。
 ……当ててきやがった。あのカーブに、バットを当ててきた……!
 ふざけんな、って叫びたかった。
 でも、その叫びが喉まで出かかった時、胸の奥で別の感情が揺れた。
 ……嬉しい、と思ってしまった自分がいた。

 目の前の夏樹がマスク越しに笑っている。
 そして、俺にストレートの指示。

 ……なんだ、お前も俺と同じじゃねえか。
 そう思ったら、俺も自然に笑みがこぼれた。

 さてもう一球。
 今度はかすりもさせねえよ。


 俺は、肩の力を抜く。
 そして、岩崎を睨みつけて、再び大きく振りかぶった。

 ここから放つのは、俺の豪速球____。

 俺の手からは、綺麗にボールが離れた。
 後は、夏樹のミットに入ってくれれば____。

 一瞬のはずなのに、永遠みたいに長く感じた。
 その先にある結末を、俺はまだ知らない。

 カコーン!

 バットにボールが当たる鈍い音が響いた。
 ボールは岩崎の真上へ高く高く舞い上がる。夏樹がマスクを外し、落下点で構えた。

 重力に従うように、ボールは夏樹のミットへ吸い込まれた。

 「……ゲームセットっ!」

 審判の声が響くよりも先に、仲間たちの歓声がグラウンドに弾けた。

 「っしゃあぁぁぁぁぁぁあ!!」

 夏樹がグローブを掲げて、真っ青な空に向かって叫ぶ。
 夏樹の声に吸い寄せられるようにして、ベンチにいた仲間がうわぁーっと、グラウンドに笑顔で出てきて、整列しだす。
 俺も、あわてて整列する。
 目の前には、涙を流して、悔しがっている、南聖。
 隣には、喜びを隠しきれない藤青。

 「藤青学園高校の勝利。礼っ」
 「「ありがとうございましたっ!」」

 俺たちは、帽子を脱ぎ、軽くお互い礼をして、握手を交わす。それは、戦った者にしか分からない、静かな敬意の握手だった。

 俺たちの声を追うように、試合終了を知らせるサイレンが球場に鳴り響く。
 そんな俺の目の前には、いつの間にか、岩崎が立っていた。

 こいつ……また泣いてねぇな。
 他の奴らは、涙でぐしょぐしょなのに。

 「お前、強くなりやがって……」

 岩崎が、バシッと俺の肩を叩いてきた。
 お互い汗だくの俺ら。
 俺の口元がふっと一瞬にして緩む。

 「お前もな。正直結構きつかったぜ」
 「ははっ!相当練習したからな?これで、手ごたえないって言われたら、今までの俺の頑張りが水の泡だしな」
 「はははっ!お互い成長したってことだな?」
 「ああ。だけど、夏はまけねぇよ」
 「俺らだって」

 岩崎は、すっと俺の前に手を差し出してきた。
 俺はその手をしっかりと握った。
 岩崎も、俺の手をしっかりと握り返してくる。
 そして、俺らは、お互い真逆の方向へと走り出す。
 藤青は俺以外、もう既に整列していた。俺は急いで、列の中へと入りこむ。

 「青、おせぇよ」

 巧が、俺の隣でぼそっと言う。

 「わりっ」
 「気をつけろよ。全国放送なんだからな?」
 「わーってる」

 俺と巧のひそひそ話を終えたとき、球場内のアナウンスが鳴り、藤青の校歌が鳴り響く。
 全校集会とかで聞く校歌は、あんまり好きじゃないけど、この球場で聞く校歌は大好きだった。
 全校集会とかでは、絶対に歌わないのに、この球場でなる校歌には思わず口ずさんでしまう。

 そして、嫌でも実感させられるんだ。
 ――――”藤青が勝った”んだって。





 ✳






 「おーい、皆乗ったか?出発するぞ~!」
 「「ういーっす」」

 巧が、バスに皆乗ったかを確認して、俺らは甲子園球場からホテルへと出発する。
 座った瞬間、眠気と疲労感がどっと押し寄せた。

 「あ……ねっみぃー」

 俺は巧の肩にもたれかかり、そのまま寝る体勢に入った。

 「おいおい……。もう5分でつくんだから、我慢しろ。ってか重い。やめろ」

 巧は両手で、俺の体を押しのけてくる。
 そのときだった。
 俺のカバンの中のスマートフォンが震える。
 俺は、ため息をつきながら、スマートフォンを取り出そうとカバンの中をあさる。

 「青……。お前電源切っとけよ……」

 呆れた顔をしている巧が、ため息交じりに言ってくる。

 「わりわり……っ!!!」

 ディスプレイには、珍しい名前が表示されていた。

 巧は、俺の異変に気付いたのか、俺のケータイを覗き込んでくる。

 俺のスマートフォンには”おばさん(空の母)”と表示されていた。
 巧の顔も険しくなる。そして、「出ろよ」とぼそっと言った。
 俺は、恐る恐る、通話ボタンをゆっくりとタッチした。

 「はい、も……「青君、試合終わったわよね?今すぐ病院来てくれないかしら。……空が……空が……っ!」

 おばさんの声はもう涙声だった。
 空が……どうしたんだよ……危ないって、ことなのか?

