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私はひとり、甲子園の出口へと歩き出す。
周りには、さっきの試合に涙を流す人、歓喜に沸く人の姿があった。
——さっきの試合、今までで一番だった。
青の、あんな自由なプレーを見ることができて、本当に嬉しかった。
きっと大丈夫。あなたには、野球がある。
だから……私がいなくても、きっとやっていける。
……さよなら、青。
誰かの肩がぶつかり、私はよろけてその場に倒れ込んだ。
「……っ!」
反動で地面に尻もちをつく。
顔を上げると、差し伸べられた手があった。
「ああ、ごめんね。こんな可愛い子を倒しちゃって。ほら、立てる?」
優しい声。どこかで、聞いたことがある——。
「あ、私こそ……ぼーっとしてて。ありがとう」
その手を取って立ち上がる。
目に入ったのは、藤青学園の制服。——この制服は……。
私はおそるおそる顔を上げる。
「……もしかして、空?」
相手が先に気づいていた。
「愛梨……?」
——どうしてここに、愛梨が。
とっさに逃げ出したくなった。
私は後ろを向いて走ろうとする。
だけど、右手は愛梨の手にしっかりと掴まれていた。
「……空、なんで? 私……っ!」
愛梨の声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。
私は俯いたまま、手を振りほどくこともできなかった。
「ごめんなさい……」
その一言しか、出てこなかった。
あんなに私を慕ってくれていた愛梨に、何も言わずに去ってしまった。
信頼を裏切った。怒って当然。恨まれて当然。
「……相原くんには、会った?」
意外にも、愛梨の声は穏やかだった。
私は、首を縦に振る。
「……そう。よかった。じゃあ、また……付き合うんでしょ?」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
しばしの沈黙。
「……った……!」
次の瞬間、頬にピリッとした痛み。
驚いて顔を上げると、愛梨の頬を一筋の涙が伝っていた。
「……っ! 相原くんが……どんな想いでここまで来たと思ってるの? 空のために、全部……全部だったんだよ!」
私は、泣きじゃくる愛梨をただ見つめるしかなかった。
そんなはずない。だって私は、青のそばにいなかったのに——。
「空がいなくなってから、相原くん……ずっと無理して元気にしてた。だけど、目はいつも、何かを探してるみたいだったよ。まるで、自分の一部を失くしたみたいに……。暇さえあれば、窓の外を見てた……」
「……そう、なんだ……」
「なんで何も言ってくれなかったの? なんで——」
言えない。言えないよ、そんなこと……。
「……本当にごめん」
私の口から出たのは、また謝罪の言葉だけだった。
「謝るなら、相原くんをどうにかしてよ! もう、あんな顔見たくない!」
愛梨の叫びが、胸に突き刺さる。
堪えていた感情が、心の奥からあふれ出すのがわかる。
私だって、本当は——。
「好きなんだよっ! 本当は、青のこと……離したくなかった! ……っく……うぅ……」
もう、止まらなかった。
涙がこぼれ落ちる。
「……じゃあ、なんで手放したの?」
「青を守るために決まってるじゃん!
私だって……癌になんてならなかったら、絶対に、青を離さなかった!」
「……がん……? 空、癌なの?」
——しまった。言ってしまった。
けれど、もう隠しきれなかった。
愛梨の目が、大きく揺れて、それから——優しくなった。
「なんで……そんな大事なこと、言わなかったの。なんで、空ひとりで抱え込もうとするの」
「……だって……」
声にならない。
嗚咽が漏れる。
愛梨が、私をそっと抱き寄せる。
その体温が、じんわりと心に染み渡る。
「ごめんね。……つらかったよね。空、今からでも相原くんのところへ行って」
「でも……私、もう長くないの」
「そんなの、わからないじゃん。奇跡が起きるかもしれない。希望を持たなきゃ、何も始まらないよ」
「……希望……?」
「そう、希望。病気は気からって言うじゃん。ほら、笑って! 笑顔が一番、病気に効くんだから!」
愛梨は私の頬を両手でぎゅーっと伸ばす。
——そういえば、美和も同じことを言ってたな……。
気づけば、涙は止まっていた。
「ふぇほ、ふぁひゃひ……」
「相原くんには、空が必要だよ。
2人が一番、息ぴったりなんだから」
「私と青が……?」
「そう。“青空”でしょ? どっちかが欠けたら、雨が降っちゃうよ。ね?」
その言葉のあと、愛梨は私の後ろを見て目を細めた。
「空っ!」
聞き慣れた声が、私を呼ぶ。
「じゃあ、私はこれで。空、病院教えてよ? 会いに行くから!」
愛梨は返事を待たず、走っていった。
——もう、青と会わないって決めたのに。
サヨナラしたはずなのに——。
「……っ! 空!」
逃げる間もなく、青が私の左手を掴む。
「……なんで、来たの」
私は背を向けたまま、振り返れない。
「好きだからだよ!」
……っ!
