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 このグラウンドの匂い。
 この景色、この土の感触。
 そして、この歓声_____何もかもが懐かしい。

 あの、夏の戦いで負けて、先輩方は引退して……。
 一時期は、ひどく落ち込んでこれまでにない敗北感を味わった。だけど、空、お前は俺を見ていてくれた。俺を叱ってくれた。
 お前がいたから、今ここで俺が立つことができる。
 もう、お前にがっかりはさせない。
 もう、かっこ悪い姿を見せるわけにはいかない。
 きっと、お前はこのスタンドのどこかで、俺を見てくれている。
 今こそ、成長した俺の姿を届けるチャンスだ。

 「青、整列だぞ」

 巧の声が聞こえる。
 俺は、ベンチからゆっくりと立ち上がり、青空の下に出る。周りを見れば、ここまで頑張ってきた仲間。

 大丈夫。
 俺は一人じゃないんだ。

 「成長した姿、空に見せつけるぞ」

 夏樹が、俺の耳元でそういって、俺の背中をバシッと叩く。そして、夏樹は俺の前を駆けてゆく。
 俺の口元は自然に緩み、夏樹の後を追う。

 また始まる_____俺らの熱い戦いが。

 俺らは、整列すると、審判の合図によって、向かいにいた将星高校との距離が一気に近くなる。
 一瞬川崎と目が合う。
 あいつは、にやりと笑ってきた。川崎はこの球場の雰囲気楽しんでる。

 「「お願いしますっ!」」

 球場に響く球児たちの声。
 それがまた、俺の闘争心を駆り立てる。

 前勝ったからって油断はしない。
 帽子を再びかぶり、ベンチへと駆ける。

 「よし、俺らが先攻だ。楽しんでくぞっ!」

 巧が、ベンチに着くなり、1番バッターの田辺玲と2番バッターの三浦翔和《みうらとわ》の後輩2人の背中をバシバシと叩き送り出す。そして、2人はグラウンドへと逞しく出ていく。
 巧は、少し寂しげに、でも誇らしげに2人の背中を見送っていた。

 巧は、主将だが、スタメンではない。
 俺と同じピッチャーで切磋琢磨しながらここまで来た。
 巧が主将であることに異議するものは誰もいなかった。

 皆わかっていたから。
 巧しかいないってこと。
 巧にはそういう才能があるってこと。

 俺は、お前を誇りに思うよ。
 お前は、藤青の名に恥じない自慢の主将だよ。

 試合開始のサイレンが鳴り響く。
 このサイレンが再びこの球場に鳴り響くとき、ここには藤青の校歌を_____。

 藤青応援団のアメリカンシンフォニーが、球場いっぱいに響き渡る。

 「いけいけ、藤青突っ走れ!いけいけ、藤青かっ飛ばせ!」

 力強い声援が俺らの力となる。
 玲が、夏の大会で負けたとき、俺に言ったことがある。

 『先輩が俺らに頼ってくれるように、頑張りますから。相原先輩みたいに、皆を圧倒させるようなプレーを俺はしたいからっ!』

 そういって、玲は俺に笑ってたっけ。
 お前は、成長した。お前なら……打てるはず。

 俺は、ベンチから、玲の姿を見つめる。
 玲は、驚くほど落ち着いていた。

 「空振り三振っ!バッターチェンジっ!」

 球場に響く審判の声。
 その瞬間盛り上がる将星アルプス。
 ____そうだ。成長したのは俺たちだけじゃない。
 川崎を筆頭とする将星も俺らと同じく成長していく。
 戦いはまだ始まったばかりだ____。