 「……どういうことっすか?空に一体何が……!」
 「急に発作が起きて……。今まで何度も発作が起こったことはあったんだけど、今回のは、危ないって先生が!さっきから空の息が浅くて心拍数も……もう……っ!お願い青くん……」

 空……俺が夢に手をかけようとしてるこの瞬間に、また……俺の前からいなくなる気かよ。

 「……巧っ!」

 俺がふっと隣の巧を見ると、巧はもうわかっていたように、こくんとうなずいた。

 「わーってる。……ちょっと待ってろ」

 そういって、巧はすっとバスの席を立ちバスを止めてくれた。

 「青、行ってこい。よかったな?監督バス乗ってなくて。俺から説明しといてやるから。だが、連絡はしろ。わかったな?」

 巧は、ニコッと笑って運転手にドアを開けるよう言ってくれた。

 他の部員は、なんだなんだって騒いでいるが後処理は巧に任せて猛スピードでバスを駆けおり、病院へと駆けだす。

 待ってろ、空。
 まだ行くな。
 まだ離れんな。

 「はぁ…はぁ…はぁ…っ!」

 やっとの思いで到着した空の病室前。
 ここまで来るまでに、何人かの看護師にまた注意されたけど……構ってられるかっての。
 扉に手をかけ、躊躇なく開け放った。

 そこには、涙を浮かべている、おばさん。
 既に嗚咽を漏らしている、西村。
 怖いものを見るかのように、おばさんの後ろに隠れている瑠璃。
 怖い顔をしたおじさん。
 せわしなく動き回っている看護師と医師。

 そしてベッドには……目を堅く閉じて、動く気配を見せない空。

 「青くんっ!」

 おばさんが、涙を浮かべて俺の肩にしがみついてきた。

 「……っ!なんだよこれ……」

 漠然と目の前に広がる現実。
 空は酸素マスクをつけて、たくさんのコードにつながれて、ピッピッピっという機械音が聞こえる。
 看護師さんが、「水木さーん」と空に必死に声をかけながら、忙しなく手を動かしている。
 目を閉じたままの空。

 ……なあ、目を開けてくれよ。
 いつもみたいに、俺の名前を呼んでみろ。
 生意気なひと言でもいいから……言ってみろよ。
 何で……寝てんだよ。

 俺は、おばさんの手をそっと肩から外して、空の寝ているベッドに近づく。

 「あ、ちょっと君っ!」

 空の担当医の大内先生が俺のことを阻もうとするが、俺は躊躇なく空に近づく。
 そして、空の顔を俺は上から覗き込む。
 まるで寝ているようだった。
 スースーと酸素マスクから音が聞こえる。

 「なぁ空……。俺勝ったんだぜ?明後日決勝なんだぜ?……もう目の前に来てんだよ……てっぺんが。なのにお前……のんきに寝てじゃねーよっ!」

 目覚ませよ……頼むから……。

 「……っくっそぉーっ!!」

 俺はその場にしゃがみこんだ。

 何が奇跡起こすだよ。
 結局俺は、なんもできてねぇじゃん。
 なんでこんなにも俺は無力なんだよ。
 俺は、空の手をしっかりと握った。
 空の手は握り返してくることはない。
 目からは、温かいものが頬を伝う。
 病室の床に、一滴の涙が落ちる。

 その瞬間急に機械音のリズムが変わる。

 「……っ!プルス、安定しだしました」

 一人の看護師が、驚いた顔をして、先生の顔を見る。

 「呼吸は?」

 先生はすかさず、質問する。

 「……大丈夫です!安定してきました。BPも回復してきています」
 「……よしっ……」

 先生は、深く息を吐いた。
 俺はゆっくりと立ち上がり、もう一度空の顔を覗き込む。

 「……空?」

 もう一度、問いかけてみる。

 「……んっ……」

 空は、小さく声を出した。
 その瞬間、遠くから見ていた、おじさんとおばさん、瑠璃と西村がどっとベッドに近づいてくる。

 それから空は、ゆっくりと目を開けた。

 「…ぁ…ぉ……?」

 今にも消えそうな……小さな声だった。

 「ああ、空。……勝ったぞ、試合。勝ったからな?」

 俺がそういうと、空はぎこちなく笑った。

 「…ぁ…たりまぇ……」

 いつもの調子の空に思わず笑顔が溢れた。

 「……心配させやがって」
 「……ふふっ……。あ…お。あおは…あおの…道…すすんで」

 空の目からは、涙が1滴流れ落ちる。

 「心拍数、下がりはじめましたっ!……呼吸、浅くなってます!」

 看護師の大きな声が再び病室に響き渡る。

 は?
 空、お前何言ってんだよ。
 まるで……

 「死ぬ前みたいなこと言うなよ。お前まだ……っ!」

 ……本当、何言ってんだよ。

 「……ありがと…みんな……」

 空は、声を振り絞るように笑顔でそう言い切った。
 その笑顔は、今まで俺が見てきた中で1番綺麗な笑顔だった_______。

 「空!ね、空!」

 西村が、パンパンに腫らした目で空の顔を覗き込む。
 おじさんとおばさんは、涙で目がぐしゃぐしゃだった。
 ……おい……。ふざけんなよ。
 お前、まだ俺がてっぺんとるとこ見てねぇんだぞ。

