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 甲子園球場に響く、藤青学園の校歌。グラウンドではチームメイトが涙を流し、スタンドでは応援団が歓喜に沸いている。
 俺たちは、甲子園という大舞台で――勝った。一勝を掴み取った。

 「青、お前、本当にやるときはやるやつだなっ」

 ベンチを片付けていたとは、町先輩がそう言って俺の頭を撫でて立ち去っていった。
 勝った嬉しさはもちろんあるが、あの決勝の時よりも落ち着いている自分自身に驚いていた。

 「おい、相原」

 片付けを済ませ、球場を後にしようとしたとき、球場裏の倉庫近くで誰かに俺は呼び止めれる。
 振り返るとそこには、川崎の姿。あの、くしゃっとした笑顔で手招きしてくる。
 俺は側にいた後輩に先にホテルに戻るよう告げ、手招きされるまま川崎の方へ足を進めた。

 「まずは、一勝おめでとうな」

 川崎は昨日と何ら変わらないテンションでそう話し出す。

 「ああ。さんきゅ」
 「次の試合の相手はどこか知ってるか?」
 「ああ、南聖だろ?さっきキャプテンが言ってた」

 俺が先ほどキャプテンに言われたことを思いしながら言うと、川崎はふっと笑った。

 「お前、南聖のこと、ちょっと甘く見てないか?」
 「いや、そんなことは……ないつもりだけど」

 南聖の情報は簡単だが頭に入っている。
 今年初出場かつ、野球部創立一年目のチーム。甲子園の初戦、南聖は相手チームのエラーに漬け込んだような勝ち方をしていた。
 舐めてはいないが、将星ほど手強い相手ではないと、そう思ってはいた。

 「南聖には、そんなに球は速くはないが、コントロールがすげぇ岩崎っていうピッチャーがいる。俺らと同じ2年。だから、決してなめてかかるなよ」

 そういって、川崎はそのまま俺に背を向ける。

 「なんで、お前が俺にそんな情報を俺に……?」

 恐らくそのまま立ち去ろうとした川崎。しかし、俺は呼び止める。川崎は半歩振り返り、俺の目をまっすぐ見てきた。

 「勝ってほしいからに決まってんだろ。お前が負けたら、俺ら将星の実力もその程度ってことになるじゃんか」

 そういって、いつものように笑う川崎。
 俺も、つられるように笑みがこぼれた。

 「もちろん。お前らとの試合わくわくした。楽しかった。お前らが、甲子園での一番最初の相手でよかった」
 「俺も。負けて悔しいけど、お前と出会えてよかった。俺もお前との野球楽しかった」

 そう言って、どちらからともなく、お互い豆だらけの手を差し出し握手を交わす。
 そして、俺等は互いにそれぞれの道に戻った。

 川崎誠。きっと他のチームの詳細なデータも頭の中に入っているのだろう。

 あれほど徹底的に相手を研究するのは、空の役目だった。空はいつも、相手チームの情報を徹底的に調べてくれた。練習試合を見に行って、選手一人一人の癖まで記録していた。成績も体調も、全部把握していて、まるで“分析の鬼”だった。
  でも、空がいなくなってからの半年――俺たちは、空が遺してくれたデータを頼りに、ここまでやってきた。 甲子園まで来た。もう一度、お前と会うために。空

 もう二度も失いたくない。
 もう二度と離したくない。

 そんなことを考えている間に、俺はいつの間にか空のいる病院の前に来ていた。

 俺は気持ちを切り替えて、空のもとへ向おう、と思ったが、そこで勝利の余韻をまとったままの汗と土のにおいがこびりついたユニフォームの存在に気づく。
 俺は近くのトイレでさっと着替え、改めて空のもとへ向かった_____。




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 「なんででしょうねぇ……。空ちゃん」

 病院の廊下を歩いていた時、ふと聞こえた空という名前。
 もしかしたら、違う空かもしれないが、一応俺は足を止めて、壁に身を隠しながら、誰が話をしているかのぞいてみる。
 そこにいたのは、おじさん(空のお父さん)と空の担当医である大内先生。二人は、真剣な顔で、空について話しているようだった。