 『4番、ピッチャー、赤坂《巧の苗字》くんに代わりまして、相原くん。バッター、相原くん……』

 アナウンスが俺を呼ぶ。
 点数は0対0。2塁にランナー。
 声援は相変わらず聞こえてくる。

 俺は、肩を軽く回し、打席に立つ。
 ふと俺は、後ろにいた川崎を見る。

 こいつ……笑ってる。
 本当に、野球好きなんだな。

 俺は自分を落ち着かせるために、深く、いつもより深くゆっくりと深呼吸をする。
 すると、自然と周りの声援は聞こえなくなる。

 自分の世界に、俺だけの世界に入ることができる。

 俺は、軽くバッドを振ってから、しっかりとバッドを握り直し、ピッチャーを見て構える。

 あの夏の敗北から、俺は死に物狂いでバットを振り続けた。
 もう、悔やむ時間なんて残されていない。
 栄冠を手にするには、今この瞬間にすべてを懸けるしかない。
 ――――空だって、戦ってる。
 そう思ったら、どんなきつい練習でも、前向きに頑張ることができた。
 後輩も、皆俺らについてきてくれた。2年が9人、1年が10人の俺ら藤青野球部。夏よりも1つになれた気がした。
 強くなれた気がした。
 一人じゃないんだって、実感することができた。

 アルプスからは、俺に向けられた応援歌が聞こえる。
 大丈夫、俺は打てる。
 このエースナンバーは伊達じゃない。皆の想いが詰まってる。

 カキーン…

 白球がきれいな弧を描いて、青空へと消えていく。
 それを、必死に将星の野手が追いかける。
 ……俺の姿が、空に届きますように。

 「わあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 スタンドが沸き上がる。
 ボールはフェンス直撃、グラウンドに落ちた――2ベースヒットだ。

 ____今回も勝たせてもらうぜ、将星。





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 気付けば2アウト3塁の八回裏。
 スコアは2対1。7回まで巧が投げて、俺は代打で打っていた。だけどこの回からは俺が投げる。

 「4番、キャッチャー、川崎くん」

 アナウンスに呼ばれ、川崎が俺の前に立つ。3塁にランナーがいる、今のこの状況。将星にすれば、ここで点を返して、同点に追いつきたいはず。

 川崎のその姿は、明らかに夏の時より雰囲気は違っていた。”絶対にお前に勝つ”とひしひしと伝わってきた。

 夏樹が、マスク越しににやりと笑う。そして、俺にど真ん中のサインを送る。”お前の成長した姿を見せてやれ”って言われているようだった。
 俺の口角もあがる。

 俺は大きく振りかぶった。

 パシーン!

 夏樹のミットに俺の放った豪速球がおさまる。

 「ストライクっ!」

 審判のその声が気持ちいい。
 最高に盛り上がるは、藤青アルプス。

 さて落ち着いてもう一投。
 再び振りかぶる俺。

 そんな俺を、しっかりと睨みつけてくる川崎。
 ここで、お前から3振をとる。
 以前のようには打たせない。

 パシーン!

 「ストライクっ!」

 再び聞こえてくる審判の声。
 あともう一つだ。
 あともう一つで……お前を倒せる。
 川崎を睨みながら大きく力を振り絞って俺は振りかぶる。
 一番いい球を。

 カコーン

 バットにボールが当たる音が耳に聞こえた。

 ここでバントかよ。

 俺は勢いよく地面を蹴りだす。
 そして、1塁へと全速力で駆け出す川崎。
 俊足の川崎に対し、俺は素早くボールを拾い、一気に一塁へ投げた。
 その間に三塁にいたランナーは余裕で本塁を踏んだ。
 ここで、俺が川崎からアウトをとればいい。

 だけど……

 「セーフっ!」

 川崎のスピードに、俺の肩がほんのわずかに届かなかった。
 審判のその声に、最高に盛り上がる将星アルプス。

 スコアは2対2。
 同点に追いつかれた。

 2アウトでバントってどんな神経してたらその選択肢がでてくるんだよ。

 その後俺は、5番バッターからは3振を取った。

 次は9回表。
 次で……点数をかなり稼がないとやばい。
 そんなことを思いながら、ベンチへと行き息を深く吐く。

 __『落ち込んでる暇あったら声出してよ。青が暗い顔してたら、みんなの雰囲気まで沈んじゃうよ?』

 過去に空が俺に言った言葉がふと俺の脳裏をよぎる。
 ここは、甲子園。俺がしっかりしなくてどうする。

 「青、お前次だろ。用意しとけ」

 巧が心配そうに俺の肩に優しく手を置く。

 「なあ。巧」
 「なんだよ」
 「ここで、負けたくないよな」
 「当たり前だろ?何言ってんだよ。負けたい奴なんていねぇよ」
 「だよな。……てっぺん行くまで諦めないって決めたもんな」
 「ああ、そうだ。_____背中の1番は伊達じゃねぇだろ?」
 「当たり前」