「なんでよっ! 私、あんなひどいこと言ったのに!」
「本心じゃないってわかったから。……それに、お前、今日、ちゃんと見に来てくれた」
私は意を決して振り返る。
青の目が、真っ直ぐ私を見つめていた。
「……それは……瑠璃が見たいって言ったから……」
「じゃあ、なんで俺のこと応援した?」
——まさか、聞こえてたの……?
「……聞こえたの?」
「なめんなよ。何年一緒にいたと思ってんだよ」
そう言って、青は私を抱きしめる。
「青……」
「ん?」
「……汗臭い」
「我慢しろ。あとちょっとだけ」
「バカ」
「何とでも言え」
その腕の中は、やっぱり優しくて、安心できた。
「空。もう、離れるなよ。あんな想い、二度としたくない。……絶対に、離れるな」
「でも……私、もう長くないの」
「んなもん、俺がいくらでも奇跡起こしてやる。だから、俺のそばにいろ」
——本当にバカだ。
でも、そんなバカが、大好きなんだ。
私の頬を涙が再び伝う。
「……っく…ううぅ…っくっひっく…ううぅ……」
「なんだよ、空泣いてるのか?鬼の目にも涙」
青は、腕をほどいて、私の顔を見て無邪気に笑っている。
「……ひっく…ううぅ……この……バカ青!アホ青!バカバカバカ青!」
そういいながら、私は青の胸に顔を埋めた。
「まぁ、なんとでも言え。」
そういって、青は私の大好きな笑顔になる。
「青の傍にいる。……もう、離さないから」
私は、青にやっと聞こえるであろう声でそっと呟く。
青はもう一度私を軽く抱き締めた。
青の匂い。汗臭いなんて思うわけない。
青が頑張った証だから。
神様。
私わかったよ。
青の笑顔を私は守りたい。
青の悲しむ顔を、私はこれ以上もう見て見ぬふりすることができない。
だから……青と一緒に戦おう。
青と私の2人ならどんな奇跡でも起こせそうな気がするから。
「あ、空!」
私を呼ぶ声が後ろからする。
この声は……
「美和っ!」
私が振り返ると、クラスメイト全員がそろっていた。
「いやぁー。なんか下で生告白してるって騒ぎ声が聞こえたから……。もしやと思ってきてみれば……。ねぇ?」
美和が、会長と顔を合わせてニヤニヤと笑っている。
「ねぇ?」
会長はもう面白がっている。
「……青が、場所選ばないからだよ?」
私がジト目で睨むと、青は「え、俺?」と驚いた顔をした。
「そうだよ……。まぁ……う、うれしかったけど……」
「何、空。最後の方聞こえなかった」
「知らないっ!」
私は、赤くなる顔を必死に隠す。
クラスのみんなは、にやにやと笑いながら、私たちのことを見てくる。
青は、相変わらず余裕な笑みで私のことを見てくる。
「あ、青。やっと見つけたっ!」
巧の声が聞こえる。
私はあわてて青の背後に身を隠した。
「あ、やっべ。そういや、巧に荷物持たせたままだった」
「青、お前に記者が来てる。キャプテンが今対応しているが、間に合わない。お前も行けっ!」
巧が、再び遠くから青に叫ぶ。
「げ……記者がか?……苦手なんだよな、俺」
青は静かにため息をつく。
「発言、気をつけてよ」
私が、そういうと、青はニヤッとわらった。
「いやぁー。青に変わって俺が受けたいくらいだな」
会長はそういって、青の背中をバシッとたたいた。
「……ったく、しゃーなし行くか。めんどくせぇ……」
「心配すんな。空は俺たちがちゃんと送るから」
そう言って、会長は拳を突き出した。
青は、その拳に自分の拳をコツンと合わせる。
「おう、任せた」
そう言い残し、青は巧の元へと駆けていった。
「空、よかったね」
美和がそっと私を抱きしめる。
「うん。でも……私だけ、こんなに幸せでいいのかな」
「空の幸せは、空だけのもんじゃないよ」
「え?」
「空が悲しければ、私も悲しくなるし。空が嬉しければ、私も嬉しい。だから、空の幸せは、私たちの幸せでもあるんだよ」
そう言って美和は腕を解き、クラスメイトたちに視線を向けた。
「ねぇ、ほんとにお似合いだったよ!」
