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 「空、なんか今、青くんが悲しそうな顔で出て行ったけど……」

 青が帰ったあと、お母さんが病室に入ってきた。
 私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと枕から上げる。

 「どうしたの空。……青くんと喧嘩でもしたの?」

 お母さんは私の頭を優しく撫でてくれる。
 私はただただ何も答えず首を横に振っていた。
 そのあとお母さんは何も聞かなかった。
 ただ、私の隣で、優しい顔をして私の頭をずっと撫でていてくれた。

 青、ごめん……本当にごめん。またあなたを傷つけてしまった。
 ありがとうも、おめでとうも言えなかった。
 こんな最低な女、もういらないよね。
 本当にさようならだよ、青。
 あなたにはここから、エールを送り続けるから。
 青空を通じて______。

 明日は、青の試合がある。新聞には、相手校の名前──南聖──が載っていた。
 私の中では優勝候補。きっと勝敗の決定はお互いのピッチャーにかかってくるだろう。

 南聖のピッチャーは青と同じ野球の天才。
 まだまだキャリアがないため、青よりは知名度は低いが、今後、青と同じくらい注目を集めることになるだろう。
 彼の名は_____岩崎直樹《いわさきなおき》。

 そんな私の元へ、カラリと病室のドアが開く音が響いた。

 「空、元気だったー?」

 美和が元気よく病室に入ってくる。
 そして、そのたびに、美和はクラスからの手紙を紙袋いっぱいに私に渡してくれる。

 「はい、今週の分ねっ!皆早くもってけってうっさいの」

 そういって美和は笑う。
 私もその笑顔につられて笑ってしまう。

 「ありがとね。毎週毎週」
 「いいよいいよ!空のためならどこまでも」

 そういって、美和は、私のそばにある丸椅子に座った。
 私はゆっくりと、上体を起こす。

 「ねぇ、青くん明日だね?」

 美和が優しく私に微笑んだ。

 「うん……そうだね」
 「楽しみだね。空、体調は大丈夫そう?」

 美和は心配そう顔をしている。

 「うん」

 私はそう言って、口角を上げた。

 「よしっ!じゃあ、明日青くんの試合見に行こうね、空!」

 美和は満面の笑みで、急に私の顔を覗き込んできた。
 驚いて少し上体を後ろにそらした私。

 「だから私外出届が……」


 私がそう言い返そうとすると、美和の顔が険しくなった。

 「空。私にまで嘘つかないでよ……本当は外出許可出てるんでしょ?私今日、空の病室来る前に空の担当医に、なんで空に外出許可出してやらないんだって言ったら、その担当医が、もう出してるよって言うんだもん。マジびっくりしたから!」
 「ああ……そうなんだ……。ごめん。嘘ついて」

 私は美和の顔を見れなかった。
 私のことこんなに慕ってくれている美和に私は平気で嘘をついた。申し訳なさで、視線が下がる。

 「まぁ、わかってるけどね。空の考えてることくらい」

 だけど、美和は相変わらずで、特に私を責めることもなく、笑顔を崩さない。

 「青くんのためでしょ?青くんを自分から遠ざけるために」

 そして、そういいって優しく笑った美和。

 「私の考えていることがどうして……」
 「さぁー。なんででしょうか?私が空のこと大好きだからかな」

 そういって、美和は私の頭を撫でてくれる。

 「……私、もうこうするしかなくて……。青を守りたいから」

 私の目からは次々と涙がこぼれ落ちてきた。

 「私っ……あ、青が……っ」

 涙が止まらず、伝えたいことが伝えられない。

 「空。大丈夫。わかってるよ。だからね、青君を助けたいのなら、明日私と一緒に甲子園いこう、ね?」

 美和は私の背中をさすってくれた。

 「で、でも……私、昨日青に…ひどいことを…っく…」
 「ああ、知ってる知ってる。昨日の夜会長から聞いた。会長笑ってたよ?空が俺のこと嘘の材料に使いやがったーとか言って」

 そういって、美和はくすくすと天井を仰ぎながら笑う。

 「……ふぇ……?なんで会長、私が嘘ついたこと知ってるの……?」
 「あー、昨日の夜、青くんたちのホテルに行ったらしいの。そこで聞いたんだと思う」

 まさかの事態に、涙が止まる。
 野球以外はバカだから、あんな子どもだましみたいな嘘をついてもきっと気づかれないと思ってついた嘘。
 今、連絡ないってことは、もしかしたら青にはばれてない可能性はある。