 「私も、その理由が聞きづらくて。本当は行きたいと思うんですがね」

 おじさんが、頭を抱えている。

 「五十嵐先生からは話は聞いていました。相原青くんのことは」

 俺の名前が出てきて心臓が高鳴る。
 生唾を飲むのが分かった。

 「ああ、そうなんですか。いや、それにしても一度空と青はここで顔を合わしているわけですし、一度会ってしまえばもう我慢する必要はないのかなとは思うのですが。如何せんやっぱり意味が分からない……。外出許可が出ているのになんで甲子園を見に行かないのか……」

 そういって、おじさんは「はぁ……」と小さくため息をついた。

 俺を守る?
 なんでだよ。なんであいつは_____。

 俺は、それ以上の話は聞かずに、空の病室へ急いだ。

 「空っ!」

 俺は病室に入るなり、叫ぶ。
 空は一度身体をビクッと硬直させてからゆっくりとこちらをむいた。
 俺は、カバンを無動作に床に置き、空のベッドに両手をついて空の顔をうかがう。
 空の顔は、どこかさびしそうだった。
 どこか悲しそうだった。

 「青、ここ病院。声のトーン落して」

 か弱い声で、反抗してくる空。その声は冷たかった。

 「なぁ……空。お前、本当は外出許可出てたんだってな?」

 俺の声は、いらだっていた。
 なんでだよ。俺たちの約束、お前忘れたのかよ。

 「うん。出てたよ」

 空は、顔をそらさずはっきりと悪びれもなくそう言う。
 そして、空は上体をゆっくりと、おこした。
 俺は、頭を冷やすように一度空から目線をそらし、そばにあった丸椅子に腰を掛ける。