 空の瞼が再び閉じられる。

 「……っ!おいっ!空、目開けろっ!」

 俺は、涙を流しながら、空に叫ぶ。

 「なぁ……お願いだから……。俺の傍から離れないでくれよっ!!」

 そんな俺の言葉は、もう空に届かなかった。
 神様は________俺らに残酷だ。

 「ピーッ」という機械音が、静まり返った病室に響いた。

 「空ぁ……。あああぁー!!」

 おばさんが、病室の床に崩れおちた。
 おじさんは俯き、奥歯を噛み締めながら、声も出さずに耐えていた。
 瑠璃は、わけもわからず、ぽかんとしている。
 西村は、空のベッドに顔をうずめて、わんわん泣いている。
 俺は、ただただ、空の顔を見ながらベッドのそばで突っ立っていた。
 ――――涙はすでに枯れていた。




 ✳





 そこからの記憶は曖昧だった。

 気づいたら朝で、ホテルのベッドの上だった。
 どうやって、病院からここまできたかも覚えてはいない。

 『かっ飛ばさないとぶっ飛ばす』

 俺の側でそんなことを言う強気な君は。

 『青、青は青の道を』

 俺の隣で優しく笑ってくれた君は。

 『もう、離れないから』
 
 顔を赤くして照れていた、愛しい君は。

 『頑張れ、青』

 誰よりも、俺のことを支えてくれた君は。
 もう、この世には居なくて……。

 まるで、俺だけがこの世界に取り残されたみたいだった。
 なんでだろう。
 今は______1人ぼっちの気分だ。

 「……ん……。おお、青。昨日は……。まぁ…あれだったな……」

 巧は目を覚まして、ベッドからゆっくりと出てきた。
 そして、顔を洗いに、洗面所に向かう。
 俺はただ、ベッドの上に座って窓の外をぼーっと見ていた。

 今日は空が綺麗だな。
 綺麗な青だ。

 俺と空が居るから青空があるって思ってた。
 だけど、違うんだな。
 お前がいなくなっても、この世には青空が存在しているんだな。
 そしてちゃんと______俺もいるんだな。




 ✳





 「青。今日の練習は午後から来い。午前は休め。監督にも話は通してある。これは命令だ」
 「……なんでだよ」
 「空の家でも行って気持ちの整理してこい」

 そういって、巧は着替えだした。

 「……悪いな。明日試合だってのに」
 「いーよ。じゃ、俺もう行くから、午後から遅れんなよっ!」

 巧は鞄をグイッと持ち上げて、ものすごい勢いで出て行った。

 今は午前8時。
 俺は、ゆっくりと重い腰を上げ、スウェットからジャージに着替える。
 そしてスマートフォンをポケットに突っ込み、部屋を後にした。
 幸いにも、ホテルを出るまで野球部員には一人も会わなかった。

 俺は、以前川崎から聞いていた空の家の住所を頼りに、歩き出す。

 散歩にはちょうどいい天気だった。
 まるで、青空が優しく微笑んでいるような──そんな朝。

 「……ここか」

 俺は、あるマンションの前で立ち止まる。
 えっと……部屋の番号は、556だな。
 エレベーターに乗り、上へ上へと昇っていく。
 そして、556号室の前で立ち止まり、思い切ってインターホンを押した。
 ドアの向こうからチャイムが鳴り、そのすぐ後に、タッタッタッと誰かが走ってくる音がする。

 「はーい。どなたでしょ……あっ、青くん」

 ドアが開き、顔を見せたのはおばさんだった。
 一日しか経っていないのに、少しやつれて見えた。

 「どーも……ちょっと、お話があって」
 「そうなの……どうぞ、上がってちょうだい」

 本当は話なんてない。
 話すことなんて、何ひとつない。
 だけど、じっとしているのは嫌で、ここまで来た。
 相変わらず優しいおばさんに、小さく礼をして中へと入る。

 玄関を抜け、リビングに通される。
 洋風のシンプルな家具が揃っていた。

 「どうぞ、そこに座って」

 おばさんはぎこちなく笑い、キッチンへと向かっていく。
 俺は言われた通り椅子に腰を下ろした。
 一分も経たないうちに、お盆に温かい飲み物とお菓子を乗せて戻ってきて、それをそっとテーブルに置いた。

 「青くんの口に合うかどうか、わからないけど……」

 そう言って、おばさんは俺の正面に座る。
 空と同じ、綺麗な瞳で、俺をじっと見つめてくる。

 「あ……ありがとうございます。……あの……」
 「……ん?」
 「瑠璃さんと、おじさんは?」
 「ああ……今、買い物に出かけているの」
 「そうですか……。空は……」

 ……まだ、信じたくなかった。
 昨日のことは、きっと悪夢だったと信じたい。

 おばさんはふいに席を立ち、足早に奥の部屋へと消えていった。

 ……これが現実なのか?
 夢じゃないのか?
 夢なら、早く──早く覚めてくれよ。
 息が詰まりそうだ。
 呼吸が苦しい。

 空……お前は、もう俺の傍にはいないのか?