「見てるこっちまで幸せになっちゃった」
みんなが、温かい言葉を次々とかけてくれる。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
……だめだ。また泣きそう。
「あははっ! 空ってば、ほんと泣き虫だな」
会長がそう言って、私の頭をポンポンと優しく叩いた。
「ち、違うもん……泣いてないし」
そう言いながら、私は顔を上げて笑ってみせた。
「空の笑顔、さらに輝いてるー!恋のパワー?」
美和がニヤニヤしながらからかってくる。
「さあねっ!」
私は笑って、ごまかした。
「じゃあ、帰ろうか」
会長を先頭に、私たちは歩き出す。
「あ、瑠璃は?」
そういえば……観戦中に寝ちゃってたんだった。
「大丈夫。美里が背負ってるよ」
美和が、にこっと笑う。
「空ー、私、病院までおぶってくねー!」
美里の声が遠くから聞こえてくる。
「ありがとう!」
……あぶない。瑠璃置いて帰るとこだった。お母さんに怒られちゃう。
「……眩しい……」
誰かがつぶやいた声。いや、私の声だったかもしれない。
再び見上げた青空は、清々しく晴れ渡っていた。
まるで、私に微笑みかけてくれているみたいだった――。
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「あ、ちょっと!青下手くそっ!」
「はぁ?上手の間違いだろ?ほら、食えっ」
「なんであんなに大きかったリンゴが、こんなに小さくなってんの?」
「皮が厚かったんだよっ!」
「そんなわけないじゃんっ!」
私のベッドについている、机にそっと青がリンゴらしきものを置く。
そして青は、いつも通り私のベッドの隣にある丸椅子に座る。
夕方の私の病室はあの日以来、青が来るから一気にうるさくなった。
次の試合は明後日。
今日も青は、練習帰りに私の病室による。
来なくてもいいって言うんだけど、一度に言ったら青は聞かないから。
「なんだよ、空。お前、俺に食べさせてほしいのか?」
青が意地悪そうに私に笑いかけてきた。
「そ、そんなわけないじゃんっ!この変態っ!」
「俺変態じゃないし!」
「え、どうだか……」
「そんなこと言うなら、俺がこのリンゴ全部食うっ!」
青は、リンゴの入った皿を持ち、私から遠ざけた。
「それ、私のリンゴでしょっ! 返してよ、バカ!」
___パシーン!
私は近くにあった新聞紙を丸めて、青の坊主頭を叩いた。
「……って!……久々だし……。本当にお前変わらないよな」
青は、ニヤッと意地悪そうに笑った。
「変わらないけど?」
「そういうところ、俺は……好きだな」
「な、なに言ってんのよ……!」
私の顔が赤くなるのがわかる。
「あ、照れたっ!」
「て、照れてないしっ!」
「じゃぁ、こっち向けよ」
青の少し低い声にびくっと反応する私。
「な、何……?」
私は顔をあげた瞬間目の前には青の顔ではなく、リンゴがあった。
そして、すこし空いた私の口に青はリンゴを無理やり入れた。
「旨いだろ?」
「……おいひい」
「うははははっ!なんだよ、おいひいって!」
「……っ!笑わないでよっ!口にリンゴが入ってたから仕方なかったのっ!」
青は腹を抱えて笑っている。
だけど、私も、自然に笑みがこぼれていた。
青が、私の隣にいてくれるようになってから、私の病状は驚くほど安定してるって言われた。
青の言う”奇跡”がもう起こっているってことなのかな。
今まで以上に私は笑うようになった。
お母さんやお父さんにも、表情が柔らかくなったって言われた。
青。 あなたは、私にいつも幸せを分け与えてくれる。
あなたと出会って、恋をして、本当によかった。
……きっと、あなたじゃなきゃ、私は前を向けなかった。
私の隣にいつもいてくれてありがとう。
この言葉をいつかあなたに伝えよう。
だから、今は青空にとばしてみることにするよ。
――――いつかあなたに届くと信じて。