 「あのさ、空。少し私の思ってること伝えていい?」

 美和は姿勢を正して、私をまっすぐ見てくる。
 私はゆっくりとそんな美和に対して頷いた。

 「私ね、病気の1番の治療法は笑うことにあるって思ってるの。根拠はないけれど、心の底から笑えば、どんなにつらい状況でも、痛みとか軽減されることってあるでしょ?」
 
 美和の瞳は優しげで、窓からの日差しでキラキラとしていた。

 「私は空が大事だから言うけど、空の傍には今、青君が必要なんだよ。空にとっての、この世に一つしかない最高の薬が青君なんだよ」

 美和はそう言って私の手を握った。
 その手はすごく温かかった。

 「空って、青くんの前だと本当に柔らかい笑顔になるんだよ?知ってた?」

 美和の瞳には、涙が浮かんでいたが、美和は無理やり笑って見せる。

 「……柔らかい笑顔?」
 「私ね、青くんの前で笑う空の笑顔が、本当に好きなんだ。だから、もう一度──2人が心から笑い合うその瞬間を、私に見せてよ」

 美和の私の手を握る手が強くなる。

 「……美和。でも、私もう長くないんだよ。……あと1年、生きることができるかもわからない」

 抱えていたものがこぼれていく。
 堰き止めていたものが、溢れてくるのが自分でもわかった。

 「……空。空は自分の病気に負けを認めるの?」

 美和の目は涙をこぼしながらも、まっすぐ私の目を見つめてくる。
 その強さに、私はもう目をそらすことができなかった。

 「……でも……」
 「私は嫌だよ。負けるのは嫌いだもん。私は認めないよ。空が空の病気に負けるなんて!」

 美和の言葉が、私の心を熱くするのがわかった。
 負けたくない……。

 「本当は負けたくない……嫌だ!まだ死にたくない。まだ生きたいっ……私、生きたいよ……」

 私が叫びに近い、感情剥き出しの声でそういうと、美和は待っていましたというように、笑顔になる。

 「だから空。明日、一緒に行こうね?」

 そして、美和が私に優しく笑いかけた。

 「……ん……。ちょっと考えさせて」

 考えたい。
 もう一度、何が一番いいのか考えたい。

 「わかった。じゃあ、明日迎えにくるね。そのとき……返事を聞かせて」

 美和は、少しだけ泣き笑いのような顔で私を見つめていた。

 「うん。ありがとう」

 私がそういうと、美和は涙を拭って静かに私の病室を出て行った。

 何が正しいのか。
 何が間違っているのか。
 そんなの、神様以外わかるはずがない。
 もしかしたら、神様さえもわからないかもしれない。

 このまま、私は青に素直になってもいいのだろうか。
 青は、私のこと重荷に感じるときが来るかもしれない。
 そしたら私は、きっと——

 「ねーちゃんっ!」

 パタンと病室の扉が開いた。そこにはランドセルを背負った瑠璃の姿があった。
 クリクリの目に、少しくせ毛の入った柔らかい長い髪が特徴的な瑠璃。

 「なんで、瑠璃がここに?」

 私が、びっくりした顔でそういうと、瑠璃はあどけない笑顔を浮かべた。
 そして、瑠璃はランドセルを近くにあった机の上に置き、私のベッドに潜り込んできた。

 「ちょっと、瑠璃。暑いって……」
 「えー。だってねーちゃんと暫く会ってなくて寂しかったんだもんっ!あ、そうそう瑠璃ね、あーちゃんからお手紙もらったの。ねーちゃんに渡してって!」

 そういって、瑠璃はポケットに入れていた一枚の手紙を取り出した。
 私は幼い手から恐る恐る受け取る。
 すこし、くしゃくしゃにはなっていたが、それは綺麗な青空の色をした封筒だった。
 私はそっと、その封筒の封を切った。

 空へ
 俺がお前に手紙を書くのは初めてだな。
 ごめんな。
 本当は直接話したいけれど、お前にまた追い返されるかと思って手紙を書いた。
 あのな、空。
 お前、俺との約束忘れてねぇよな?
 俺が、お前を甲子園に連れて行くってやつ。
 お前が来なきゃ、俺一生その約束守れないんだけど。
 どうしてくれるんだよ。
 お前は、俺を嫌いでいい。
 俺のこと、好きじゃなくていい。
 だけど、明日は来い。
 甲子園に来い。
 来なかったときは、病院に乗り込んでやる。
 わかったな!