 『いるよ……ちゃんと。離れないって言ったから』

 ……え?
 思わず顔を上げる。
 空の声が──聞こえた気がした。

 だが、目の前には、泣き腫らしたように目を真っ赤にしたおばさんが立っているだけだった。
 いつの間にか、戻ってきていた。

 おばさんは、分厚い一冊のノートを俺の前に差し出した。
 その表紙には、こう書かれていた。

 『青空への手紙』

 「……これは?」

 ノートを見つめたまま、俺はおばさんの顔を見上げる。

 「空の日記よ。青くんと離れて、こっちに来てから書き始めたみたい。これは、あなたが持つべきものだと思って」

 おばさんは、日記を俺の方へグッと押し出した。

 「……いいんですか?」
 「ええ。その方が、空もきっと喜ぶわ」
 「ありがとうございます。あの……葬儀は……」
 「明日なの。でも、青くんは明日決勝戦でしょう? 空も分かってると思うわ。思いきり野球を楽しんできてちょうだい」
 「……そうですか」
 「ええ。青くん、今日は野球の練習は?」
 「午後からなんです。なので……今日はこれで」

 俺が立ち上がると、おばさんも席を立ち、にっこりと笑ってくれた。

 「“空”──この名前はね、青くんがいたからつけたの」
 「……え?」

 その突然の告白に、思わず動きを止めた。

 「青くんのお母さん、千晴さんと私はね、高校時代の親友だったの。千晴はあなたを4月2日に産んで、そのとき私も出産間近で、まだ名前を決めていなかったの。そんなときに千晴が言ったの──『ねぇ、美弥子。ひとつお願いがあるの。というか……賭けに乗ってくれない? 私、この子に“青”って名前をつけようと思ってるの。理由はね……』」

 おばさんは目を細めて、懐かしむように微笑んだ。

 「私はその賭けに乗ったの。そして、あなたたち二人は名前の通りに生きてくれた。本当にありがとう、青くん。空に恋を教えてくれて、ありがとう」

 おばさんは、ぽろりと一粒、涙を流した。
 俺は、溢れそうな涙を必死にこらえ、おばさんの顔をまっすぐ見つめた。

 「……おばさん。空を、生んでくれてありがとうございました」

 俺も、精いっぱいの笑顔を返した。
 




 ✳





 足早にマンションを出て、近くの喫茶店へ向かった。
 昼食を頼み、俺は鞄から空の日記を取り出す。
 テーブルの上でそっとページを開いた。

 そして、昼食を頼み、俺は鞄の中から空の日記を取り出した。
 そして、テーブルの上でそっと開く。
 そこには、変わらない、空の綺麗な字が並べてあった。

 __20××年11月1日

 今日から、日記をつけたいと思う。
 引っ越ししてきてまだ1日目。
 体のあちこちを調べられた。
 手術の日も決まった。
 私の命のカウントダウンが始まった。
 大腸がんからここまでひどくなるとは思わなかった。
 青ともっと一緒にいたかった。
 でも、神様はそれを許してくれなかったみたい。
 私が、きっと素直じゃなかったからなんだろうな。

 __20××年1月20日

 病状も安定してきた。
 日記も結構続いている。
 青、今基礎体力作りに励んでいるころかな。
 春の甲子園はこっちに来るのだろうか。
 藤青の周辺は強豪校ばかりだから。
 でも、青ならきっと大丈夫。
 私との約束、まだ覚えていたりして。

 __20××年4月27日

 今日は初めて地元の学校へ行った。
 正直不安ばかりだったけど、皆驚くほど優しかった。
 愛梨みたいな友達もいっぱいできた。
 青が聞いたら絶対に驚くだろうな。
 青は、私以外に好きな子とかできたのかな。
 青は今ちゃんと笑えてるかな。

 ___20××年7月26日

 今日は美和が病室に新聞を持って学校前にやってきた。
 藤青が甲子園出場を決めたらしい。
 美和は自分の事みたいに喜んでた。
 私、こんなに幸せ者でいいのかな。
 青、あなたはちゃんと自分の足で自分の道を歩いてたんだね。
 私はここから、あなたにエールを送ろう。

 ___20××年8月10日

 今日は青が私の病室に来た。
 美和と会長のせいらしい。
 本当にびっくりした。
 でも、本当にうれしかった。
 心が急に温かくなって、涙が出そうなほどうれしかった。
 だけどね、私はもう長くないんだよ。
 もう、カウントダウンは終わりに近づいている。
 青は、こんな最低な私をまだ、好きでいてくれたんだ。
 人が良すぎるよ。
 青はやっぱりバカ。

 ___20××年8月11日

 今日も青が病室に来た。
 将星に勝ったところちゃんとテレビで見たんだよ。
 だけど、私はわざと青にひどい言葉を放つ。
 おめでとうのひとつも言えない私。
 青、そんな顔させてごめんね。
 私のことなんて、嫌いになって。
 もう、青は私と一緒にいちゃいけないんだ。
 青まで巻き込むわけにはいかない。
 これで、本当にサヨナラなんだね。
 ばいばい、青。

 ___20××年8月20日

 藤青が、浪将に負けた。
 青は肩をやってしまったらしい。
 どんだけ苦しいか、どんだけ辛いか。
 出来ることなら、私にその苦しみ分けてほしい。
 だけど、青は青だから。
 青ならきっと大丈夫なはずだから。
 青の笑顔を私は守っていきたいって思った。