 「なんで……甲子園見に来なかったんだよ」

 できるだけ、感情を出さないようにそう口に出す。

 答えろよ、空。
 お前、子どものころ俺に甲子園に連れていけっていってたよな。俺が納得するような答え出してくれよ。

 「見たくなかったから」

 空の言葉は、ナイフのように突き刺さった。

 けれど、その声はどこか震えていた。
 強がりか、それとも――。

 「なんでだよ」

 誰よりも俺のそばにいて、俺の野球する姿を間近で見てきた空が……なんでだよ。
 自然と握った拳が震えるのがわかった。

 「私、好きな人ができた。だから……」

 一瞬、空の瞳が揺れたように見えた。

 「誰?」
 「……今日、青と戦った――川崎誠」

 空は名前を言う前に、ほんの一瞬だけ躊躇したように見えた。
 俺は唇をかみしめる。

 「川崎も今日試合出てたぞ。なんであいつの姿見に行かなかったんだよ」
 「私が行ったら、青、調子乗っちゃうでしょ?」

 そういって、空はまたもや俺を突き放す。

 「俺になんで勝たないとぶっ飛ばすって言ったんだよ。なんで俺を応援したんだよ」

 どうか、嘘だと言って。冗談だと、いつもみたいに、笑って。そんな冷たい目で俺を見ないで。

 「そ、それは……」

 言葉が詰まる空。

 「……昔の癖」

 そういって、空は俺から顔をそらす。
 そして、空はもう話すことはないというように布団の中に潜り込んだ。

 「……帰って。今日は、ちょっと……体調が、悪いの」

 俺は、それ以上は何も言えず、ゆっくりと空に背を向けた。そして、重たいカバンを持ち上げ、空の病室を後にする。

 帰りは、いつの間にか夕日は沈み、あたりは暗くなっていた。

 甲子園で一勝したのに。
 どうして、こんなにも虚しいんだろう。
 どうして、こんなにも……胸が、空っぽなんだ_______。




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 「ただいま……」

 俺は力なくホテルの部屋のドアを開けた。
 そこには、風呂を入り終えて部屋着に着替えた巧の姿。巧は椅子に座ってくつろいでいる。

 「おお、青遅かったな!って……なんかあったか?」

 そういって巧は心配そうな顔をする。俺は持っていたカバンを床に無動作に投げつけ、巧の正面に座った。

 「まぁ、何から話せばいいんだか」
 「お前、空に会って来たんだろ?」

 巧が不思議そうな顔をする。俺は、仏頂面で「ああ」とだけ答えた。

 「なのになんで、そんな顔してんだよ」

 なんでだって。そりゃあ。

 「空に振られた」

 短い言葉のあと、沈黙が落ちた。
 巧は俺の目をじっと見つめたまま、動かない。

 「本当に空は、そう言ったのか?」

 頷く俺に、巧は俯き加減で言った。

 「……悪い。俺のせいだな。こんなタイミングで、空に会わせちまって……」
 「違う。感謝してる。空の……笑顔が見れたから」

 言ってから、自分の言葉に気づく。
 ――そうだ、それだけで十分だ。
 あいつの笑顔を、もう一度見られたんだ。それだけでも、ここに来た意味はあった。

 「気持ち、切り替えられるか?」
 「……明日までには」

 無理やり作った笑顔に、巧も釣られて笑ってくれた。
 俺は勝ちに来た。チームのためにも、気持ちを立て直さないと。

 「藤青のエースはお前だ、青」
 「さんきゅ」

 その時、ノックの音が響いた。

 「誰?」
 「ああ、誠だよ。なんか青に言い残したことがあるって言うから、俺が呼んだ」

 巧が言い終えると、さっとドアを開ける。
 現れたのは――今、一番会いたくない奴。

 「ちーっす!お、相原。元気そうだなー?」

 川崎は、軽々しく俺の名前を呼んで手を振ってくる。

 「かーわーさーきーっ!!お前、どうやって空を誘惑したんだよっ!!」

 思わず立ち上がり、飛びかかろうとする俺を、巧が必死に押しとどめる。

 「おいっ、巧やめろっ!こいつ一発殴らねえと、俺の気がっ!」

 川崎はぽかんとしていたが、巧が口を開く。

 「……もしかして、空の好きな人って……」
 「そうだよ!空の好きな人は川崎誠、お前なんだよ!」

 言ってから、自分の行動の浅はかさに気づいた。
 元カレとして最低の暴露だ。
 だが、目の前のふたりは――顔を見合わせて、爆笑しだした。

 「あははっ!お前、マジで野球以外はポンコツだな!」
 「ほんとそれ。巧、こいつ面白すぎるだろ!」

 俺は呆然とふたりを見ていた。

 「空が何を考えてるかは知らないけど、少なくとも、俺のことはそういう目では見てないよ」

 川崎は真顔に戻って、ベッドに腰を下ろす。

 「そんなの、なんで言い切れるんだよ」
 「俺、好きな子いるし。空じゃない。空もそれを察して、色々助けてくれたりしてる。……だから、空は俺を“友達”としか見てないよ」

 ……でも。

 「空なら、気持ちを隠して笑うくらい、できるだろ」
 「それ言い出したら、空がお前に言ったことも本当かわかんないよな?」

 川崎が、静かに言う。

 「俺の考えだけど……空は、お前を守ろうとしたんじゃないか?」

 脳裏に浮かぶのは、病院でのおじさんの言葉。

 『……青を守ろうとしているのかもしれないな』

 「つまりだ――やっぱ、やめとく」
 「おい、そこまで言っといてなんだよ」
 「言わない方がいいこともあるんだよ」

 わからない。空の本当の気持ちが。
 けど、確かに、川崎や巧の言葉は、心に刺さって離れない。

 「川崎。なんで空と会って間もないのに、あいつの気持ちがわかるんだよ」

 川崎はふっと笑って、口を開いた。

 「俺の趣味、人間観察だから。たとえば相原――負けず嫌いで、一度のめり込んだら一直線。誰からも好かれる愛嬌もある。空はね、自分より他人優先。感情は出さないけど、それは臆病なだけで、ほんとは誰よりも優しい……そんな感じ」