 青より


 汚い字で、あまりにも一方的すぎる手紙。
 ____青らしい。
 ふっと口元が緩んだ。

 「ねぇ、ねーちゃん、笑ってるの?泣いてるの?」

 瑠璃が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
 気づけば、また涙が頬を伝っていた。

 「嬉しいんだよ、瑠璃。ねーちゃん、笑ってるの」

 そう答えると、瑠璃は安心したように口元をほころばせた。

 「ねぇ、瑠璃。明日、あーちゃんを見に行こうか?」

 私が微笑んで言うと、瑠璃は「やったぁ!」と満面の笑みで喜んだ。
 ……青に、また病院にまで乗り込まれたら、たまったもんじゃないからね。
 あれだけ言われたら、普通なら引くでしょ。
 本当に……バカなんだから。





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 藤青対南聖の試合当日。
 私は病室の洗面台でウィッグをつけ、将星の制服に着替える。
 こうして鏡の前に立つと、とても病気の患者には見えない。少し痩せたけれど、服を着てしまえば、もうほとんどわからない。

 「ねーちゃん、まだ行かないのー?」

 瑠璃が私のスカートのひだをつまんで、駄々をこねる。

 「もうちょっと待って。ねーちゃんのお友達が、もうすぐ来るからっ!」

 そう言うと、瑠璃はぷぅっと頬を膨らませて、椅子にちょこんと座った。
 本当はお父さんとお母さんも行くつもりだったけれど、急な仕事が入ってしまい、残念がっていた。
 だから今日は、瑠璃と私、それから美和の三人で観戦。

 勢いよく、病室のドアが開いた。

 「……っ!……はぁ、はぁ……あー、つっかれたぁー!」

 美和が息を切らしながら、病室に飛び込んでくる。

 「え、そんなに急いでどうしたの?」

 私は美和に駆け寄る。まだ試合まで、けっこう時間あるはずなのに。

 「はぁ……はぁ……空、窓の外、見てみ?」

 「え……?」

 わけがわからないまま、私は窓の外をのぞく。
 そこには、クラスメイトと思しき大勢の姿が見えた。

 「な、なんで……?」
 「びっくりした? 空が青くんの試合見に行くって連絡くれたあと、私、クラスのグループSNSに『空に会いたい人、明日病院の入り口に集合ね』って送ったの。そしたら、みんな来ちゃった!」

 そう言って、美和がいつもの笑顔でウインクする。

 「でも、さすがに全員この病室に入れるわけないし……さ、準備できてる?」

 私は、こくんと頷いた。

 「瑠璃も行くもんっ!」

 ベッドに潜り込んでいた瑠璃が、勢いよく飛び出してきて、私の背後に隠れた。

 「え、え? 空の妹?」

 美和の目がきらきらと輝く。
 あ、そういえば……美和って、かわいいものに目がなかったんだっけ。

 「うん、瑠璃っていうの。ほら、瑠璃。私の友達の美和だよ」

 挨拶させようと促すが、瑠璃は私の背にぴたりと張りついたまま。

 「へぇ〜、瑠璃ちゃんっていうんだ! おねえちゃんね、あめちゃん持ってるんだけど……あげよっか?」

 美和はしゃがんで、瑠璃の目の前にキャンディーを差し出す。
 すると瑠璃は、警戒心ゼロで飛び出し、あめを両手で握りしめた。

 「いいの? 美和おねーちゃん!」
 「きゃーっ! めっちゃかわいいっ!」

 美和が瑠璃をぎゅっと抱きしめる。
 瑠璃は嬉しそうににかっと笑い、全然嫌がらなかった。

 「……美和、瑠璃といちゃつくのはいいけど、時間大丈夫?」

 私が声をかけると、美和ははっとして立ち上がる。

 「そうだったっ! クラスの子たち下で待たせてたんだった! うわぁ、怒られちゃう~。よし、行こっ!」

 そう言って、美和は瑠璃の手を引いて、私を待たずに病室を飛び出した。
 なんだか……瑠璃に美和を取られたみたい。
 ちょっとだけ寂しくなったけど――ふと、窓の外の青空に目をやると、自然と笑みがこぼれた。

 私はゆっくりと美和のあとを追う。
 今日は、晴れ。きっと、青も喜んでるだろう。
 久しぶりの青空の下――この一歩が、間違いじゃないと信じたい。

 病院の自動ドアが開く。
 その先に見えたのは、懐かしいクラスメイトたちの顔。

 「「空、おかえりー!」」

 みんなが一斉に声を上げる。
 胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。

 「ふふっ、空、泣きそうな顔してる!」

 美和が私の頬をつまんで、笑う。

 「ひゃいてひゃひって(泣いてないって)……っく……」

 そう言ったはずなのに、私の目からはぽろりと涙がこぼれた。

 「おねーちゃん、また泣いてる〜!」

 瑠璃が私のスカートの裾をつかむ。
 私は慌てて涙をぬぐい、顔を上げた。

 「だ、大丈夫っ!」

 空を見上げる。
 ……まぶしい。そこには、驚くほど真っ青な空が広がっていた。

 「よし、行こうか! 会長が、とっておきの席、取ってくれたんだよね~!」

 美和が瑠璃と手をつないで駆け出す。
 そのあとをみんなが追いかける。
 もちろん、私も。

 青――
 私が行くんだもん、負けるなんて許さないからね。