 ___20××年2月17日

 藤青が、春のセンバツで、勝ち抜いて甲子園出場決めたらしい。
 青とまた会えるのかな。
 でも、着実に私の病状は悪化している。
 自分でもわかるくらいだから、実際はどこまで進んでいるのかな。
 怖い。
 だけど、生きないと。
 私には生きる理由があるから。
 青、でもあなたを悲しませるなら……。

 ___20××年3月7日

 今日、青に久々に会った。
 何も変わってない青の姿。
 だけど、この短い期間でかなり成長して帰ってきたね。
 私は思い切って自分の病状を詳しく話した。
 でも青、あなたは私を支えるって言ってくれた。
 離れるなって言ってくれた。
 どこまで優しいの?
 私にはもったいなさすぎる。
 日記では、素直になれるのに、現実ではそうはいかない。
 なんでだろうね。
 青、あなたが離れるなって言うなら、私はもう離れない。

 ___20××年3月20日

 あれから、青はずっと勝ち続けている。
 でも、病院には来なかった。
 私が来るなって言ったから。
 青には今、野球だけに集中してほしい。
 明日は南聖との試合。
 きっと、青なら勝ってくれる。
 だよね、青。
 私の好きな野球をきっと青はしてくれる。
 私は、青の傍にいるから。
 きっと青は大丈夫。

 これが最後だった。
 1時間ほどですべて読み終えた俺。
 ……俺のことばっかじゃねぇか。

 いつの間にか、目からは1滴の滴が頬を伝っていた。
 そして、いつ運ばれてきたのかわからないパスタが、テーブル上に冷えた状態で置いてあった。

 ノートを閉じようとしたその瞬間、窓からふわりと風が舞い込んだ。
 ページがぱらぱらと音を立てて、最後の一枚を開く。

 店員さんがあわててやってきて、すいませんっといいながら窓を閉める。

 このノートにはまだ続きがあったようだ。

 『青空からの手紙』

 そう記したページが最後のほうにあった。

 なんだ……これ……。
 俺は首をかしげながら、1枚ページをめくった______。

 きっとこの文章を読むとき、私はもうその場にはいないでしょう。
 私を支えてくれたたくさんの方々一人一人にお礼が言いたい。

 両親へ。

 こんな私をここまで育ててくれてありがとう。
 何も親孝行なんてできなかった。
 本当にごめんなさい。
 だけど、お母さんとお父さんの元で生まれてきてよかった。
 言葉では言い表せないほど2人には感謝しています。
 ありがとう。

 瑠璃へ。

 瑠璃はまだ小さいから、私がいなくなった理由はわかってるかな?
 大きくなって、私がいたときの記憶はもうほとんどないと思う。
 それでも、私は瑠璃に覚えていてほしい。
 私の、たったひとりの妹だから。
 瑠璃には、これからの人生、つらいことがたくさんあると思う。
 だけど、くじけないで。
 きっと、誰が瑠璃のこと見ていてくれるから。
 辛くなったのなら、お母さんやお父さん、友達に相談すればいい。
 きっと、瑠璃の味方になってくれるはずだから。
 ねーちゃんは、ずっと瑠璃の味方だから。
 素敵な人になってね。
 ありがとう。

 愛梨へ。

 こんな私に声をかけてくれてありがとう。
 愛梨がどれだけ私に力になったか……。
 青のことも、私のことも愛梨はよくわかっていてくれた。
 甲子園球場で会った時も、愛梨は私の背中を押してくれた。
 本当に、私にはもったいない友達だよ。
 本当はもっと2人で出かけたりしたかった。
 愛梨、きっと素敵な人を見つけて、幸せな恋をしてね。
 ありがとう。

 美和へ。

 何もわからない私を優しく迎えてくれたのが美和だったね。
 美和が私にいろいろ教えてくれたおかげで、こっちに来てからの生活は楽しかった。
 自分のことよりも私のことを優先してくれた時は本当に嬉しかった。
 どこまでお人よしなんだって思ったけどね。
 でも、そこが美和の長所であって、会長も好きになったんだと思う。
 これからは、美和の悩みとか聞くことはできないけど、その分、会長のこと頼ってあげて。
 会長と仲良くね。
 ありがとう。

 会長へ。

 私と青のこと、真剣に考えてくれてありがとう。
 会長は、私が美和の家で歓迎会やったとき、私がなじみやすいようにできるだけ配慮して、その場その場を盛り上げてくれたね。
 やっぱり会長はすごい人だって思うよ。
 青との戦いの時も、会長のプレーはキラキラ輝いて見えた。
 将星と藤青、きっとこれからもいいライバルであってほしいと思う。
 美和を泣かせたら承知しないから。
 ありがとう。

 藤青野球部へ。

 短い期間だったけど、皆と野球をしている時間は何よりも充実していて、最高で、楽しかった。
 何も言わないでいなくなってしまったことをまず謝りたい。
 本当にごめんなさい。
 当時は、本当に迷惑をかけてしまったと思う。
 もう一度、皆と一緒にグラウンドに立ちたいと何度思ったかわからない。
 何もできない、役立たずなマネージャ―だったけど、当時は皆と戦えてうれしかった。
 ありがとう。