 俺は口角をぐっと上げ、巧の肩を軽くたたきバッドを持った。

 「青、自信を持て。お前は1番がよく似合う」

 そういって、巧は後ろからエールを送ってくれる。
 その声を力に変え、俺はゆっくりとグラウンドに出る。

 ネクストサークルにスタンバイし、藤青のアルプスに目をやる。
 空がここにきていてもきっと、将星のアルプスにいるんだろう。そう思っていた矢先だった。

 「……っ!」

 思わず息をのんだ。
 藤青のアルプスに空がいたから。私服だからすぐわかった。
 たぶん、空の隣にいるのは川島。

 藤青応援団のアルプスは、俺の真後ろにある。だから、よく空の顔が見える。
 空は、俺が見ていることに気付いたのか、口をかすかに動かした。

 ”か・と・ば・せ”

 俺の口元が緩む。

 『4番、ピッチャー、相原君』

 自分の名前がアナウンスで聞こえる。

 「「かっとばせーっ!あーおっ!」」

 後ろから藤青の力強い声援。
 俺は、浅く深呼吸をして、ゆっくりと打席へと向かう。
 後ろから空に背中を押してもらったような気分になった。

 もう、緊張なんて全くしていない。
 そんな自分に、俺自身も驚いていた。
 もう、打てる気しかしない。

 打席に立つと、一瞬川崎と目が合う。川崎の余裕の笑みが、マスク越しに見える。
 その顔、一瞬で曇らせてやるよ。

 俺はバッドを構える。
 そして、いつも通り、深く、ゆっくりと深呼吸をする。

 自分だけの世界。
 声援はもう、俺の耳には届かない。
 聞こえるのは、自分の呼吸だけ。

 ピッチャーは、小さく頷いて大きく振りかぶった。

 その_____瞬間だった。

 「あおーっ!青空へ……かっとばせーっ!」

 一瞬聞こえた確かな空の声。
 俺のバッドはボールの芯をとらえる。

 カキーン…

 とてもきれいな音だった。
 そして、そのボールは綺麗な弧を描いて、向こうのライトスタンドへ落ちる。
 久々のホームラン。

 「「わぁぁぁぁぁああっ!」」

 藤青スタンドが、前とは比べ物にならないくらいの盛り上がりを見せる。
 俺のホームランで一気に差を広げた藤青。
 その後、流れに乗った藤青は将星に7対3で勝利した____。




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 「おっし、青。お前、空のところいくんだろ?」

 試合が終わり、甲子園球場を出たとき巧がニヤニヤと笑いながら、野球部全員に聞こえたであろう声で俺に言う。

 「な、おま……! そんな大声で言うなって!」

 なんてこと言ってくれたんだよ。

 「え、相原先輩、今から彼女と会うんですか?」

 後輩が、興味津々の顔で、俺顔をのぞいてくる。
 が、巧がその間に入り俺に背を向けた。

 「だーかーら、青。ゆっくり会ってこい。試合は明後日だし、今日まで休みもなかったからな。休養も大事だ。だが、夕食までには帰ってこいよ」

 そういって、巧は、うじうじ言っている後輩を従え、俺一人を置いてホテルへと向かっていった。
 きっと、あの様子だと俺と空のこと2年は全員知ってるな。まぁ……いい。
 部員は巧に任せて、俺は空を探す。
 そう思って、回れ右をして球場に再び入っていこうと来たとき。

 「……青」

 愛しい声が背後から俺の名を呼ぶ。
 俺は、再び、球場を背にして、声の主を探す。

 「……空?」

 確かめるように俺は、空の名を呼ぶ。

 すると、またあの時から痩せた空が俺の目の前に現れる。
 そして、空は恥ずかしそうに少し下を向いて笑う。
 俺は、重いバッグを投げ捨て、空に駆け寄り、細い体を優しく抱きしめた。