 その通りだった。
 空は、いつも誰かのために動いて、自分を後回しにするやつだ。
 病気のことも、転校のことも、全部俺に黙ってた。
 それも――俺のためだったのか。

 「どうやら、空のことがわかったみたいだな」

 巧が俺を見つめる。

 「……ああ。でも……」
 「受け入れろ。時間がない。やるべきことは、一つだろ?」

 巧の目が、まっすぐ俺を貫く。

 「……勝つ」

 俺は、小さく呟いた。
 そんな俺を見て、巧は満足げに笑みをこぼした。

 「はいはい。じゃあ、その件はそれで終わりでいい?俺の話していい?」

 川崎は、空気を切り替えるようにパンパンと手を叩く。

 「「ああ」」

 俺と巧の声が重なった。

 「俺が今から言うことを、明日、お前らの口から藤青の野球部全員に伝えてほしい。今日来たのは、南聖の情報を伝えるためだ。知っていると思うが、次の藤青の相手は南聖。南聖で一番警戒すべきは、サウスポーのピッチャー・岩崎。俺らと同じ2年生だ。サウスポーってだけでも厄介だが、一番の脅威は、あいつのコントロール能力。球のスピードはそこまで速くないが、制球力が桁違いらしい。しかも、手元でボールが伸びる。気をつけろよ?」

 少し間を置いて、川崎はさらに続けた。

 「それに、岩崎だけじゃない。他の選手も強豪ぞろい。そして何より驚いたのが、県予選での成績。南聖は、ここまで相手に一点も与えていない。つまり、鉄壁の守りを誇るチームってわけだ。決勝では11対0で圧勝。今年の甲子園、俺の中では優勝候補筆頭だな」

 川崎はまるで原稿を読み上げるように、きっぱりと言い切った。

 南聖の情報が頭の中をぐるぐると回り、俺の身体にゾクゾクとした緊張が走る。

 「なんだ、相原。お前、まさかビビってんじゃねえよな?」

 川崎が笑いながら、俺の顔をのぞき込む。

 「んなわけねぇだろ。ただ……ゾクゾクっていうか、ワクワクしてる」
 「その調子なら、大丈夫そうだな」

 そう言って川崎は立ち上がり、俺の背中をバシッと叩いた。

 「……ってぇ! 手加減しろよ」

 俺は肩をすくめながら、痛みに目を細める。

 「あ、もうこんな時間じゃねえか……。俺ら、そろそろ夕食。誠、お前もう帰れ」

 巧が時計を見て、慌てたように言う。 たしかに、他校の選手がホテルの部屋にいるのを見られたらまずい。

 「よし……じゃあ帰るわ。あとは任せたぞ」

 そう言って川崎は勢いよくドアを開けて出ていった。

 ――嵐みたいなやつだ。

 俺の口元がふっとゆるむ。 けれど次の瞬間、空の顔が頭に浮かび、思わず口をきゅっと引き結んだ。

 「なぁ……青。お前、空のこと……大丈夫か?」

 巧が静かに尋ねてくる。

 「わかんねぇよ。なぁ、巧……死ぬって、どういうことなんだろうな」

 うつむいたまま、俺はぽつりとつぶやいた。

 巧はしばらく黙っていたが、やがてぽつんと一言返してくる。

 「さあな」

 ――きっと、空は自分がもう長くないって、わかってたんだ。 だから、俺をわざと遠ざけた。 俺が悲しみに潰れないように。俺に嫌われるようなことを言って、自分から離れていった。

 ……バカだよ、お前は。

 俺の諦めの悪さ、空はわかってなかった。

 この試合に勝って、優勝旗を手にして、お前のもとに駆けつける。

 俺が、お前を死なせない。 絶対に守ってみせる。今度は俺が、お前を守る番だ。

 空……お前がいなきゃ、俺は野球ができない。

 お前がいなきゃ、「青空」にならないんだ。