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「空、お前明日来いよ」
試合前日、俺はいつも通り練習終わりに空のいる病院にいた。
「あ、ごめん。明日私定期検診の日だから……」
空が少し悲しそうに言った。
まぁ、それなら仕方ないよな。
「テレビ越しでも、惚れ直すぜ、俺に」
俺が空の頭を軽く叩くと、空は嬉しそうに笑った。
「……意識過剰だし」
空はすこし照れながら、そういって下を向く。
「まぁ、勝つけどな」
「当たり前。負けたら、病院抜け出して、ぶっ飛ばしに行ってやる」
「はははっ、そしたら俺大内先生に怒られるな?」
「だから、勝って、青」
「おう。任しとけっ!」
俺はそういって、空の頭を軽くなでた。
空は、恥ずかしそうに俯いたままだった。
「じゃあ、明日俺早いしもう帰るわ」
「うん」
空の返事を聞いてから、俺は丸椅子から立ち上がり、空の病室を出た。
空は最後まで笑っていた。
空が命がけで頑張ってるんだ。
俺がここで踏ん張らなきゃ、何のために野球やってきたんだよ――。
今まで以上にあふれる空への想い。
これを力に変えて俺は必ず勝つ。
――――そして、藤青に優勝旗を持ち帰る。
明日の相手は浪将《なみしょう》学園高校。
川崎の情報だと、攻撃型のチームで、特に4番バッターに注意っていうのと、全員3年生のチームって言ってたっけ。
なら、引退かかってるからかなり燃えてるだろうな。
俺も負ける気はないけど。
最近、俺の球も安定してきて、町先輩には、一番いい状態だって言われている。
自信ならある。だけど、油断はしない。
あんな想いはもうしない。
勝つのは俺たちだ。誰にも譲る気はねぇ。
俺はふと、空を見上げる。
夕焼け空は雲に覆われ、茜色はどこにもなかった。
明日ぐらいは、晴れてくれよ……頼むから________。
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試合開始のサイレンが鳴る。
けれど、空は鈍く曇り、青空が顔を出す気配はない。
胸の奥が、ざわついている。何だろう、この違和感。
「プレイボールっ!」
審判の声が球場に響く。
一回表。藤青の守備から試合は始まった。
相手校・浪将はごつい選手ばかりだ。
俺だって身長175cmあるけど、全員がそれ以上ってどういうことだよ。胸板だって厚い。まるで全員、柔道部出身みたいな体をしてやがる。
……だけど、負けねえ。
俺は大きく振りかぶった。
打てるもんなら打ってみろ――!
「……っ!」
投げた瞬間、肩に激痛が走った。
「ボール!」
審判の声が球場にこだまする。
あっぶね……。あと少しで、打者に当たるとこだった。
なんで、いきなり。
そして、なんで、今。
マスク越しに、町先輩の険しい表情が見える。
今、下がるわけにはいかない。
俺が――投げなきゃ。
俺はもう一度、大きく振りかぶった。
肩なんて知るか。
「……っ!」
「ストライク!」
肩がじんじんする。
きっと連投の代償。
でも、今は気にしてる場合じゃねぇ。
アドレナリンでどうにかするしかない。
もう一球。振りかぶって――
「……っ!」
__カキーン!
白球が、空高く、弧を描いて舞い上がった。
雲と一体化して、どこまで飛んだかわからない。
ホームランってことは――ないよな……?
「うわあああああっ!浪将ーっ!」
スタンドから、浪将の応援団の声が嫌ってほど響いてくる。
お願いだ。落ちてくれ……!
「ホームランだ! 回れ、回れー!」
浪将のベンチからも声が飛ぶ。
なんでだよ。なんで、ホームランなんか。
しかもまだ、一回表のノーアウト。
この肩さえ……この肩さえ戻ってくれたら――
「タイム!」
審判の声が響く。
マウンドに向かってくる町先輩。どうやらタイムを取ったらしい。
「青、お前、肩どうした」
やっぱり気づかれてた。
「いや……まだいけるんで、大丈夫っす」
「んなわけあるか。今日のお前の球、これなら小学生でも打てるぞ。……連投の、代償だな」
「嫌っすよ……。ここで、俺が下がったら……」
「お前の体のほうが大事だ。命令だ。下がれ、青」
嫌だ。
嫌だ。
まだ、投げたいんだ。勝ちたいんだ。
「青、下がれ」
静かに、だけど強く、町先輩が言った。
「……はい」
俺はうなだれてベンチに戻る。
監督と町先輩が話し合い、俺の代わりは舟橋先輩に決まった。
「青、俺が抑える。そんな顔すんな」
舟橋先輩が短く声をかけ、マウンドに向かった。
俺は、愛想笑いすらできず、ただ俯くしかなかった。
ちくしょう……なんで、こんなときに……
涙も出なかった。
代わりに、怒りだけが湧いてきた。
カキーン
再び、打球音が球場に響く。
まだ、藤青の守備中。舟橋先輩が――打たれたらしい。
「うわあああああ!浪将ーっ!」
浪将の応援がさらに盛り上がる。
ホームランではなかったみたいだが、打球は無人のエリアへ。
ちくしょう……ちくしょう……
俺はグラウンドを見られなかった_____。
「おい、青。次お前の打席だ」
肩を軽く叩かれ、顔をあげると、そこに夏樹がいた。
「スコアは……?」
おそるおそる尋ねる。
「今は三回裏、ツーアウトでランナー二塁。スコアは――0対5」
0対5……? 三回裏?
俺、4番バッターなのに?
なんで、こんなに回るのが遅いんだよ。
俺が崩れた瞬間、全部の歯車が狂った。こんなはずじゃ、なかったのに――。
「くっそ……くっそ……!」
「そんなに悔しいなら、かっ飛ばしてこいよ。取られた分、取り返せばいいだけだろ?……俺なんて、出たくても出れねぇのに」
夏樹は、ぎこちなく笑っていた。
……なにやってんだ、俺。
今はまだ試合中だ。
「……かっ飛ばしてくるわ」
俺は立ち上がり、夏樹の肩を軽く叩いて、バッターボックスへ向かう。
「アーオッ! アーオッ! アーオッ!」
アルプススタンドからの応援が聞こえる。
「青ーっ! かっ飛ばせーっ!」
ベンチからも声が飛ぶ。
これらを、裏切るわけにはいかない。
なんとしてでも、ここで打つ。
俺は打席に立つ。
ピッチャーとにらみ合う。
――負けねぇ。
ここで、打つ。
ここで、ホームランをかっ飛ばして、2点返してやる。
「プレイ!」
審判の声。
ピッチャーが振りかぶる――
「ストライーク!」
……くそ。
今日は、審判の声すら妙に大きく聞こえる。
それだけ、俺が追い詰められてるってことか。
再びピッチャーが投球モーションに入る。
「……っ!」
「ストライーク!」
なんでだよ。
なんで今日は、バットに当たらねぇんだよ――!
俺は歯を食いしばりながら構え直す。
来いよ、浪将……今度こそ、打ってやる!
ピッチャーが、振りかぶる。
「……っ!」
「ストライーク! バッターアウト!」
肩の感覚なんて、とっくに消えてた。ただ、打ちたかった。
俺は、ゆっくりとベンチに戻る。
そして、無言で腰を下ろした。
――その後、俺の打順が回ってくることはなく、藤青の夏は、終わった。
試合終了のサイレンが球場に鳴り響く。
浪将の校歌だけが、無遠慮に響いていた。
舟橋先輩も、巧も、夏樹も、町先輩も……みんな、泣いていた。俺だけ、泣けなかった。
涙なんか、一滴も出なかった――。