 将星のみんなへ。

 私が転校してきたとき、誰一人として、私を軽蔑したりしなかった。
 私はそれがどれだけ嬉しかったことか。
 御見舞いとか来てくれたりして、本当にありがとう。
 将星に転校してきて本当に良かったって思った。
 皆優しい心を持ってた。
 その心で、私は何度すくわれたことかわからない。
 これからも、皆仲良くそれぞれの道へと突き進んでください。
 ありがとう。

 青へ。

 こんな私を好きになってくれて、ありがとう。
 まずは、それを伝えたくてこの手紙を書いています。

 もし青が私を好きになってくれなかったら、今の私はいないと思う。
 一時期、青を避けていた時期もあったよね。
 それでも、あなたは距離を縮めようとしてくれた。
 「どこまでバカなんだろう」って思ったけど――
 本当は、すごく嬉しかったんだ。

 あのとき、公園でいじめられていなければ。
 あのとき、甲子園に行きたいなんて言わなければ。
 青があの事故に遭わなければ。
 私が病気にならなければ――
 違う未来があったのかもしれないね。

 もしかしたら、私たちは何の接点もないまま大人になっていたかもしれない。
 もしかしたら、今ごろ普通のカップルみたいに、手をつないでデートしていたかもしれない。
 もしかしたら、どちらかの一方通行で終わっていたかもしれない。

 どの未来が正しかったのかなんて、誰にもわからない。
 もしかすると、私たちの道は間違っていたのかもしれない。
 ――でも、それでも私は、この道でよかったって思ってる。

 死ぬのはやっぱり怖いし、嫌だけど。
 それでも、青のそばにいられるなら、私は大丈夫。

 だから、寂しくなったら空を見て。
 きっと青空が広がっているはずだから。
 もし試合に負けたりなんてしたら……雷、落とすからね!

 私と青で、「青空」。
 青空の日は、私がそばにいる証拠だよ。

 青は、青の道を歩んで。
 私は、私の道を進む。
 そして、いつか青がこっちに来る日まで――
 青が幸せでありますように。
 私よりも素敵な人を見つけて、素敵な家庭を築いてね。

 私は、ここで待ってるから。
 ありがとう。

 最後のメッセージは、ところどころ滲んでいた。
 きっと、泣きながら空が書いたんだろう。

 俺の涙も、静かにノートの上に落ちていった。
 そして、ゆっくりとノートを閉じる。

 涙を袖でぬぐい、顔をパシンと両手で叩く。
 それから、目の前のパスタをすごい勢いで食べ始めた。

 今、俺がしなきゃいけないこと。
 それは、空の死を嘆くことじゃない。
 空が、向こうの世界で安心できるように――
 俺は、今を全力で生きるんだ。
 それが、俺のすべきことだ。

 空が死んでも、世界は変わらず回り続ける。
 空の死なんて、この地球から見ればほんの一瞬の出来事にすぎない。
 誰もが、この悲しみを分かち合ってくれるわけじゃない。
 だから、明日の甲子園はいつも通り、予定通りに開催される。

 ――絶対に勝ってやる。
 空は俺のそばにいてくれる。だから、俺は無敵だ。

 おばさんと、母さんの想いを受け継いで――

 “真っ直ぐで、見る人を魅了し続ける、透き通るような『青』”。
 そして、その青を広く優しい心で包み込む『空』。
 青と空がそろったとき、きっと人々を魅了し、希望を与え、道しるべとなる。
 優しくて、力強い――そんな“青空”になるんだ





 ✳

 



 「遅れてすみませんでしたっ!」

 ホテルに戻って急いで着替え、俺は全力でグラウンドへ駆けつけた。
 ベンチで練習を見守っていた監督の斜め前に立ち止まり、深く頭を下げる。

 「巧から話は聞いている。まあ、苦しいだろうが、それはみんな同じだ。お前だけじゃない。だから集中してやれ。今は野球だけにな」

 監督の力強い言葉が、まっすぐ胸に刺さった。

 「うっす!」

 俺はそう返して、背を向け、グラウンドへ駆け出す。

 空を見上げると、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
 ……なあ、空。お前は、今も俺のそばにいてくれてるんだよな。

 「あっ、青、来たか! 待ちくたびれたぜーっ!」

 向こうでノックを打っていた巧が手を止め、俺の方を振り返る。

 その声に気づいたのか、野球部のみんなも次々と声を上げる。

 「相原先輩、早く来てくださいよー!」
 「お前いねぇと、やっぱ始まんねぇや!」

 笑顔と声援が、グラウンドにあふれる。
 俺は「わりぃー」と言い、帽子をさらに深くかぶって、みんなの方へと駆けていく。

 ――空、俺は俺の道を行くよ。
 お前にがっかりされないように。
 お前の分も、生きて、生きて、生きまくってやる。

 俺には、青空がついている。
 だからもう、怖くはない。
 恐れることなんて、なにもない。

 堂々と前を向いて、進んでいける。

 さあ、行こう。
 今まで見てきた風景とは、ちょっと違うけれど――
 きっと今の俺なら、大丈夫だ。
 自分の足で、ちゃんと歩いていける。

 勝利への道へと――。






 ✳






 『藤青学園、10年ぶりの甲子園優勝、優勝です』

 次の日の夕方、その一言が全国のお茶の間をにぎわせた。
 学校には、記者やマスコミが押し寄せ、全国に藤青の名を知らしめた。

 俺は今日もいつも通り、新入生を迎えて夏の大会に向けて練習を続けている。

 変わったことと言えば、女の子からモテるようになったこと。
 先生が妙に俺には最近気持ち悪いくらい優しいってこと。
 夏樹に、好きな人ができたってこと。
 後は、マネージャーをしたいって子が殺到して、一時期はとても大変だったが、2人の子をマネージャーに採用したってこと。