 「ちょ、青……苦しいってば……」
 「ちょっと我慢しろ。手紙だけじゃやっぱ足りねえよ」

 夏のあの日から、日に日にたまっていった、青空の写真。
 俺の部屋のコルクボードはその写真で既に埋まっていた。

 だけど、やっぱり、それだけじゃ足りなくて。
 空の手紙を何度も読み返すたび、会いたさが募って――今日、やっと会えた。
 今日やっとこの胸に空を抱きしめることができた。
 ずっと……会いたかった。

 「……私もだよ、青」

 そうやって空は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にする。
 そんな、表情一つ一つが可愛くて、俺は笑ってしまう。

 「やっぱ……お前いないと俺だめだわ」
 「……っ!」
 「ん?」

 空は何か言いそうになって、言葉を飲み込んだ。

 「……やっぱり、なんでもない」

 俺は、腕を解き、空の顔を見る。
 俺と目を合わそうとはしない空。

 「青、ここ人多いし……場所かえよ」

 そういって、空はゆっくりと、俺の前を歩いてゆく。
 俺は、カバンを持ち上げ、空を追いかける。空の表情は、どこか寂しそうで、悲しそうだった。

 空が足を止めた先はある公園だった。
 そして、空は、ゆっくりとその公園のベンチに座る。
 俺も、空の隣にゆっくりと、腰を下ろす。

 すると、空は意を決したように、ゆっくりと口を開いた。

 「……私ね、癌でもう余命半年なの。状態もあまり良くないらしくて、今日以降の外出許可は多分出ないと思う。だから___」

 空は目に涙をためながらそう言葉を紡ぐ。

 「ちょっと待って」

 俺がそう言って、空の言葉を遮る。空は驚いた顔で見てくる。
 もう、空がその先何を言おうとしているのかは分かった。

 「先に言っておくけど俺、別れないからな」

 空は涙をこぼしながら、俺を説得する言葉を探しているようだった。

 「空がもう、長くないってことは知ってたし。いざ、危なくなったときになんでまた、俺を突き放そうとするんだよ。何のための彼氏だよ」

 空の目からは、涙が零れ落ちて止まらない。
 俺は、そんな空を優しく横から抱きしめた。

 「私だって……。私だって……っ!別れるなんて嫌だよ。青と離れるなんて嫌だよ。青の野球見れなくなるなんて嫌だよ。……癌なんてっ!なりたくなかった……。なんで……っ!なんで、私だけ」

 空の心の叫びが、そのまま声になって溢れてくる。
 きっと、俺よりずっと空は心細かった。
 人一倍優しい空だから、本音を誰にも言えずにいた。
 甲子園に行くために頑張っている俺には、なおさら言えなかったんだろう。

 「お前は俺が支えるから。俺が奇跡を起こすから。心配すんな」

 そういって、俺は空の頭を優しく撫でる。

 「お前は、病院から見てろ。俺、勝つから。てっぺん取ってくるから」

 俺は、空から腕を解き、ゆっくりと空の前にすっと立つ。
 空はまだ少し泣いていて、下を向いていた。

 「空」

 俺がそうやって呼ぶと、空はふっと顔をあげた。
 涙が夕日の光に照らされて綺麗に光っていた。

 「はは、美人の顔が台無しじゃねぇか」

 そういって、俺は、空の涙を拭う。

 「……青のバカ」

 そういって、空は再び下を向いてしまう。
 空は美人だよ。
 泣いていようが、笑っていようが、怒っていようが……すべて綺麗だ。

 「涙なんて、何度だって拭ってやる。弱音なんて、いくらでも聞いてやる」

 俺は、ゆっくりと立ち上がり、空の前にくる。
 そんな俺の胸に、空はガツンと軽くこぶしをぶつける。

 「……青の癖に。偉そうに言ってくれる」

 そういって、空は俺を見上げてにこっと笑う。
 俺はそのまま、空に優しいキスを落とした。
 公園には俺たちだけ。
 優しい茜色の光が、静かに俺たちを包み込んでいた――。