 それぐらい。

 そんな中、いつも通り、学校へ登校していたところだった。

 「相原せーんぱいっ!」

 後ろからドーンという衝撃が来る。

 「うおっと!」

 思わず声が出てしまった俺。
 振り向くと、そこには、見事藤青野球部のマネージャーに選ばれた西本彩《にしもとあや》の姿があった。
 ショートカットのボブで、日に焼けたのか、もともと色素が薄いのか、少し茶のかかった髪を揺らしてにっこりとほほ笑んでいる。

 「おお、どうした?」
 「いやぁー、私の家、この近くなんですよ。ちょっと話しながら行きません?」
 「ああ、いいけど」

 そういって、俺は再び歩き出す。
 彩も、その横をついてくる。

 「……あの、変なこと聞いていいですか?先輩って、もしかして……男の人が好きだったりします?」
 「……うはははっ!お前、なんでそんなこと聞くんだよっ!」
 「え、だって、先輩モテるのに彼女いないし、赤坂先輩とか、辻先輩とかの野球部とずっと一緒に居るじゃないですか?だからてっきりそうなのかと……」
 「それは、考えすぎ」
 「……じゃあ、空に恋してるって言うのは?」

 空の名前が出た瞬間、心臓が跳ねた。

 「……っ!」

 俺の足が止まる。

 「……先輩?」

 彩が不思議そうな顔をして、俺の少し前で立ち止まり、俺の方を振り返る。

 「私、なんか変なこと言いました?」

 なんで、俺の代と、その一個下の代の奴らしか知らない空のことをお前が知ってるんだよ。

 「あの空のことですよ?」

 彩が人差し指を上に向ける。
 俺の顔も同時に上を向く_______そこには、綺麗に広がる青空があった。

 「なんでそんな話に?」

 できるだけ優しい声を出して、彩に尋ねる。

 「クラスの子が言ってたんです。先輩はいつも愛しそうに、切なそうにいつも空を見上げてるって」

 愛しそうに……切なそうに……か。

 「……うはははっ!鋭い奴だな、そいつは」
 「え?それじゃぁ、本当なんですか?先輩が空に恋してるってっ!」
 「ああ、それはほんと。特に青空が好きかな」
 「え……先輩って……変人ですね?」

 彩が眉間に皺を寄せて俺の方を見てくる。

 「変人で結構ー」

 俺はそう言ってから、彩を背に歩き出す。

 「ふふっ!でも、こんな変人先輩が、野球部のエースなんですよね」

 彩がそんな俺を追いかけてきて横に並ぶ。

 「なんか文句あっかよ」
 「……ありませんっ!勝ってくださいよ?夏、私甲子園行きたいですもんっ!」
 「ああ、任しとけ。連れてってやるよ」

 そういって、俺らは、いつものグラウンドへと向かう。

 あの夏の日を思い描いて。
 あの夏の興奮を追い求めて。
 ――空、見ててくれよ。あの日の約束を、ちゃんと果たすからさ。




 ✳





 『藤青学園の黄金コンビが、この甲子園に旋風を巻き起こしましたね』
 『いやぁ~……。素晴らしいチーム力を見せていただきました』
 『この夏を制したのは、藤青学園! 優勝、藤青学園です!』

 またしても、お茶の間を沸かせた藤青学園。
 ただでさえ暑い、熱い夏を、俺たちがさらに熱くした。

 この日も、空は青かった。
 雲ひとつない、真っ青な――まるで絵に描いたような青空。

 そんな中、球場に響き渡る藤青の校歌。
 自然と、涙があふれた。

 この瞬間を、空に見せたかった。
 空と一緒に、喜びを分かち合えたら。

 『青……おめでと。約束……叶えてくれてありがとう』

 え……?
 空の声が、青空から聞こえた気がした。
 ふと見上げる、その先に広がるのは、変わらず澄み渡る青空。

 「……ははっ。ったく……」

 そうやって空、お前はいつも俺のことを見ていてくれるんだな。
 自然と、笑みがこぼれた。

 「青、キモっ!」

 隣で夏樹が、俺の顔を見て怪訝な表情を浮かべている。

 「……わりぃ」
 「まあ……優勝したんだから、それぐらい笑ってもいいか」

 夏樹は、俺が笑っているのをただの達成感だと思っているんだろう。

 「……ああ。そうだな」
 「……サンキューな、青」
 「何が?」

 夏樹は、少し照れたように目線をそらす。

 「お前とバッテリー組めて、楽しかった」
 「……ははっ、なんだよ今さら。俺もだよ」
 「高校野球、最高だったな」
 「ああ……最高だった」

 そんな会話を交わすうちに、校歌は静かに終わりを告げた。
 そして、俺たちはグラウンドに向かって一礼する。

 ――もう、しばらくはこのグラウンドに立つことはないだろう。

 ――俺たちの夏は、終わった。




 ✳





 空が死んだ日から、誰も俺と空のことを話題にすることはなかった。
 野球部も、学校の連中も、先生も。親でさえも。
 だから――俺がこの場で空の話をしたことに、きっとみんな驚いたと思う。

 今日は、卒業式。
 藤青、そしてこの三年間に、別れを告げる日だ。

 「俺たち、359人は今、この藤青学園を旅立ちます。……って、こんな堅苦しいのは俺っぽくないな。やめた!」

 俺は、学年代表として答辞を読むことになった。
 学年成績はずっと下位だったし、自分がこんな場所に立っていることが今でも信じられない。
 今日だけは真面目に優等生っぽくいこうと思っていたけど――やっぱり、それは俺じゃない。

 会場がざわめく。
 先生たちはあたふたしてる。俺に答辞を任せたことを、ちょっと後悔してるかもしれないな。
 ……でも、悪いけど、この場、ちょっと借りるよ。

 俺は原稿を丁寧にたたみ、ポケットにしまった。
 マイクをスタンドから外して、手に持つ。

 「まずは、この場を借りて、卒業式を迎えられなかった一人の生徒のことを話させてください。水木空。彼女は、みなさんご存知かと思いますが、癌を患い、今年の春、亡くなりました。俺の幼馴染で、そして――俺の彼女でした」

 会場の空気が変わる。
 それでも俺は言葉をつなげた。

 「空は、俺に身をもって教えてくれたことがあります。それは――“自分の道を見失わないこと”です。
 俺たちは今、当たり前のように息をして、歩いて、話して、笑って、恋をしている。
 けど、もし突然、それが当たり前じゃなくなったら?
 俺も……一度は、自分の時間を失いました。でも空は、それ以上に、日常を少しずつ奪われていった。
 体力も、自由も、大切にしていた髪も――そして、命までも。
 それでも彼女は、亡くなるその瞬間まで、自分の信じた道を歩き続けたんです。
 決して、自分を見失わなかった」

 言葉が詰まりそうになる。だけど、今だけは、ちゃんと伝えなきゃいけない。

 「空は何度も、俺に言いました。『ちゃんと、自分の道を行け』って。
 他人に流されず、自分をしっかり持てって。
 それは、これからの俺たちに、何より大事なことだと俺は思います。
 社会に出れば、たくさんの誘惑や迷いがある。でも、空が教えてくれたことを、俺は絶対に無駄にしません。
 全国に名が知られた“藤青”の卒業生として、人生の最後まで、自分の道を見失わずに進んでいきます」

 そして、最後に。

 「俺と空を、温かく見守ってくださったすべての方々に――心から、ありがとうございました。
 ××年3月12日、卒業生代表、相原青」

 深く、頭を下げた。
 泣いているやつもいた。夏樹も、巧も、野球部のみんなも笑ってくれていた。
 両親は呆れた顔で、それでもちゃんと笑っていた。
 体育館に、あたたかい拍手が響いていた。

 これから、ここにいるみんなが、それぞれの道を歩き出す。

 「相原せんぱーい!」

 卒業式が終わって、帰ろうとしたそのとき。
 背後から声が飛んできた。振り向くと、彩だった。

 「お前……部活は?」

 卒業式は卒業生だけ。
 在校生は出席できないはず――なのに、そこに彩がいた。

 ふと気づく。
 彼女の背中から、少しだけ花束がのぞいていた。
 そして、それを満面の笑みで俺に押しつけてきた。

 「おお、サンキュ!」
 「おめでとうございます!……あと先輩、嘘つきましたね?」
 「は?」

 なんだ?俺、なんか言ったっけ?

 「空に恋してるって、あれ嘘ですよ。私が言った“空”って、こっちの空のことだったのに……」

 空を指さす彩。
 その先にあるのは、青く広がる春の空――じゃなくて、あの空のことだと彼女はちゃんと気づいていた。

 「……お前、もしかして卒業式、壁にでも張り付いてた?」

 彩の頬がゆるむ。
 そして、いたずらっ子のように無邪気に笑う。

 「バレました?」
 「バレバレだ」
 「マネの仕事はちゃんとやってますから!……それより、言いたいことがあるんです」

 ふいに、彩の目が真剣になる。
 彼女は少し唇を結んで、そして――。

 「私、先輩のこと好きですっ!」

 その顔がみるみる赤くなって、やがて、恥ずかしそうに下を向く。
 俺も、つい笑ってしまった。

 「……ありがとな、彩。じゃあ、マネージャー頑張れよ」

 花束を抱えて、俺は彼女に背を向ける。

 「え……返事は……?」
 「……今年の夏、藤青が連覇したら、そのとき教えてやるよ」

 振り返らずに歩き出す。
 背中越しに、彩の声が追いかけてきた。

 「ぜったいに勝ちますからーっ!」

 ――未来への第一歩。
 今日も、迷わず踏み出していこう。